「もうつかれた」

 女がそう呟いた。と自分がいるのは空虚な部屋だ。部屋にあるのは小さな棚と椅子と、そしての横たわる寝台だけ。いくらでも彼女の好きなものを置けるようにと、広い部屋を用意した。だがに何が欲しいか、不自由はないか、聞けども聞けども首が横に動くだけであった。その簡素な部屋の真ん中で、はそう言ったのだ。疲れた、と。にはどんな不幸もさせまいと、陶器のような白く滑らかな指に傷ひとつ付けまいと、ただいてくれれば良いと、一日中ここに居るのだ。言葉の意味が、意図が分からずに俺は首を傾げた。聞き間違いや幻聴ということもあり得る。……なにせ、俺は女の言葉を久しく聞いてはいないのだから。
 は、幾日ぶり、いや幾月ぶりかに俺を見て、そして静かにぽつりと、再度同じ言葉を繰り返した。それは力も抑揚もない声で、先日処刑した悪あがきだけが達者だった無能の、最期の声にも似ていた。全てを諦めた男の声に、何故輝かしいの声が被るのか。些か不快な感覚に、気のせいだとかしげた首を戻し、どうした、と短い問いを投げた。はもう俺から目を離していた。また空虚を眺めて、そして、小さく笑むだけだった。
 いつの日だったろうか。一目見た時よりの笑顔は、ひどく俺を惹きつけていた。破顔一笑のように溌剌とした笑みではなく、彼女の笑みは小さく、穏やかであった。例えるならば新月の夜の蝋燭の炎のようで、ささやかで儚いが、目を惹くものであった。派手さは無いが、暖かく輝かしい女だと思った。
 しかし、ここにあるのは、うつろでぼんやりと鈍い輝きだった。
 そんなことは、俺にとって、些末でしかなかった。
 俺は、喜びに喉を鳴らしてた。一体どれだけの長い間俺がの声を、目を、笑みを感じていなかったか。ああそうだ。
 彼女の声を聞いたのだ。
 彼女が俺を見つめたのだ。
 彼女が笑みを浮かべたのだ。
 それが俺にとっては全てを僥倖の内に掻き消すものだ。赤く濡れたべたつく両の手も、涙に濡れた冷たいの袖も、黒く染まりきった自身の姿も、白く濁りきった彼女の瞳も、その全てが、全てを。
 そうだ、彼女の笑みは刃に似ている。俺はと共に有れるのだ。堪らない。俺はまた喉の奥で笑った。
 はた、と気付く。彼女を穢してはいけない。舞投刃を拭おうとするが、遺憾、塗れた己の両手では叶わなかった。空虚な部屋に舌打ちが響いた。


あとがき
3つの恋のお題ったーより、「もうつかれた」 (140820)


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