障子目蔵は顔をしかめていた。彼のリーゼント然としながらも下がる前髪、首から顔下半分を覆う布、そして彼の高身長によって、すれ違う人間が気づくことはなかったが彼の顔は険しく歪んでいた。
 一歩一歩、僅かに揺れるたびに痛みが襲う。
 ヒーロー学、その実技の授業には大なり小なりの怪我がつきものだ。擦り傷程度であればさほど気にすることはないが、障子が負った傷はどちらかと言えば大なりに入る傷だった。ペアの相手を庇った時に、障子の"個性"である複腕、その右下側の皮膜を少々割いてしまったのだ。10cm程とはいえ血も滴る傷に、組んでいた常闇はすまなさそうに保健室までの付き添いを当然申し出た。しかし障子はそこまで深く裂けたわけじゃないからと首を振り、更衣室を後にした。仮にわざわざついてきてもらっても、リカバリーガールの治療方法は人手を必要としない。担任の言葉を借りて合理性に欠けるからと断ったが、本当はヒーローになるまでもなってからもついてまわる怪我にいちいち痛がっている姿を見られたくない、という強がりもあったのかもしれない。複腕も皮膜も無い人間に痛みを伝えるなら、冬の唇のひび割れを更に悪化させたような……とにかく鋭くじくじくとあとを引く痛みが彼を襲っていた。
 そうして耐えて辿り着いた保健室の戸をノックしたが、返事は無かった。障子は少し悩んだが、ドアの引き手に触れてみる。鍵はかかっていないようで、スウと隙間が開いた。そのわずかな空間に複腕を這わせ、先に複製した目で中を伺う。いつもリカバリーガールが座っている椅子に、人影は確認できた。しかしそのシルエットは見知った老婆のものではない。予備の保険医だろうか、それならそれで簡易的な処置だけでもして貰おう。障子はもう一度、先程より強めにノックをしてドアを引いた。
「えっ……あ、あの、すみません今は……」
 そこにいたのはやはり白衣のリカバリーガールではなく、見慣れた制服姿の……女子生徒だった。堂々と部屋の主の椅子に腰掛けているその女子生徒は、障子の立つ戸口に振り向くや否や、目を丸くして言葉を中途に飲んだ。驚きと、怯え。障子は内心ため息をつく。腕が6本、そして皮膜。"個性"が発現した時から……常時発動型で異形系の"個性"の持ち主ならばまま経験させられる反応。加えて190cm近くの縦に長い男がのっそりと現れては……少女の反応はもっともなものだった。
「あ、ああ、すみません、同じ生徒……ですよね」
 なんと声を掛けるか迷っているうちに、女子生徒は障子の着ている物が、体格のためにノースリーブと仕立て替えられているが同じ雄英の学生服だと気が付いたようで丸い目を戻した。静かな目は、障子を見、自身の傍らの机を見、また障子を見る。
「すみません、今、リカバリーガールはいないんです」
「見ればわかるが……どうもそうらしいな」
「あっ……すみません」
 複腕の先の口で障子が応えると少女はまたびっくりと目を開き、そしてまたまたハッとして、頭を下げながら表情を落ちつける。よく謝るやつだ。前後するつむじを眺める。口癖、そして癖なのかもしれない。
「私、普通科の……ええと、、です」
「そうか。なんでここにいるんだ? 保険委員、とかか」
「あの、私、なんというか……そ、そんな感じです……」
 、そう名乗った少女は複腕の先でパクパク動く口を凝視しながら受け答えをしていた。まだ驚いているのか、怯えているのか……それとも物珍しさからくる視線なのかは、分からない。
「隠すこともないかもですが、リカバリーガールの孫、というか……なんというか……」
「血縁?」
「正確には、その姉の孫、です」
「そうか。それで……」
 手当はできるのか。
 今この瞬間も痛みが意識を刺してくる障子にとっては、彼女の身の上よりもそこが重要だった。リカバリーガールに関わる者で、ここに入り浸っているようなら消毒液やガーゼの場所くらいは知っているかもしれない。そう思っての言葉だったが、それを聞いた瞬間、はびくりと肩を揺らした。頭を叩けば零れ落ちそうな目がぐるぐると泳ぐ。明らかな動揺。しかし、胸の前で両手を握って2,3度の深呼吸を挟むと、また先程までの大人しい顔に戻っていた。気弱そうだが、気持ちの切り替えは出来る方なのだろうか。まだ眉毛は不安そうにハの字をしているが。
「大丈夫か」
「すみません。か、簡単なもので良ければ、やります、やらせてください」
 とりあえず傷跡を、と手招きされるがままに彼女に近づき、腕を上げて皮膜の傷を晒した。動作の一々でまた傷が疼き、髪に隠れた眉間に皺が寄る。ここまで腕を畳み、気休めでも止血を試みていた分か、傷口を広げたことでたらりと皮膜を伝い落ちるものがあった。
