ぱちくり。……ぱちくり。効果音がしそうなまばたきを、2回。私は、状況がつかめていなかった。
 つい30分ほど前。部活が終わり、部室に残っているのは鍵を持つ部長と活動誌を書くマネージャーのつまり石垣くんと私だけだった。横長のベンチに座り机を挟んで、石垣くんと今日の活動やらそれを踏まえた今後のメニューやら話し込んでいたらいつの間にか2人になっていた。そこまではしばしばあることだったので、私も石垣くんも気にせず話し合いを続けていた。違ったのは、途中で私が鞄からお菓子を出したこと。友人がパッケージを見て衝動買いをしたはいいが食べられそうにないから、と言って1つだけ中身の欠けたものを私にくれたものだ。それはチョコレート・ボンボン、6個入り。キラキラ光る包装紙が綺麗で、友人のように体質的にアルコールを受け付けないわけでもないので、私は喜んでもらった。そもそも、お菓子に使われる酒量など僅か香る程度だ。疲れている時、頭を動かす時には甘いものがいい。部活を終えさらに話し合っている石垣くんと私には丁度良いかな、と思い机に出した。5個あるからどうぞ、じゃあ2個貰うわありがとな、3個でもいいのに、いやさんが貰たものやろええよ、そっかー。そんな会話をしながらぺりぺり、包装紙を剥がして口に入れた。かり、歯で砕いた瞬間に口内に広がるのは大人の香り。カァ、と香りの触れるところが熱くなる。石垣くんも、大人の味やな、とやはりアルコールの感覚に慣れないのだろう、2人で苦笑した。そうして続けてあと少しの活動誌を埋めていった。私が2個目に手を付けると、石垣くんも2個目を取った。活動誌を閉じて、シャーペンや消しゴム、散らかった消しカスを片付ける。はい、石垣くん、今日もお疲れ様でした。そう言って、いつのまにやら横に立っていた石垣くんに活動誌を差し出した。
 そうして今に至る。私の視界はこんなに白かっただろうか。さっきまではロッカーやらホイールやらでごちゃごちゃしていなかっただろうか。蛍光灯の明かりが直接目に入ってきていただろうか。というか、これは天井、じゃないだろうか。
 一瞬だった。石垣くんの伸ばした手は、活動誌を素通りし、それを持つ私の腕を掴んだ。私の手から活動誌が床に落ちるのと、石垣くんの開いている方の手でとん、と押されて私がベンチに横倒しになったのは同じタイミングだった。突然のことで、私はろくな抵抗など何もなくこてん、と転がった。状況と視界の急な変化に思考がついていかなかった。温かい重しが乗っかって体を起こすことができない。タオルを洗濯するときに覚えのある、石垣くんの匂いがする。彼は俯いていて、逆光もあって表情が分からない。「石垣、くん?」大丈夫だろうかと小さな声で名前を呼ぶと、ぼすん、彼の頭が私の肩口に落ちた。「石垣、くん?」もう一度呼べば今度はその頭がぐりぐりと数度、私の肩に擦りつけるように動いた。どうしたものか。未だ混乱を極めた状態で固まる私には、この状況は如何ともし難かった。なにせあの石垣くんなのだ。いつも穏やかで優しく真面目な頑張り屋さんの石垣くんなのだ。はあ、と熱い息が肩に、そして跳ね返り耳にかかる。くすぐったい。そして香るアルコールの匂いにひとつ気付く。「石垣、くん?」彼は酔っ払っているのかもしれない。なるほどそれでバランスを崩してその結果私に寄りかかったのかもしれない。私がびっくりしてちょっと支えられなかったのがいけなかっただけかもしれない。いやきっとそうだ。元々チョコレート・ボンボンを持ってきたのは私だ。ここで寝させて風邪でも引かれたらあの恐ろしい1年生に何を言われるかわかったもんじゃない。そんなことになったら大変だ。起こさなくては。というよりこの体制は大分いかがわしい。起きてもらわなくては。「石垣、くん?」起きて下さい、帰りますよ、石垣くんに掴まれていない方の手で彼の頭をぽんぽんと叩く。しかし彼は離してくれるどころか、私の腕を掴んだその手にむしろ力が入った。あかんわ。小さな声がした。いやあかんて。あかんのはこの状況とあと私なんですが。「石垣、くん?」なんかさっきから馬鹿みたいに同じように名前を呼んでいる気がする。石垣くんがまたあかんとかなんとか呟いた。彼が喋る度に私の肩や耳に息がかかるのが、いちいちくすぐったいし、なにか気恥ずかしいので、早く離れてもらいたい。また何度になるかわからない呼びかけをしようと口を開いたのと同時、彼が呟いた。ほんと、あかん。なにがあかんの。さん。なに。さんがあかん。要領を得ない上にひとりごとのように漂う言葉。その上私が悪いと言う。流石に少し苛立ってくる。私の何がいけないの。少々語気荒く問う。そろそろ掴まれた腕が痛い。
