紙の上に、花弁が落ちた。またか。佐吉、後の石田三成は何度目かになる邪魔者に舌打ち、うるさそうに紙面を払った。白に近い、薄い桃色がひらひらと舞い、畳に落ちる。それは桜の花弁だった。季節は春。ひと月前まで皆が皆あれだけ寒がっていたのが嘘のように温かった。佐吉が苛立ちながら窓に目を向ける。丁度そのそばでは満開となった桜があり、風がふく度に花弁が部屋に舞い込んだ。春の心地よい気候は喜ばしいものではある。冬の凍える寒さや夏のうだる暑さの中勉学をするのとでは、当然丁度良い暖かさで励んだほうが進捗は良い。うるさい子飼い仲間などは本を放り出し庭で遊びまわった挙句に昼寝をするのにいい季節だ、など宣うだろう。とにかく、佐吉の勉学はいつもより捗っていた。ただそれは午前中だけで、昼が過ぎると風が出てきてそれが運ぶ風物詩に邪魔をされていた。桜に対しては綺麗であるという気持ち位は持っているが、流石にこう何度も筆を運ぶ邪魔をされては鬱陶しい上に、これから日が傾くに連れ風が強くなってしまえば今度は紙が飛ぶかもしれない。佐吉は筆を置くと、襖を閉めようと窓に近づいた。
「おお、佐吉!」
襖に手をかけたところで、桜が自らを呼びかけた。ここは二階であり、同じ高さから人の声がするはずがないのだが、その声には覚えがあり佐吉は小さくため息を付いた。陽の光に目を細めつつ目の前で誇るように堂々と咲く桜の花を注視する。視界は薄い桃に覆われる中、堂々とした異色はすぐにみつかった。
「姫様、何をなさっているのです。」
そこにいたのは豊臣の養女、姫だった。姫を冠してはいるのだが桜の枝に座り足をぶらぶらさせている様はまるでどこぞの村娘のようであった。もっとも着ているものはとても比べられるものではないのだが。たかが4,5つほど年が違うだけでこれだけ違うものか。いくら10に届かぬ歳の子供であるとはいえ、あんな高級なものを身につけたまま汚い所に腰掛ける姫の常識を疑うとともに、恐らく彼女に影響を与えたのであろう子飼い仲間の馬鹿者に佐吉は心中で悪態をついた。
「落ちて泣かれたりお怪我をされては迷惑です。即刻、お降り下さい。」
佐吉のお姫様に向けて丁寧なのは言葉遣いだけで、声音は実に刺々しかった。だがはでそれに慣れきっているのかさして気にする様子もなく笑い、佐吉のいる窓に近づいてきた。いくら彼女が子供で軽いとはいえ、枝が折れたらと佐吉はひやりとした。それと同時に考えなしの幼姫に苛立ちもし、より強い口調で注意をしようとするが、顔面への強い衝撃に悲鳴が上がるだけになった。
「な、なにを、何をなさるのです!」
「佐吉、本を呼んでくれ!」
「は?」
自らの顔に勢い良く飛び込んできた後、音を立てて足元の畳に落下したそれを見れば何かの冊子であった。ひとまずかがみ、それを拾い上げて顔を上げれば、は窓のふちに手をかけていた。
「姫様、何をなさっているのです。」
自分が先ほどから阿呆のように同じ質問を繰り返していることを考えないようにしながら、佐吉はが落ちてしまわぬよう慌てて本を置き直しの腕を掴んだ。
「本があっては窓に飛び移れないのでな。」
「そういう問題では、ありま、せん!」
枝と窓の縁に器用に足をかけたを室内に無事に引き込むことに成功した。秀吉様にとって大事な姫君に大事があったら、と半ば嫌な汗をかいた佐吉を横目に当の本人は、おお、と脳天気な声を上げて飛び込んだ勢いで畳を転がっていた。
「それで、何をなさっていたのですか。」
「佐吉に本を読んでもらおうと思ったのだ。」
「それはさっき聞きました。何故にあのような奇行に出たのですか。」
「桜が綺麗だったから。あ、あとうるさい目付けに見つかりたくなかったのじゃ。」
佐吉は話しかけながら机のそばにもう一つ座布団を出し、を座らせた。わざわざそのためだけに木を登り窓に飛び移るなど全く元気にも程がある。佐吉は初老のお目付け役の心中を察し、軽い同情を覚えた。
