「長太郎くんは、優しいだけ。貴方は、結局のところ一度も恋をしたことがないんでしょ……私も含めて!」

 叩かれた頬を抑えながら、先程まで彼女であった人の言葉を思い出していた。
 優しくて何が悪いんだろう。
 背の高い自分に向かって、精一杯伸ばして振られたその手を掴んで、痛くないですか、と聞けばあの人は馬鹿じゃないの、と叫んで走り去って行った。
 長太郎くんは優しいねって、あれほど喜んでいたのに。まったく、付き合うとか、良くわからない。宍戸さんに聞けばわかるかな。……いやきっと、俺に対する嫌味かよって小突かれるに違いない。やめておこう。

「あれ、鳳くん?」

 どれくらいここに突っ立っていたんだろうか。そう長くはなかったと思う。後ろから呼びかけられ、頬を撫でながら振り向くとそこにはじょうろを持った女の子が立っていた。見覚えは、ある気がする。クラスメイトだ。一度話したかどうかも覚えてはいないけれど。彼女は不思議そうに首を傾げていたが、俺の頬に目をやるとじょうろを置いて近づいてきた。

「ちょっと、こっちに来て」

 いいよ、と笑うと彼女は何か言いたげな、怒っているような困っているようなよく分からない曖昧な表情を浮かべて俺を引っ張った。ついていくと、目的地は水道だった。歩く間彼女のつむじを眺めていたが、相変わらず彼女の名前は思い出せなかった。彼女の意図がわからずぼーっとしていると、彼女は何かをばしゃばしゃと濡らして俺につきだした。

「タオル?」
「頬、冷やして」
「えっと。」
「あ、女物のハンドタオルなのはごめん」
「いや、それはいいんだ」
「十分冷やしてから温めると早く跡が消えるよ」
「いや、どうして」
「冷やすと炎症がおさえられて、その後温めると細胞の修復が活性化するんだって」
「そうじゃなくて」

 淡々と話しながら俺に濡れたタオルで頬を抑えるようにすすめて来た彼女は、ひとつ首を傾げてから、ああ、と納得したように応えた。

「私、保険委員だもの」
「保険委員じゃなかったら、俺を助けない?」

 何を聞いているんだろう、俺は。間を置かず投げかけた問いは、無意識にぽろりと口からこぼれていた。思ったより、ビンタを貰って恋人に振られたというのがショックなんだろうか。自分のことなのに、わからないことだらけだ。
 目の前の彼女は俺の驚きなど知るはずもなくさらりと返答した。

「どうかな。その立場になってみないとわからないよ。」
「そういうものかな」
「現実には、私は保健委員で処置の仕方を知っているし、保健室の目の前の花壇に向かう途中に鳳くんに会って、それで手当てを選んだんだから、つまるところ考えても分からない仮説か、それでなければ妄想だよ」
「そうだね。変なことを聞いたなあ、ごめんね。」

 まるで国語や社会の先生みたいな話ぶりに思わずくすりと笑うと、彼女もいいよと笑った。初めて見た彼女の小さな笑顔は、飾りっけも何もなかった。

「もう一つ、変なことを聞いていいかい」
「いいよ」
「俺と付き合ってくれませんか?」

 彼女は目を丸くして、それからゆっくり首をかしげた。どうも、考える時の彼女の癖らしい。洒落っ気のない髪の毛が、彼女に合わせてさらりと落ちるその動きに何故かどうしようもなく目を惹かれる。

「だめかな」

 自分でも、だめだと思う。振られた直後に、何を言っているんだろう。こんなことだから恋をしたことがないと言われるんだ。でも、まだ中学生なんだから、分からなくても仕方がないと思う。……今度は自己弁護だ。今日の自分は、どこかおかしい、自覚がある。やっぱり、ひとつ上の女先輩の言葉と平手が、俺に精神的にも物理的にも衝撃を与えているんだ。

「確かに変なことだね、困ったな、私、鳳くんと初めてまともに会話したの、今日なのに」
「それだとやっぱりだめだね」
「どうだろう。外聞は良くないんじゃないかなあ」
「外聞より、君の気持ちが聞きたいよ」

 もうどうにでもなればいい、そんな考えで彼女を困らせて気を紛らわせている自分は卑怯だと思う。彼女は首を右に傾げたり左に傾げたりしながら気まずそうに、申し訳無さそうに応えた。……申し訳なく思わなくちゃいけないのは、俺の方なのに。

「私、誰かを好きって思ったことがまだ無いんだ。付き合うとか、わからないよ」
「……奇遇、だね」

 まるで全身に電流が走ったようだった。彼女が、悩んでいるふうに告げた言葉が、俺には運命に思えた。

「俺も今、そう言われて叩かれてきたところだよ」

 彼女は一瞬目を丸くしてから、ふうん、と唸った。

「案外、人気者の鳳くんと、陰キャラの私って似てるんだね」
「だから、似た者同士で、恋を探してみませんか」

 頬をタオルで抑えた間抜けな格好だったけれど、俺なりに真面目な顔と声で彼女の目をまっすぐに見た。彼女は首を傾げず数秒止まり、そして、噴き出した。

「い、イケメンって変な台詞を言っても映えるから、得だね」
「やっぱりだめだったか」
「ううんいいよ」
「それはどっちのこと」
「さっきの台詞、良いと本気で思ってた?」
「……いいや」
「よろしくお願いします、鳳くん」
「よろしく、あー……」

 俺は、どうするべきかと悩み首を右に左に傾げて考えたが、結局気まずく、申し訳なく思いながら彼女に問いかけた。

「名前、聞いてもいいかな」

 彼女は、堪え切れないと声を上げて笑った。


あとがき
お題:mutti様より いっしょに恋を始めよう (150926)


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