私は上着を羽織っていた。先日、ほぼ一目惚れの衝動によって旅商人から買い取ったそれは、厚手の生地に施された刺繍のなんとも素晴らしい物だった。色とりどりの蝶が、彩度の消え失せる冬の景色によく映え、私の心を踊らせた。これを購入してからというもの、何処かへ出かけるときは必ずそれを着ていた。
 その日は、ひどく寒い日だった。白んだ空に、白い息が口から出るそばから霞み溶けてゆく様が妙に記憶に残る、そんな冬の日だった。
 ぎち、袖の軋む音がする。それは、今少し力を入れたら裂けるのでは、と嫌な想像をさせるのに十分だった。優雅に飛び回る蝶を握りつぶすように私の一張羅を掴むその手は、寒さも相まって血の廻りが悪くなっているのか、うっすらと青くなっていた。私がその寒々しい手から視線を上げても、彼は俯いていて、その表情を知ることはできない。山よりも高く海よりも広大な自尊心と矜恃を持った幼馴染が、今は別人のように私に縋りつき下を向いている。ただ、縋るにしろ片手だけというところには、彼らしさがあった。
 私は、彼の鳶色のくしゃくしゃの髪を、つむじを呆然と眺めながら、腕の痛みなどもはや、忘れていた。
 何が原因だったのか。いつもの通りに売り言葉に買い言葉、口喧嘩にもならぬじゃれあいのような言い合いを交わしただけだ。ただいつもと違ったのは、人を小馬鹿にした上から目線の態度で悠々とした士季が、私の姿を見た途端に口からだけでなく頭からも白い湯気が立ちそうなほどの勢いで突っかかってきたことだった。
 貴様、嫁に行くのか。お前をもらう奴がいたとはな。酔狂なやつだ。どこの馬の骨だ。すぐに戻されるのが関の山だろう。貴様のような女では退屈になるだろう。やめておくんだな。わかったな。
 これぞまさしく、竹に油を塗り、立て板に水を流し、戸板に豆。士季にそう一息に語気荒く捲し立てられ、私は呆気にとられつつもいつもの様に軽口を返した。そう、それだけ。お前をもらう奴なんでいないだろうなんて、今までも散々言われていた言葉で、貴方には関係ないでしょう、というのも散々言ってきた言葉だったはずだ。分からない。目の前の幼馴染が分からない。こんなことは今までなかった。憎まれ口を叩きながらも、どこか寂しそうに祝言でもくれて、それをからかってやろうと、会話の流れを脳内で想像をしていたというのに。なんなの。なにこの状況は。なんだっていうの。沈黙にたまらず再び視線を落とした先で、ぐしゃぐしゃになった蝶、その刺繍から、糸がはみ出ている。婚姻祝にと奮発して買ったのに。
 鮮やかな赤い糸。男のくせに白魚のように綺麗な指。その隙間から溢れる解れ。それを目でなぞるうち、絞り出された士季の子供の我儘のような言葉に、私は気づいてしまった。遅すぎる理解をしてしまった。

 小さく震えたその声に、私は拒否することなどできるわけもなかった。

愛してるって、言って。


あとがき
『3つの恋のお題ったー』より"愛してるって、言って。" (131210)


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