「やあ、今日は私の方が早起きみたいだね。」
 おはよう、と欠伸交じりの挨拶に起こされる。そののんびりとした男の声に、目を閉じたままの私は眉間を狭めた。いつもこの調子では、眉間に皺が刻まれるのも時間の問題だろう。ああ、まったく最悪の目覚めだ。ただでさえ寝るのが好きで起こされるのは嫌いだというのに、一日を鳥の鳴き声でも庭の池の水の音でも無くこの男の声で始めるなど、最悪の気分と言うに他ならない。それなら、以前乱雑に積み上げられた本の山がついに限界を迎え崩壊した時の騒音の方がまだよっぽどマシな目覚めをくれた。……いや、どちらにせよいい目覚めではないのだけれど。それにしても、起こしに来たのがこの男でさえ無ければ、まだ心穏やかにいられただろうに!寝たふりを決め込んでさえいなければ溜息の一つでもつきたいところだ。とは言っても、この部屋へ入ってくるこの男以外の人間となると、この男の孫息子とやらの能天気そうな青年しか見たことが無いのだが。ここまで人に会わないとなると、ことさらあの男の狂気が伺えて、ぞっとする。本当にこの男は気味が悪い。
 私が依然男の立つ戸に背を向ける形で寝そべっていると二度目の欠伸と手水盥を置く音が聞こえた。ちゃぽん、と水が跳ねる音さえこの男が起こした音となると、今の私には気に食わない。
「起きているのはわかってるよ、さ、顔を拭こうか」
「……」
 それくらい自分で出来るわ、と思うが男の手から手ぬぐいをひったくり顔を洗うその間ずっとにこにことした男に見られ続けるのも嫌だ。それに、ささやかな反抗をしたところで結局私の立場は何も変わらないのだ。後に少し虚しくなる事はもう分かっている。ただそれでもなんだかんだ言って素直に身体を起こすのは癪なので、男に背中を見せたまま寝た振りを続ける事にした。しかし所詮毎日のこと、男は相変わらず明るい声で今日の朝餉は好物がでるといいなだの、今日は早く起きられて気分がいいだの、筆が乗りそうな気がするよだの、何やらどうでもいいことを話しかけながら私の背に手を触れて上体を起こさせる。そして、朝起きてから少しの刻もたたずにもう何もかも厭になる私の顔を湿らせた手拭いで拭う。男のその所作は決して荒いものではなく、まるで壊れ物を扱うように触れてくる。私はその柔らかい感覚に、間違ってもときめいたり感謝を思うでもなく、ただただぞわりと肌を泡立たせるのだった。ほとんど毎日のことに、男は毎回優しく、私は毎回気分を悪くする。ただ最近ではこの抵抗のなす術も無く身を預けている間、私はいつも畳の目を数える事にして心の平穏を保つようにしていた。男の目を見たのは、初めて顔を拭かせてやった時の、それも一瞬だけだ。
 あのおぞましい感覚は思い出したくもない。私は総てを、何もかもを諦めなければならないと、そう得心してしまいそうになったあの瞳。深淵に引き込まれるようだった。いや、もしかしたら惹き込まれるようだったのかもしれない。とにかく私は、それが、”私への狂気”を孕んだその瞳が、どうしようもなく恐ろしかった。
 顔を拭き着物を変えさせ髪を梳き、そうして男は朝餉を持ってくるねと言い残して部屋を出る。着物に関しては、いつも簡素ながらお洒落にあつらえられた高級な物だ。ごくたまに男の気分で、どこぞの姫君かというような豪華な物も着せられることもある。男が朝餉を取りに行く間、私は自分の髪を結う。男は私の髪を触るのが好きだと言い、梳くのはやるが、髪を結うのは苦手のようで、ぐしゃぐしゃにされてからは大人しく私が自分で結う事にしている。そうして最後に髪をまとめるために淡い桃色の飾りのついた簪を挿す。「君に似合うと思ってね、ひと月前かな?買っておいたんだ。」この部屋へ閉じ込められてすぐに迎えた朝のことだった。にこやかに、うれしそうに話す男は、今思い出しても、嫌だ厭だ嫌だ厭だ。言われた直後はその言葉から見える狂気に震えが止まらなかった。大人しくこれを使っているのは、これ以外に簪が無いから仕方なくと私は自分を納得させているが、もしかしたら恐怖によるものかも知れない。そこまで考えた所で私は小さく自嘲した。
