その人に会った瞬間に世界が七色にはじけるような、そんな恋がしたいと思っていた。
 現実は違っていた。
 私の目の前にいる男は、会った瞬間に世界を灰色の一色に染め上げた。そうしてその男だけを際立たせるような、そんな男だった。無味無臭の空間に臭い立つ腐った果実を放り込むような、とてつもない不快感を以て注目を惹かせた。
 最初にその男を見たのは、我が家の前で、父の横に立っている姿だった。我が家は熱とどす黒い液体で赤く染まっていて、父は地面で布を巻いて寝転がっていた。父上、そんな所で寝ていたらお風邪を召されますよ。そんなことを呟いたような覚えがあった。もうもうと立ちこめる灰色に、ぼんやりと、じわじわと、思考も視界も覆い隠されていた。
「俺は、報恩は報恩で、報復は報復で返しますよ。」
 ですから貴方もご自由に。全てが覆われ手放す時に耳に届いた、掠れて響く印象的な低い声を、私は一時として忘れたことは無かった。
 幾ばくかの歳月が経った。私は花盛りになっていた。まだ子供が抜けきってはいなかったが、引き取られた家を興す策略の為にいずこか嫁に行くのだろうとは分かっていた。ままならぬ自由の中で、せめて、その相手に対して恋をしよう、幸せになろうとそれだけを希望として、花の時を過ごしていた。
 お前を嫁がせる先が決まったと、そう養父に告げられたのは秋だった。庭の木々が目に痛いほど鮮やかに色づいていたのを、覚えている。その頃の私は、女中や街の女性の会話から恋をすることについて考え、その希望で胸をいっぱいにしていた。この世界がより色付いて、石榴のような沢山の甘酸っぱさで私を覆ってくれる。それが恋だと、そんな恋をするんだと信じていた。めおととはいえ恋をする必要はないのだという意見もあったが、そんなものを私の心は聞いてはいなかった。夢見る少女の、愚かな盲信であった。
「此度の話を受けてくれて、感謝しますぞ法正殿。」
 部屋の外で父とその相手方の話す声に耳を傾けていた。上等な着物は少ない着る機会のせいで固く、それが私の緊張をより一層表しているようでもあった。どのような人かと聞けば、なんとも国の重鎮の一人でいながら私を強く欲してくれているとの話だった。この蜀の国において,仁徳の国の重鎮が自分を、ともなれば、何も知らぬ少女が期待でいっぱいになっただろうことは想像に難く無いだろう。事実、私は浮かれていた。絹の着物は天女の羽衣で、色に染まった木々を背に舞い踊る。そんな心地でいた。
「いいえ、受けた恩を返すのは自分の信条です。」
 耳に届いたその声に、天女は布を纏ったままに墜落した。木々は赤く燃え落ちた。ああ、そんな、まさかと私は自分の耳を疑った。そうして姿を現した婚約者は、あの男だった。私はその時なにを叫んだのか、どう狂ったのかは覚えていない。目を覚ました時は知らない寝台にいた。横の椅子には男が腰掛けていた。寝起きの頭で、私は自分の状況を理解していた。ねぼけて無心の心は、悟りの境地に近かった。
 私は、この人と恋をするのだろう。
 自分の人生を狂わせた男と、めおととなり恋をする。出来の悪い悲劇か何かのようで、くらくらした。
「まだ気分がすぐれないのか」
 ああ、間違いない。耳に深くひきずって残る低いあの声だ。
「なぜ」
 横たわったまま、声を出した。どうしても聞きたかった。かすれた声は小さかったが、わかりやすく震えていた。その震えは混乱か、寒気か、それとも恐怖か。情けなさで今すぐ消えてしまいたかった。
「なぜ、私と恋をしようと思ったの」
 男は、鋭い目をわずかにだが見開き、固まった。それは、私の言葉が理解できないと言うようだった。数秒の沈黙に耐えられずにもう一度同じ言葉を繰り返すと、男は片手で顔を覆い、肩をふるわせ始めた。私の問に涙した、わけではない。低い声は、確かに笑っていた。くつくつとこらえるように、確かに笑っていた。それが嘲笑であることは私にもすぐにわかった。男は笑いを交えながら応え始めた。
「そうか、恋か。恋が貴方の望む報復か。」
「なにかおかしいの。だって、私とめおとになるのでしょう。」
「ああ、そうですね、確かに」
 男は笑い続けていた。私がなにかおかしなことを言っているのだろうか。混乱が顔に出ていたのか、男は簡単なことですよ、と言った。
「貴方の父親への報復がいきすぎてしまいましてね、その分に報いているのですよ」
 もう目が覚めてから十分時間は経っていた。男の言葉が理解が出来ないのは、決して寝ぼけていたということではないだろう。父が男の邪魔をしたこと。それを報いただけのこと。男の中の基準でやりすぎたということ。私を不自由なく生活させることが報いのつもりだということ。その為にめとるということ。男の言葉はどれ一つとして理解の範疇を超えていて、私は幼少の頃に父の書簡を見た時の気持ちを思い出していた。
 男はひとしきり話し終えたというふうにひとつ息をついた。
「報いに、恋をしてみるというのも面白い方法ですねえ。」
 私の目をまっすぐ射抜く視線に、私は酷く不思議な感覚に襲われた。周りを見る事が出来ない。釘でうちつけられたように、男から目をそらせないのだ。市場で珍しい菓子に心躍った時のような、初めて馬に乗った時に頬を撫でる風の爽やかさのような、昔義兄にお気に入りの筆を折られた時の激しい怒りのような、そのどれにも似てどれにも似つかぬ、心全体がざわつき、ざらつく感覚はなんだろう。私はたまらず上体を起こした。じっとしていては、体の内を数多の鼠が駆け回っているような感覚に殺されてしまいそうだった。目の前の男からとにかく意識をそらせなくてはならないと思った。
「俺は報恩は報恩で、報復は報復で、同じだけを何が何でも返す男ですよ。たとえ、それが一生を掛けたものでも」
 伸びてくる腕に、私を抱き寄せる男に、抗えずにいた。

 私は、どうしようもなく恋に憧れていた。


あとがき
mutti様より”よろこびなさい、これを恋だとわらうひと” (131207)


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