 障子は、すぐにおどおどとした態度を見せるこいつで大丈夫か、出直したほうが良かったか、などと考えていたが、対するは先程までの頼り無さはどこへやら、真剣に皮膜の傷を見つめていた。数秒そうしたのち、長く息を吐いて、彼女は気合を入れるように拳を作った。
「あの、すみません」
 本当に、よく謝るやつだ。なんだ、となるべく威圧しないように複製口を彼女の顎あたりまで下げて短く応えた。
「私の"個性"で直させていただいても、良いですか? あっいえ、もちろん、消毒液とガーゼがいいなら、そちらでも……」
「早く済むならなんでも良い」
「早く……"個性"のほうが早い、です」
「わかった」
 ここに来る途中にすでに次の授業のチャイムはなっている。保健室に行くことはクラスメイトに伝えてはいるが、無駄に授業に遅れるのもよいとは思えない。早くしろというのは正直な気持ちだった。
「ありがとうございます」
 礼を言うのは手当を受けるこちらじゃないのか。つくづく、変なやつだ。障子は、おもむろに椅子から立ち、改めて傷に近づくを眺めながら思った。
「それでは……」
「……っ」
 びくり。今度揺れたのは、障子の肩だった。だがそれは、傷に彼女が触れた痛みからではない。いや、わずかに痛みはあったが、また別の要因だ。
「ん……あの、大丈夫ですか?」
「……」
 障子は大きく瞬いた。そうだ、冷静に考えれば予測できることだった。"個性"はおおよそ遺伝する。リカバリーガールの姉がどのような"個性"であったかは分からないが、血縁にあるが"個性"で治療するとなればあの老婆と似通ったものになるであろう、ということは。
 傷口に顔を埋めた彼女は、緩慢なほど慎重に、もどかしいほど 丁寧に、 しかし続けざまに、その唇を落としていく。熱を持つ傷に、どこかひやりとした、やわらかいものが押し付けられていく。時折、ぬるりと、ぞろりと、控えめに"何か"も患部を這う。間を埋めるように聞こえてくるリップ音は、そこが血で濡れているが故か。障子は、ぞわり、ぞわりと皮膜から腕、肩から背中、全身へと粟立ちを促す感覚を抑えるのにただただ集中した。
 授業時間で静かな廊下。 ふたりきりの保健室。腕の内にすっぽりと隠れた、女子生徒の熱心なくちづけ……。
 気を抜けば、どうにもいかがわしい情景に思えてしまう。少なくとも、クラスメイトの一部には絶対に見せられない。
「……すみません、お待たせして」
 障子が心を無にすることに注力していると、控えめな女声が座禅ならぬ立禅の終わりを告げた。見下ろすと、柔らかそうな前髪の隙間からは達成感に満ちた顔が先程まで傷があった部位を見つめていた。それにしても、そのあまりにも輝いた瞳と表情には、なにか引っかかりを感じるものがある。
「綺麗に塞がりました、私、できました」
 しかしくるりと見上げてきた双眸に、それは頭の片隅に追いやられた。それを細めて嬉しそうにはしゃぐ彼女は、笑顔だった。
 初めて見る端の上がった口元に、障子は短い溜息を吐き出してから、自前の手を伸ばした。彼女の顎に、頬に、障子自身の体格と同じく人より大きい手を添え、男らしく平たく無骨な親指で、女らしいぷっくりとやわらかな曲線に盛り上がるそこをゆっくりと、じっくりと、治療の仕返しのような動きでなぞる。
「え? あ、え……?」
 親指が動くにつれ赤に染まっていく頬に、障子は耐え切れず喉で笑う。がちがちに固まってしまった彼女から、わざとらしく緩慢な動きで手を離し、親指を見せつけてやる。
「顎と……唇がよごれていた。まるで吸血鬼だ」
 は、蚊の鳴くような声でありがとうございます……と呟いた。縮こまり消え入りそうな様子がこれまた可愛らしく映り、自分はもしかしたらサドの気があるのかもしれないと障子はほんの少しだけ、本当に微かに思った。
「えー……あー……あっそうだ!すみません名前を聞いてもいいですか? 保健室の利用者名簿に記入しておかないと!」
「ああ。障子……障子目蔵だ」
 逃げるように慌てて顔を背け、ボードに挟まれた紙を弄り始めた少女は、その必要はないだろうに覚えるように何度も繰り返し男子生徒の名前を呟いていて、どこかむず痒い気持ちが沸いてくる。
 女子生徒に治療の意味しかないくちづけを、しかも複製腕の間にされて意識するとは……認めたくはないが自分もまた男子高校生……思春期真っ盛りなのだと、障子目蔵は自嘲した。


あとがき
確か障子くんで3~5話くらいの話を書こうとしてよくわからなくなったやつ。 (160701)


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