 戸口でふさがる両手に苦心しながら入ってくる男に、女中に運ばせればいい物を、と私は毎回思う。もちろんそれは男以外の人間に会いたいと言う私の希望でもあり、同時に女中がやるような事でさえ私の世話はやるこの男はおかしいと思っているからでもあるのだけれど。男と向かって座り、男のくだらない話を聞きながら朝餉を食べ終える。畳の目は、もう三千あたりから、わからなくなって、止めた。
 ほぼ毎日同じだ。たまに男が忙しい時は戸口に置かれた手水盥と朝餉を何とか引き寄せ一人で身を整え一人で食べる、その違いだけだ。もちろん、こっちの方が私の気持ちは軽いのは言うまでも無い。
 そうして朝餉の膳を男が片付けたあとの過ごし方も男と過ごすか、一人で過ごすかの二通りだ。しかし男がいようとも居なかろうとも、基本的に私のやっていることは同じだ。一人でいるときは、私はごろごろしたり縁側で鹿脅しを見ながら日向ぼっこをするか積み上げられた本から適当な物を読んで過ごす。男と過ごす時は大抵男が書きものをしているが、そうでなかったら私と共に私と同じ事をする。そしてやっぱり私は気分が悪くなる。ついでの話だが、私は男の書いた本は基本的には読まない。この男が書いたから嫌だというのも勿論だが、一度男がいない時に開き、その冗長な文章に私は一章読んだだけで放り投げた。幾度も言うように男は嫌いだが、読み物が嫌いなわけではない。ただ純粋につまらなかった。それ故、近寄るな一生書きものでもしていろ、とは思うが伝えるつもりは無かった。仮にそれを伝えて書きものを見せつけられるようになったら私の昼寝の時間は倍に増える事だろう。
 私の日中は、つまる所、暇を潰すだけなのだ。
 毎日毎日同じ部屋で同じ事を同じように日が沈むまで時間を浪費して行く事を繰り返す。日をおうごとにつま先から指先から頭の先から、じわりじわりと少しずつ、しかし確実に”自分”が腐って行くのを感じる。気が狂いそうになる。毎日の茶菓子の種類くらいしか違いが無い。日が沈んでからも夕餉を食べる所も何も変化はない。夕餉を食べ終えた後は身体を拭き、もしくは朝のように拭かれ、寝巻を纏い、そして寝る。
 就寝までも、一人でもしくは男との二通り。そして厳密には一人で眠るか、男と眠るか、それか男と寝るか、の三通りだ。今宵はとりあえず一人ではないようで、私が布団にもぐってからしばらくした後に寝間着姿の男が来た。そうして私の隣にもぐり込み、私を胸に抱き入れる。これがいつもの寝る体勢だ。今も気持ち悪さは慣れても拭えはしないが、とりあえず眠ることはできるようになった。ただ今宵は少しじゃれてから眠りたいようで、男の手が私の髪や顔や体を滑る。男は自分でもよく言うように若くは無いようで、がむしゃらにいつも体を求めるといった事は無く、むしろ猫か何かを可愛がるように私に触れるほうが多い。いずれにせよ、私はいつもいつでも男のなすがままにした。ここにきて初めの方こそは毎回無駄な抵抗をしていたが、今はもう、心を殺して体の力も抜き、闇夜に自分がまるで人形になってしまったような錯覚になるのだ。籠の中の鳥。そんな表現があったなぁとぼんやり思う。今の私はそんな感じなのだろうか。……いや、いっそ鳥の方が良いかもしれない。私には鳥のように翼も無ければ囀る声も無く動き回る足も無い。鳥なんかよりも自由も希望も無い。私は、まさに人形だ。着る物も着飾る物もそして体も、男の好きにされるだけだ。”私”などどこにもないのだ。
 私が出口も何もない思案に耽っている間も、男は依然楽しそうに私をいじくっていた。手のひらの感触が気に入ったのか、男の手は私の手を揉み遊んでいた。不意に指先にぬめった感触。私の人差し指が男の口に消えた。爪の形に沿って舌先がざらりと動く。深く加えて指の付け根を甘く噛む。そうしたら隣に動き、今度は中指を弄る。
「美味しいよ?」
 私の視線に気づいた男が笑いながら言う。気持ち悪い。
 指を生温かい舌で飴のように赤子の玩具のようにただひたすらにねぶられるのを感じながら、私はそっと目を閉じた。

 そっと考えるのを、やめた。


あとがき
都都逸(120421)


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