「もう少し自分を飾ってやったらどうだ」
 ぽつり。賈充が口を開いた。んんー、と気の無い返事が殺風景な部屋に空しく響く。部屋の持ち主である彼女は、女性らしさの欠片も無い部屋と同様に、髪の毛にも服装にも全く飾り気がない。彼女の向かいに座る賈充は彼女の手をとって、その感触に思わず口を開いたのだった。賈充は、女の幼馴染だった。もっとも、そうでなければ賈充ほどの身分の人間が下町の更に僻地になど来るはずもないのだが。彼女の父はかつてこの広い魏の中でも指折りの装飾技師であった。名のある武将の名のある武器の装飾をこしらえ、特に賈充の父はその技術をいたく気に入り、屋敷の装飾まで任せるなど懇意にしていた。その娘である彼女は父の技術や感性を全て引き継いでいた。悲しきは彼女が職人気質を悪い方向に開花させてしまったことだろう。そのために、幼いころより賈充は何かと彼女の生活態度を気にかけ世話を焼き、そしてずるずると慣習化したそれは二人が大きくなってからも続いていた。
「特に手は、お前の商売道具だろう。」
 ざらり。まるで質の悪い書き布のように荒れた肌。いくら職人とはいえ、は女なのだ。もう一方の手で、その質の悪い書き布に装飾の覚書を依然続ける彼女本人が何も考えておらずとも、いや、考えていないからこそ、また賈充は気を向けてしまう。
「でもほら、私が綺麗にしてもそれを見る人なんて、いないと思うの」
 彼女を見る人がいない。そんなわけはないだろう。賈充はわずかに目をきつくするが、元々の目つきの悪さのせいか、彼女は気付く様子は無い。一体誰が幼いころから傍であれこれとしてやっていたと思っているんだ。
「それに、何かしてもどうせ色々作るんだから、手の荒れなんて直らないと思うの」
「それでも、やるのとやらないのとでは全く違う。」
 賈充は手荷物からいくつかの容器を取り出しながら溜息をついた。同じ物臭な司馬昭へいつも言うような嫌味も、彼女にはもう十年と言い続けた。意味は無いと分かっているので、いつものように、勝手にやらせて貰う。
「ほら、手を出せ。」
「お菓子でもくれるの?」
「そんなわけがないだろう。書くのをやめろ、両手だ。」
 掌程度の大きさの容器を開ける。中身は、油だ。ここいらでは最上の品質の、保湿成分を多く含んだ香油である。は、そんな美容のことなど知らずとも容器の模様から良いモノなんだろうな、と推測していた。自分が持つなんてとんでもない宝の持ち腐れだと両手を差し出しながら、口に出したらあの胃の底に響いてくるような低い声で小言を言われるのは分かっているため、あくまで心の中で呟いた。
 賈充は香油を掬った手で、の手を包み込む。じっくり、彼女の手に、荒れた皮膚の一筋一筋にしみ込ませるように、手を動かした。賈充の丁寧なその動作を眺めていた。良い、香りがする。これは何の香りだったか、は記憶の引き出しをひっくり返した。そうだ、昔彼の家の庭に植えてあった花の香りだ。幼い彼が、それで髪飾りを作ってくれたことがあった。公閭は小さいときから器用で世話焼きだ、と思うと同時に、自分はその頃からお洒落に無頓着だ、と少し、本当に少しだけだが、申し訳ない気持ちになった。なっただけで、これからも幼馴染に頼りっぱなしで何も変えるつもりはないのだけれど。
 そうして時間が過ぎ、の瞼がそろそろと下り掛けた頃、賈充は容器の蓋を閉めた。
「まだだ」
 嬉しそうな顔をして、終わったの、とが言おうとするのを遮って、賈充は小瓶に手を伸ばした。お前のためにやっているのだと言うのに、まったく、なんて顔をする。不満そうな顔の彼女をじっとりと見てやれば、焦ってごまかすように座り直す。その様子が少しおかしくて賈充は小さく微笑んだのだが、には余計恐い顔に見えたのだろう、背筋まで伸ばしていた。
「その瓶は何、蜜?」
「そんなわけないだろう。ほら、手を隠すな。」
 小瓶の中にはとろみのついた液体が入っていた。赤色のもの、青色のもの、緑のもの、黄色のもの。賈充は、一つ一つの中身をに見せながら小瓶を開けた。何に使うのか、と首をかしげる彼女に、爪が割れないように塗るものだ、と説明しながら自分の爪を見せた。お洒落のような身だしなみの意味ももちろんあるが、彼女には手の保護と言った方が納得しやすいだろう。賈充の思う通り、彼女はふーん、と返事をした。相変わらず退屈そうな声音ではあったが。