さん、んー、、が可愛すぎてあかん。」
 これはボケだろうか。どこからどう突っ込めばいいのだろうか。どこをどう拾えというのだろうか。呼び直してまで私の名前を、ファーストネームを呼んだことか。可愛いと言ったことか。石垣くんが大分あかんということか。「石垣、くん?」呼びかけたはいいが、続きの言葉が見つからずにぱくぱくしていると、こうたろう、とまた彼が呟いた。なに、どうしたの。こうたろう、俺の名前や。流石に部長の名前くらい知ってるよ。呼んで。えっ。
「呼んでくれへんの、。」
 呼ぶまで梃子でも譲らないつもりだろうか。なにこの酔っぱらい。せわしなくどきどきと止まらない心臓の動機と張り詰めた気持ちにいい加減私は疲れたのだ、そう、疲れたのだ。もうなんでもいいから早く開放して欲しい。ああもう、こんな形で好きな人の名前を呼ぶことになるとは思わなかった。勘弁してください。
「こうたろう、くん。」
「ほんと、あかん。」
 体が、痛い。いつの間にか私の手は開放されていた。代わりに気づけば、彼の両腕が私の体に回っていた。抱きしめられている。きつく力を入れられている。苦しい。息が上がっている。いやこれほんとあかんのはこの状況だって、いったい何度言ったら!開放された両手で彼の体を押す。と言ってもなんとも恥ずかしいことに体は密着しているので彼の脇腹の当たりに手を掛けただけの、力が入らない無駄な抵抗だった。しかし思いが通じてくれたのか、石垣くんの体が浮いた。やったねありがとう石垣くん!今日のことはチョコレート・ボンボンに入った微量のお酒のせいにして無かったことにしてあげるからさあ帰ろう今すぐ帰ろう!こんなに早口にまくしたてたのはいつぶりだろう。とにかく必死に声を上げた。だから、その、私の顔の両側についた手を、どうぞどかして下さい。お願いします。私の必死のお願いに、彼はすんなりと手をどかして上体を起こした。そろそろ酔いが冷めてきたのかもしれない。良いことだ。だからあとできれば私の上から降りて下さい。馬乗りって言うんだろうか。相変わらず体制は恥ずかしいままだ。「石垣、いやえっと、光太郎くん?」不思議なことに、いやそろそろ顔からというかもはや全身から火が出そうなので別にいいのだけれども、石垣くんの顔はこっちを見ていない。
「もう1個、貰てもええかな」
 彼の手にきらきら光るものがある。チョコレート・ボンボンだ。もう1個も何もそれが最後のやつ、とか、もうやめようよ酔っぱらい、とか、降りてから食べて下さい、とか、なんか色々と言いたいことが喉で渋滞を起こして、結局私が言葉を発する前に、ぺり、包装紙を剥がす音が響いた。茶色の光沢が、石垣くんの口に消えた。逆光で影のかかった石垣くんの顔。いつも優しい目をしてて、穏やかに笑う私の好きな顔。そんな石垣くんの今の目は、そのいつもと違う。私の何を見ているのかうつろだが、目を細めて、確かに私を見ている。見下ろしている。微笑むときの細め方じゃない。初めて見る、目つきだ。あの恐い1年生もたまに目を細める。もちろん石垣くんはあそこまですごい顔芸、というか目芸をしてはいないし、本当に普段の彼とは僅かな差異だけれど、そうだ、あれだ。なにかいたずらとか、良からぬことを思いついた子供の目だ。嗜虐心がちらついている。初めて見せたそんな瞳で見下されている、それに気付き、瞬間、全身が一気に粟立った。そうだよもしかして、いやこれこそこれからあかんってやつじゃないか。「石垣、光太郎くん?」恐る恐る名前を呼んだと同時に、私の両側に彼の両手が下ろされた。この光景さっき観たわ。なんというデジャブか。違うか、違うよね。もはや私の頭はパンク寸前だった。思考回路がオーバーヒートでショート寸前。石垣くんの顔が近づいてくる。まって、うそでしょ、ちょっと、えっと。
 彼の名前は呼べなかった。ぞろり、歯を撫でられる瞬間に口内に広がるのは大人の香り。カァ、と香りの触れるところが熱くなる。チョコレート・ボンボンを口に入れたのは石垣くんだ。私じゃない。じゃあなんで、なんで私の口の中がこんなに甘ったるいのか。こんなに熱いのか。こんな、いや、いったい、なにが。顔を離した石垣くんが苦笑する。大人の味やな。
「好きやわ、」
 私は、苦笑なんて出来なかった。


あとがき
2月でもなんでもないけど浮かんだからチョコレートネタ。
関係ないけどMeltykissのイチゴ味が好きです(140508)


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