前の学校
「これ、貸し出しお願いします」
外国の詩集。ぼんやりしていた私に差し出されたのは、上部にうっすら埃がついていて、背表紙だけ色が褪せている本だった。顔を上げると、片側だけ長く垂れる特徴的な前髪が目に入った。図書委員の当番で私は何度もカウンターで過ごしていたけれど、こんなに分厚い詩集を借りようとする人……それも男子を見るのは初めてで、なんとなく彼のことが記憶に残ったのだった。
「……あの紹介ポップ、きみが書いたのかい」
また別の日、この間とはまた違う分厚い本を差し出しながら、彼が話しかけてきた。
”あの紹介ポップ”とは、図書委員が基本毎月……大体の委員はサボって数ヶ月おきに書かされるおすすめ図書の紹介カードのことだ。私は書けるときはいつも小説を選んでいたけれど、今月は初めて詩集を紹介していた。先日、積み上がる返却本の山の中で、多分また埃を被るまで次の読者が現れないだろうそれが目に入った。なにというわけでもないけれど、本棚に戻す前にふと気になって、表紙を開いてしまったのだった。
「そうだけど……なにか、おかしなとこでもあった?」
ぱらぱらと貸し出し台帳をめくりながら返事をする。味気ない備品のボールペンと共に、それを彼に差し出した。
「いや……むしろ、ぼくの解釈に近かったから気になって」
さらさら、ともう随分インクの減ったボールペンが走る。ふうん、と曖昧な返事をしながらそこを盗み見た。
”花京院典明”。それが彼の名前らしい。そして、横の欄を見ると隣のクラスのようだ。
「ありがとう。それじゃあ」
ぱたん、と閉じた台帳とボールペンを私に向けて、”花京院典明”くんは去っていった。
彼の手にした本は、先月私が紹介した小説だった。
***
それから何度か、彼が借りていた本を私が読み、私が紹介した本を彼が読む。そして貸し借りの際に一言ずつお互いの感想を伝え合うだけの、そんなよくわからない細い繋がりが私と彼の間にできた。その結果、隣のクラスの子に教科書を借りに行ったり、廊下を歩いてるときだったり、私は今まで背景だった人の中から新しく花京院くんを人物として認識するようになった。
「この間、分厚い詩集借りてったから驚いてさ」
ある日の放課後、お茶会とは名ばかりでコンビニの新作お菓子を食べながら世間話に興じる女の子たちの中に私もいた。不定期に開催されて、その度にメンバーもいたりいなかったりする気楽なおしゃべり会で、私も図書委員の当番が重ならなければお菓子をつまむことにしていた。
「”花京院典明”? ……ああ、いつもひとりでいる」
「あー、そういえばあいついつも本読んでる気がするわ」
「あたしこの間、花京院が何もないとこ見つめてるの見た」
「いやそれは嘘でしょ、コワ~」
今日は、隣のクラスの女の子もいたので、それとなく名前を出してみると、どうやら彼は常に本を読んでいるか虚空を眺めていて、誰かと雑談する姿は見たことがないらしい。
最終的な女子的評価は、"そういや顔は悪くないけど内向的すぎて判定不可"とのことだった。
「顔といえばさ……」
「えー、それなら……」
彼は本当に話題に事欠く人物のようで、女の子たちの話はすぐに野球部のなんとかくん、サッカー部のだれそれ先輩に移っていってしまった。
***
「エジプト?」
いつものように本を差し出しながら、彼が口にした言葉を返した。
「ああ。家族旅行で、今週末にね」
いつものような本とは毛色の異なる、いわゆる旅行本の表紙の国名を花京院くんが記帳し終える。
「そっか、良いねー、海外旅行なんて羨ましいなあ」
いつもならば、私が相槌を打ちながら台帳とボールペンを受け取るのを確認するとすぐ背を向けていく彼が、今日はまだそこにいた。いつも本の話しかしない私相手に言うくらいだから、いつものようにすました顔をしているけれど、彼もきっと旅行が楽しみなのだろう。私なら、絶対誰かに話したくなってしまうからわかる。
どこらへんに行くのか、何に興味があるのか、そんなことを私が聞いて、それに花京院くんがぽつぽつと返して、いつも本の感想を言い合うみたいに、静かに、短い言葉同士で会話をした。
未だに覚えているのは、彼が妙にこわばった雰囲気で私にお断りを入れてきたことだ。
「……もし、迷惑じゃなければ、」
「ん?」
「きみにお土産を買ってきてもいいだろうか」
「なんでそんなに、物をくれるって言う側が申し訳無さそうなの!」
その時の花京院くんは、前髪をいじったり、腕を組んだり、また口元に手を当てたりしていて……それがなんだか妙に面白くって思わず私は吹き出してしまったのだった。
「ありがとう、お土産、楽しみにしているね」
「ああ。この本を返しに来るときに、土産話と一緒にきみに渡すよ」
そう言って彼が図書室を出ていってから一週間後、二週間後、ひと月後、半年後、一年後、…………。
私が毎月毎月欠かさずポップを書き、図書委員長を終えて卒業するそのときまで、延滞者の欄には……ずっと彼の名前が残り続けた。
(200531)
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