「何色にする」
「なんでもいいよ」
「お前には、赤が似合うと思うが」
「赤は嫌だな。血の色みたい。武器の装飾も作るのに縁起が悪い。」
「なら青はどうだ。」
「青は嫌だな。見てると鬱々しくなってくる。眺めていると装飾が思い浮かばなくなりそう。」
「では、緑か?」
「緑は嫌だな。昔うっかり潰した芋虫の体液を思い出す。気分が悪くなりそう。」
「黄色にするんだな?」
「黄色は嫌だな。目がちかちかしてくる。縁起ものの飾りならいざ知らず自分の指先が派手なのは好みじゃない。」
 ことり。4つの小瓶の蓋が閉じられる。今日何度目になるか分からない溜息をこぼす。ある意味では、予想通りだった。装飾を手掛ける彼女のことだから、色にはきっとこだわりがあるだろう、と。なんでもいいよ、とは彼女の感性に合うならなんでもいいよ、ということなのだろう、と。なら何色が良いんだ。そう分かっていても、問いかける声には多少の苛立ちが含まれていた。
「黒」
「なに?」
「黒が良い」
 相も変わらず眠そうな目をしながら繰り返す彼女に、何故だと問う。彼女はそれに答えず、持ってるの、と質問を返した。中途半端に色の禿げた爪ほど見苦しいものは無いと考え、持ち歩いているのは確かだ。賈充は、袋に却下された小瓶達を片付け、別の小瓶を取り出した。黒い液の入った小瓶である。何故黒が良いんだ。蓋を開けながら再度彼女に問いかけた。
「黒は良いな。公閭と同じ色でしょ。それだけで随分と落ち着くと思うの。」
「そうか」
 また馬鹿なことを言う。賈充は、刷毛を液に浸す。細かな毛が液を吸い上げた。
「手を出せ、利き手からやってやる。」
 爪先、その縁をなぞるように細く刷毛が動く。そして、爪の付け根から、爪先まで色を乗せていく。2、3度刷毛を運ぶ、たったそれだけで、の爪は黒く、光沢を持つ。黙々と作業を続ける賈充を、は先程までとうって変わって楽しそうに眺めていた。彼が器用に、刷毛で小さな爪を塗装していくその手際は、彼女の目にはとても興味深く映っていた。ただそれはあくまで装飾の技術として、という所が賈充が彼女に望むものとは少しずれていたのだが。
 公閭の手は、綺麗だ。利き手の爪の塗装を終えた頃、自分の手に添えられた、賈充のそれをしげしげと眺めながらは思った。女のような細やかさや綺麗さでは、ない。あくまでごつごつと骨ばった、男らしい手だ。彼は忙しい身で、目の周りに隈が張り付いているほどに筆を手に持ち仕事をしているはずだ。戦いにだって、武器を手に取り何度も出ているはずだ。それでも彼の手は、綺麗だと思う。自分の作る彫刻の手よりずっと、綺麗だと思う。陳腐にも程があるが、ただ綺麗だと他の表現など浮かばずにそれだけを考えていた。
「終わりだ」
 全ての指を終えて賈充は声をかけた。爪を塗る間にまた呆けていたのか、ははっと思案から我に帰ったような、驚いたような顔をして、お疲れ様、とぼそぼそと労わりの言を口にした。
 賈充は、の小さく開く口以上に何か言いたげな目線を感じて、眉をひそめた。
「どうした」
「ううん、公閭の手は輝いてるなあって。」
「何を言う。俺の仕事の噂くらい聞いているだろう。」
「違う、違う、そうじゃなくてね、綺麗だなって」
、その曖昧なもの言いをやめろといつも言ってるだろう」
 感性で仕事をする彼女は癖なのかいつも抽象的に、こうだと思うの、ああだと思うの、と曖昧な話し方をする。その話し方自体には慣れていても、話の要領を掴めないからやめろ、と往々にして注意しているのだがどうも直らない。彼女とよく話す相手は自分くらいだから、そもそも彼女に直す気が無いのでは、とあたりをつけているが恐らく正解だろう。
「ああ、でもね私」
 思いついたように告げる彼女の二の句に、賈充は皺の寄る眉間を抑えた。この眩暈はなんだ。本当にこの女ときたら、

憶測でしか物を謂わない

(貴方のことを愛してると思うの)


あとがき
mutti様より”憶測でしかものを謂わない” (130602)


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