夏の夜ほど日によって気分の変わるものは無いと思う。暑いながらも窓からの緩やかな風が体を撫でるその心地よさに安らぎ眠る夜もあれば、目を閉じて寝よう寝ようと思ってもじっとりと熱気がジェル状の形を持っているようにまとわりついてただひたすら意識が落ちるまで我慢する夜もある。今夜は、どちらかと言えば後者だった。いわゆる熱帯夜という奴に違いは無く、うだるような暑さに寝返りをうつことすら煩わしくベッドに人形のようにじっと横たわっていた。それは、全身にじっとりと汗をかきながらも、なんとかうとうととまどろみ、夢への扉が開きかけている時だった。 「……あんた、何してんの」 廊下が軋む音も、建てつけの悪い扉が開く耳障りな音も聞こえていたが、ようやく眠れるというその欲に負けて無視をしたのは完全に失敗だったんだ。自分の体を覆うように荷重がかかってやっと口を薄く開いた。侵入者がとっとと消えてくれるように願いながら。 「ジャック」 たっぷりと溜息をのせて、気だるさ全開で名前を呼ぶ。 「分からんか」 分かるわけがないだろう。190cm36℃の重しは暑くて重くて邪魔だ。とにかく眠くて、口を開くのすら鬱陶しく、再度の溜息で答えた。 「鈍い奴だ」 ジャックの返答は短く、小さく掠れた声で、部屋の外には消して聞こえないようなもので。 「暑い、邪魔」 薄いシャツを着たジャックの胸を押す私の口から出る文句はだるさで短く、ほぼ寝る直前で小さく掠れた声で、きっとジャックにしか聞こえないようなもので。ああ、なんだ、これではまるで、秘めた仲の恋人同士の囁きのようではないか。もちろん私とジャックはそんな仲では無いし、秘め事に当たることは当然したことなんか、ない。顔をぐしゃりと顰めて思いっきり不快を表す顔でひとつの可能性を呟く。 「夜這い、とかいいださないよね」 返事の代わりなのかジャックは押し返そうとしていた私の両手を取った。はぁ。文句を長々と言うのが面倒だ、意思だけ伝えられればいいか。そう思って力をろくに入れず、抵抗しなかったのが悪かったのか。いやきっと、この頑固で我儘な男のことだ、上にのしかかられた時点で私がこうなることは決まっていたのだろう。私の腕をシーツに縫い付けるように抑えるその力は、腕がベッドに沈まない程にやんわりと優しい。もはや抑えていると言うより添えているようだ。解こうと思えばいくらでも抜けられそうな拘束なのに、振り払う事が出来ないのは、ただこのサウナのように蒸し蒸しと暑い夜に辟易として動けないだけなんだ。ただ、それだけで、別にそれ以外に理由なんて、あるわけないんだ。
 ちくり。ちくり。
 細い針で刺すような小さな痛み。薄目のままに視線を下げれば、ジャックが私の首元に顔をうずめていた。時折、ちぅ、と小さな吸音も聞こえる。私がゆっくりとジャックの黄色い髪を眺める間もちくちくと絶えず首に痛みが走っていた。なんか、次第に、リズムをとっているような、馬鹿馬鹿しくもそう感じてくる。暑さと湿度で頭が沸いてきているのかもしれない。きっとジャックほどではないけれど。ちくり、ちぅ、ちくり、ちくり、ちぅ。気がつけば首から下がり、鎖骨をなぞるように痛みが移動していた。ジャックの頭が動くたびに、彼のやたら長いもみあげやら、髪の毛が肌を撫でる。くすぐったい。身をよじると少し痛みと音が止まる。気を使ってくれてるのか、と思うけれど、本当に私の事を思うならば、そもそもこの行為自体をやめてくれというのが正直なところだ。いつの間にか鎖骨も味わいつくし肩に行ったと思ったら胸元にまで跡をつけ始めた。