「あー……」
 帰宅した花ちゃんから引き継いだ書類を私が大体まとめ終えた頃、書類をいじる紙の音に、ぼんやりとした声が混ざった。顔を上げると、ソファに腰掛け経済誌を広げていた秋山さんが顎に手を当て唸っていた。どうしたんですか、と秋山さん今株はやってないからそっちの悪い記事とかは無いと思うけれどと考えながら疑問を投げた。
ちゃんさ、リップ、持ってない?」
 口、切っちゃったみたいで。そう言ってこちらを向いた秋山さんを見て私は、秋山さんが手を当てていたのは顎ではなく、唇の端だったのだと気が付いた。いてて、と独り言ちながら指を離したその箇所には薄く赤が滲んでいた。
 リップか、花ちゃんから貰ったのを持っていたな、と机の引き出しを開けたところではた、と私はあることに思い至り手を止めた。
「確かに持っていますが、私のリップを使いますか?それを返しますか?」
「ああ、そうか。血が付いちゃうか。」
 少し嫌な言い方になってしまっていたが、察しの良い秋山さんは後ろ頭にくしゃりと手を当てながら合点をぼやいた。
「流石に他人の血がついたものを使い続けるのは……使いかけで良ければそのまま差し上げますが」
 使いかけとは言え4,5回しか使っていませんよ、と取り出したリップをゆらゆら振る。緑色のそれはメンソールのシンプルな物で、男の人でも大丈夫だろう、と思う。オレンジの香りとか可愛い女の子が持っているようなリップを秋山さんがつけていたらそれはそれで面白いかも、と想像して笑いそうになるのをこらえる。
「いや、いいよ。俺あんまり使わないし。」
「ああ、ですよねー」
 まぁ、口の端が切れたのは確かに痛いだろうけれども放っておけば次第に治るものだからいいのだろう。口をパクパクしながら時折顔を顰める秋山さんが、どこか間が抜けているようで可笑しい。ともかく、リップはもういいのだろうから、とまた書類に目線を戻す。
「そうだ」
 数分と立たぬうちに、紙の擦れる音に、歓心の声が重なった。目線を上げると、秋山さんとバチリと目が合う。笑顔だった。この顔は知っている。くだらないことを思いついた顔だ。間違いない。花ちゃんのダイエットを茶化した時もこんな顔だった。
ちゃんがリップを塗って、俺がキスすればいいんじゃない?」
 口の端に血を付けたおじさんがウキウキで何をほざいているのか。秋山さんは頭良いのに時々本当に馬鹿なことを思いつく。特に言葉の棘を隠すこと無くその通りに伝えるが、秋山さんはまあいいじゃないかと依然軽く緩く笑うだけだった。
「ほら、おいで。」
 塗ってあげるから、とリップを指さす秋山さんに、良くないですよ、と言おうとしたが、秋山さんにそう穏やかに呼ばれるとどうにも逆らえない。そして、そんな自分が憎く、私は席を立ちつつも大きなため息を一つつくのであった。


05:口の端が切れた
(「こりゃ……不味いね」「本当に、馬鹿ですね」)


(141028)


よかったなあとかあればポチッと→ ❤❤❤