「しかし、私は今勉強をしているところで……姫様、この本は?」
「先日市松とお虎とかくれんぼをしていたときに見つけたぞ。」
どうやってこのじゃじゃ馬姫を穏便に追い返すかと考えながら、佐吉は先ほど鼻面に叩き付けられた本に目を落とす。佐吉の細長い目が丸く開かれる。その本は軍略書、つまり戦における策や陣形を記した兵法書であった。そしてこれは佐吉が軍師に教えを強請り、まだ早いと一蹴されてしまった、佐吉にとってはまさに垂涎の本であった。隠す気もなくあからさまに面倒くさそうだった佐吉の表情が変わったことに、も良く分からないながら楽しそうに目を輝かせた。
「見たら絵がいっぱい書いてあるから面白そうで持ってきたのだが、良いものなのか?」
「そうですね、私が姫に心からの敬意を評したいと思うほどには……。」
「ふむ、私にはよくわからないが、佐吉にはわかるのか!やはり佐吉のところに来るのは正解だったな!」
きゃっきゃとはしゃぐを尻目に数頁めくれば、なるほど確かに難しく学びがいの有りそうなものとはすぐに分かった。普通に邪魔です、と姫を追い出すことも出来る。しかし実際の所、佐吉は姫が元気すぎて自分と合わないと思っているだけで、そこまで冷たく当たるほどの嫌な感情は持ち合わせていない。なにより自分が目を通してみたかった本を持ってきてくれたこと、そしてわからないことをいの一番に自分に聞きに来たということ。佐吉の中のの印象が大分良くなっていた。なに、人に対して解説しながらの方がゆっくり、そして確実に自分の頭に入るだろう。……教える相手は理解できないだろうが。
そうして佐吉は図と文章を行ったり来たりしながらその難解な内容を口に出しながら噛み砕いていった。
「そうして右翼を崩すことができるため、この陣形に対してはしばしばこの策が用いられるということか。……姫様?」
「む、どうしたのだ佐吉?」
「いえ……退屈でとっくに眠られていると思っていました。」
一刻以上はたっただろうか。佐吉は時々傍らのぬるい水を舐めながら軍略書を読み込んでいた。あまりに夢中になってしまいのことを忘れていたが、いつも勉強をさぼる子飼いとともにお茶の練習などをさぼっては遊びまわり昼寝をするのことだ、すぐに飽きて騒ぐか眠っているだろうと思っていたのだ(その分の勉強やお茶の練習のしわ寄せはしばしば佐吉に来ていたのだが)。意外だ、と佐吉は驚きを隠すこと無く伝えた。は眠さを全く感じさせない爛々をした目で佐吉を見つめていた。
「佐吉はすごい。」
「突然なんですか。」
「いやあ佐吉はすごい!私より少し大きいだけなのに、私よりたくさん物を知っている。以前はお茶も教えてくれたな、私よりいろんな事ができる。佐吉はすごい!」
まっすぐに自分を見据えて、何度も何度もすごいと繰り返す。それしか褒め言葉を知らないのか、馬鹿者、と心の中で悪態をつくが、それが気恥ずかしさの裏返しであることに佐吉自身はっきりと気がついていた。素直じゃないな、という子飼い仲間の声が聞こえそうだ。他人から褒められるのは珍しいことではない。しかし、何度も繰り返されるまじりっけのない称賛が、やたらと輝かしく、やたらと嬉しい。そうして数拍置いて出る言葉はやたらと普通なものだった。 「ありがとう、ございます。」
なお数日後、軍略書のことがばれたが、その中身を物にする頭の佐吉の巧みな口述によって佐吉、そしてはこのことに関して怒られることはなかった。しかし桜の花と泥だらけなうえ解れた着物のことではお説教を食らっていたのは言うまでもない。
あとがき
丁度桜が綺麗に咲いてるから季節を合わせてみた。前作から数年経ってる設定。よーし次は虎之助だー。
あと豊臣の姫って言ってるけど多分時代的に羽柴かな……?
(140403)
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