「賈充様、書簡をお持ちしました」

 静寂だけが支配する執務室に、控えめな女官の声が響いた。仕事の処理に忙しい賈充は目を文字に走らせたまま、筆を持たぬ手を一度振り入室を促す。僅かな衣擦れ音ののち、からりと乾いた音がする。賈充の執務台の脇にある小机には、隙間もなく書簡が敷き詰められ、積み上がっていた。このうちのいくつが目通しされているのか……もしかしたらされていない方が多いのではないか。どこぞの面倒くさがりであれば、とうの昔に窓枠を蹴り逃げ出すだろう。

「他に用事か」

 片道で途切れた足音に、底冷えのするような低い声がいつまでそこにいるつもりだと女官を叩いた。機嫌の悪さを隠さないそれに、普通の者であれば恐れに涙を滲ませ、必死の謝罪ののち慌てて逃げていくだろう。しかし、入ってきた女官にはその気配はなく、それどころかなにか物を床に引きずる音を立て始めた。雑音にようやく賈充が顔を上げると、女官は悠々と執務台の前……賈充の正面に腰掛けた。来客用、もっぱら司馬昭、たまに王元姫が座る小ぶりながらそこそこの拵えの椅子を引きずったのが先程の音だったのだろう。賈充が不快感と嫌な予感に盛大に眉間に皺を刻むと同時、女官は机上の僅かな隙間に肘を乗せた。

「中身、確認しなくていいの?」
「……。お前か」
「やだ、気付かなかったの?」
「聞きなれない声のやつだとは思った」

 からからと笑う相手に賈充はわざとらしいため息を返した。
 そこにいたのは、女官などではない。司馬の名のつく女、有り体に言えば友人の妹だ。賈充は、司馬師、司馬昭と関わるうちにとはそこそこ会話をする程度の間柄にあった。

「根詰めすぎなんじゃないの?」

 張り詰めた気迫を持つ司馬師、とらえどころも測りも知れぬ器を持つ司馬昭。それに続いてしがらみを全て受け流すような飄々とした笑みを持つ妹。司馬一族は全く底が知れない。いや、目の前の女は、忙しい自分を一瞬からかうためだけに、どこからか盗んできてまでご丁寧に女官服をきっちり着込んでいる。底が知れないと言うより、神経がわからない。
 賈充が仕事を再開しようと筆に墨を吸わせていると、女官の裾がひらりと揺れ、書簡の束を指さした。

「それくらい仕事してなきゃ、あんな物騒な文書貰わないでしょ?」
「読んだのか」

 誰もが縮み上がりそうなきつい視線を意に介さず、はへらりと笑って応えた。受け流され続ける苛立ちに、賈充は小さく舌打ちをして、筆を走らせ始めた。吸い過ぎた墨に文字が歪んだ。また舌打ちが響いた。

「何か言うことは無いのか」

 3,4行ほど筆を進めた頃。身じろぎに擦れる衣の音だけで口を閉ざしている女官もどきに、賈充は問いを投げつけた。賈充の、剣の切っ先を向けるような声音も逸らしてやはりは笑う。腹の底が読めない者が居るのは、気分が良くない。この女が読んだものを思えば尚更だ。恐らく十人中十人が眉を顰め、盲目の善意を盾に自分を糾弾するであろう内容だからだ。それを見てもは何も言わず自分をからかって笑っただけだ。

「ん?何か言って欲しいの?」
「……ごちゃごちゃと言えば、うるさいと追い出す口実になったがな」
「あら、そりゃあ、残念だね?」

 彼にしては乱暴に筆を置き、書簡を束ねた。乾いた竹の音が、からからと笑うように聞こえた。執務台の一山にそれを加えて、別の一山からまたひとつ書簡を手にする。紐を解いていると、ごそごそと向かいでなにかを漁る音がした。目をやれば、はその女官服のどこから取り出したのか、手の平ほどの包を手に笑っていた。

「忘れてた良い茶葉が手に入ったんだった、賈充飲む?」
「茶菓子は無い」
「良いよ、でもお茶飲んで一息入れるくらいしないとクマ取れないんじゃない?」

 化粧でごまかしきれないほどに黒ずんだ賈充の目元を指さして、また笑った。人の顔を見て笑うとは良い度胸だな。書簡を置き、賈充がそう威圧した時にはもう彼女は勝手に彼の茶器を引っ張り出しに棚に向かっていた。

「……悪くない」

 一口啜り、息をついた。詰め込んで仕事をしている自覚はあったが、どうやらその想像以上に疲労を溜め込んでいたようだ。調度良い熱さが心地よい。鼻腔を抜ける香りも高いが決してきつすぎることはない。我ながら上手く淹れられてると思わない?そうだな、茶葉が良かったんだろうな。意味のない言葉を2,3交わしていると、すぐに茶は無くなった。
 もう一杯飲みたいな、賈充もついでにどう?そう言って湯を注いていたが、静かに笑った。

「ねえ賈充、貴方は誰のものなの?」
「子上だ。」
「流石、即答で言い切ったね?」
「当然だ。俺はいつでも子上の道の為に死ぬ」

 くだらない問いだ。聞くまでもないことだ。
 毅然として答えた賈充に、は茶を差し出す。

「兄様の為に死ぬ。つまり、自分のために生きる気が無いんでしょう?」
「何が言いたい」
「言って欲しいの?」

 女は、笑った。茶碗から立ち上る湯気越しに揺らめいている。茶碗を見つめ伏せた目蓋に覗く、その瞳のゆらぎが、湯気か笑みかそれとも何かを、判別できない。僅か弧を描く口元のあの穏やかさを……俺は今まで見たことがあったか。

「それなら、私のために生きてくれたって、いいよ。」

 一息に熱い液体を流し込む。ただ、一言返すだけだった。

「……戯言だ」

 それが悔しかったのは、自分の頭の上を行かれ言葉をつまらせたからか、それとも素直にその手を取らない……取るわけにはいかなかったからか。

「戯言かな?」

 問いかけか、自虐か。
 女は、飄々と笑った。


あとがき
無双夢企画【無双百華】様へ提出(20150829)


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