ぴちゃん。水音一つ立てて、鯉が翻った。
 兄様たちは軍議で、一人ぼっちで退屈になると思ったけれど、今日は雲ひとつ無いとてもいい天気だ。私はそのおかげで、庭の草木を眺めながら散歩をし、池の鯉に餌をやっていた。それだけの天気でも、私は常に日陰にいた。散歩中に出会ってから私の後を離れずついてまわる、自分の影よりもはるかに大きな影。
「周泰将軍?」
 たまらず声をかけると、わずかに肩を揺らして反応をした。周泰将軍。権兄様を護衛を主とする、剣の腕がとても立つが無口で長身の方、という程度の認識はあるけれども、その周泰将軍がなぜ今日は私の後をぴたりと離れずついてきているのかはまるで検討がつかない。私が鯉の餌を巻くのをやめ、向き直るが本当に口が無いのか何も言葉を返さずに切れ長の目で静かに私を見つめているだけ。身長差として仕方がないし、本人にそういうつもりは無いのだろうけれども、歩く木に長い間ただ見下され続けるというのはあまりいい気分ではない。ただ別に怒るほどのものではないので、なるべく責めるようなきつい口調にならないようにその旨を伝えると、まばたきを2,3度した後に何故か、おもむろに屈み膝をついた。いや、見下されているのが嫌というわけではなくて、と何故か私が慌ててしまう。変わらず何を考えているの分からない無表情無口。どうしたものかと心中ため息を付きたい思いの中再び問いかけてみる。
「どうして私にくっついているのです、なにか用があるのですか?」
「前に」
 多少の沈黙の後に、彼の地を這うような低い声がぽつりと返ってきた。ただ一言発しただけでそれ以上言うつもりがないのか、唇はまた一の字に閉ざされてしまった。仕方ないのでこちらで汲み取らなくては、と思うが、「前に」という一言で何を汲み取ればいいのか、まずはそこからなのである。前に、前に。そういえば、前回周泰将軍とお会いしたのはいつだったかしらと記憶を辿った。賑やかな情景が浮かんでくる。そう、確か宴の時。国のはずれで暴れていた賊の討伐がすんだその慰労の席だった。権兄様が周泰将軍を呼び寄せて、此度もいかに周泰将軍が活躍したかと酒で真っ赤にした顔で私に語りだして、そして私はそれに対してどう返したのだったかしら。と、そこまで至ったところで私はサァ、と血の気が引くのを感じた。
 周泰将軍の頭を撫でたのだ。
 頭はただでさえ神聖な部位。そこに主の妹だからとはいえ関係のない私が軽々しく触れるなど、いやそれ以前に大の、本当にどうやったらそんなに育つのかというほど大きな男性に、子供にやるかのように頭を撫でて褒めるなど、ああ、もう、本当になんて失礼なことを。そうなると周泰将軍が私を見つけ次第についてきた意味もわかってくる。
「ええと、その、もしかして、怒っていらっしゃる……?」
「いえ、そうではなく」
 恐る恐る、本当に控えめに聞けば、周泰将軍は顔を上げ、即答に近い速さで返答した。いつもその重い口で沈黙をたっぷり含みながら話す彼の姿しか見たことがなかったため、私は、あら、と驚いた。ただ、また口を閉ざしそれっきり黙ってしまう。一体なんなのかしら、と顎に手を当てて考えようと腕を上げる瞬間、周泰将軍の目線が揺らいだことに気が付く。一日中ずっと静かだった目線を泳がせている周泰将軍の表情が、心なしか強張っているような、そんな気もする。もしかして、なにか焦っている、のでは。そう思った瞬間に頭を殴られたような感覚を覚えるほど驚いた。なにせ、周泰将軍のことを、無表情無口無感情とでも思っていたのか、と聞かれたら完全に否定出来ないと思っていたのだ。その周泰将軍が少し、いや本当によく見てもヘタすれば気づかないほど僅かに表情を変え、感情を表しているとは。
「手を」
 めったに見られないものを見られた驚きに目を白黒させていると、今度は周泰将軍からおずおずと口を開いた。そうだった、今は周泰将軍が私に何を言いたかったのかを考えていたのだった。我に返って、自分の手を見つめる。手を、とは。結局一言ではわからず困惑していると、周泰将軍の眉もわずかに下がって困惑しているように見えた。そもそも、周泰将軍がもう一言、二言話してくれればこの晴天のもとに謎掛けごっこをすることもないのだけれど。いつも権兄様や策兄様と話すときは、無口とはいえもう少し要領を得られるようにそれなりに話をしているでしょうに。ため息を我慢していると、鯉がもう餌をくれないのかとばかりにまた音を立てて水面を叩いた。
 まさか。
 その刺激で、ポーン、と一つの考えが浮上してきた。以前の宴のこと。私の手を気にしていること。そして、周泰将軍が、恐らくはいつも以上に無口なのは、何か言い辛いことだからではないか。それらを合わせた結論は、何か。ただ、確証はないし、もし間違っていたら私はまた失礼を重ねて今度は怒らせてしまうかもしれない。けれどこのまま鯉よりも主張の少ない相手と無言で向き合うよりは、と意を決する。
 まさか、と思いながら、依然膝をついたままの周泰将軍の頭に手をのせ、そのまま左右に数回滑らせた。
「あの、周泰将軍……?」
 離すかどうか迷いながらも、頭に手を置いたままに問いかければびくり、と体を揺らした。それは動揺を表しているようで、また私は周泰将軍がするものにしては大きな反応に泡を食って反応を返してしまう。自分の腕で、周泰将軍のお顔が見えない。当たったのかしらはずれたのかしら、いいえ怒っているのかしら、と狼狽しながら手を離そうとすると周泰将軍が私の腕に手を添えた。
「ありがとう……ございます」
「え、ええ」
 掴むのではなく、そっと私の腕に手を当てて私の手を頭から離した。そうして見えた周泰将軍のお顔。瞳は下げられ地面を見つめていて、眉は僅かでなく明らかに下がっている。それはまるで、そう、照れているような表情で、私はもう今度は全身に雷が落ちたような心持ちになった。ぱさり、と片手に持っていた鯉の餌の袋が足元に落ちる。誰かが近くにいたら全力で頬を張ってもらって、これが夢かどうかを確認したいくらいである。この青一色の空も綺麗すぎて夢と言われれば夢じゃないかと錯覚してしまう。私が棒立ちに放心していると、ゆらり、視界に影が落ちた。
「失礼、しました」
 立ち上がった周泰将軍は、そう呟いて、背を向けて歩き出した。私は足元の袋を拾うことも忘れて、その背に声をかけた。
「周泰将軍、次の遠征もお気をつけて、その、頑張ってください」
 子供のような、ひどく稚拙な私の言葉に、周泰将軍は顔をこちらに向けると、わずかに口角を上げて、そして、またゆっくりと立ち去っていった。
 笑った。あれは、間違いなく笑った。
 本日何度目になるか分からない発見と衝撃に私は、再度の鯉の催促までそのまま呆然と立ち尽くしていた。その夜、尚香姉様からの言葉に、得も知れぬ感情を抱くことになった。
「背の高い男性って、頭を撫でられることがないから、いざやられるととても嬉しいらしいわよ!」


あとがき
深さんへ  周泰の頭を撫でるとか難しいよなー2メートルだもんなー。 (140109)


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