「ちょっと」「なんだ」「いいかげんにして、よ」「貴様が悪い」なんてこった、私は今後どれだけ暑い夜でもキャミソールで寝る事は許されないらしい!ネックの長袖で寝ろと言うのか、夏に。冗談じゃない。ああもう、腕までちくちくちゅっちゅとこの男は!私の胸から上は跡だらけで真っ赤になっているに違いないのに腕まで!明日私にネックの長そでを!着こめと!言うのか!ぎろり、瞼をこじ開けて睨みつけてやると、にやり、ジャックは私に目線を向けて笑う。ここまでいらっとする上目遣いも珍しいんじゃないだろうか。やめろと怒鳴りつけてやろうと口を開いたのに、出てきたのは違う、小さな悲鳴だった。「っ痛!」さっきまでの、ちくり、とは違う、がり、というような強さ。ジャックはまたにやり、と一つ笑んでから、ぐあ、と私に見せるように大きく口を開けた。窓から入るわずかな光に、きらり、ジャックの歯が光る。いやちょっと、まさか。嫌な予感に眉間を狭める瞬間。同時。がぶりといい音が聞こえてきそうなほど勢いよく二の腕に噛みつかれた。「う、わあ!」「ふん、色気の無い声だ」「うるっさい!」ジャックが噛みついた所に目をやれば、薄闇の中でも分かるほどの噛み跡が付いている。もう本当に、こいつは。呆れてジャックに叩きつける言葉が見つからず、口をただ開閉していると、ジャックは楽しそうに口角を上げながらかちかちと歯を鳴らした。まだ噛むつもりなの、と私が声を上げる前に、その通りだと言うように今度は肩にがぶり。「い、たい!」私が反応しだしたのが面白いのか、露出しているところ、キャミソールに隠れていない大部分の肌を逃すものかと何度も何度も位置を変え噛みつく。がぶ、がぶ、がぶ、がぶ。くそ、なんて楽しそうな顔をするんだ。弱く噛みつくなら良い。いや、良くはないけれど"まだ"良い。でもジャックは、思いっきり、噛む。まるで私を本当に食べてしまうのではと思うほど強く。そのせいでひと噛み、ひと噛みにびくっ、びくっと体が反射反応してしまう。そしてそれにジャックが喜びまた噛む。なんなのこいつ、Sなのかもしれない。「ああもう、私は、寝たいんむむむ!」抗議の叫びすら、させてもらえないのか!語尾を飲み込むようにジャックの唇が押しつけられ、無遠慮に舌までねじ込まれた。この野郎、さっきまで手首に噛みついていたくせに!ぐちゅり。絡みつこうとするジャック。ぐちゃり。逃げる私。何処までも不本意で何処までも不毛な追いかけっこ。一々立つ水音が、直接脳に響くのが、その、なんとも、言い難い。ジャックが口付ける角度を変えるたびに、彼の髪の毛がじくじくと痛みを残す私の肌を擦り、刺さり、地味にくすぐったいし、痛いし、どんどん、息も苦しくなるし、ああ、もう、なんでこんなことに。思考が、混濁して、いく。いたいくるしいおもいねむいあつ、い。ぬるり。おいつかれて、ひきだされる。いた、いいたい痛い痛い!今度は、ジャックは口内に引き込んだ私の舌を、しつこく舐るように、噛みついている。私はジャーキーじゃない。朦朧と、意識を手放すその直前に、解放された。荒い息の私を見下ろして、一言。「酸欠で、眠らせてやろうかと思ってな」しれっと、優しいだろう?と言うどや顔を見た瞬間、ぷちんと頭の中で何かが切れる。奴の顎に渾身の力を込めて頭突きをかましてやった。

「貴様の肌の、余すことなく、蹂躙してやろう」

 ばか、もう、すきにしやがれ。


あとがき
まさにこれこそ、やまもおちももちろんいみもない。 (130508)


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