喜劇

 銃兎のマンションに着くが、予想通りインターホンに返事はない。いつものように教えてもらった暗証番号でエントランスを突破して部屋へと向かう。いつも通り不用心に鍵の空いたドアを開け真っ暗な玄関を上がると、足に何かが引っ掛かった。照明をつければ、廊下には革靴と鞄が乱雑に投げ出されている。私は自分のより随分サイズの大きいその靴をきちんと玄関に並べてから、もはや勝手知ったる廊下を進む。
 目的の戸を引く。そこはやはり暗く、がらんとした脱衣所だ。その先には、浴室がある。明かりはついていない。私は靴下を脱ぎ捨て、無遠慮にそこに踏み入った。
「銃兎、生きてる?」
 返事の代わりに聞こえるのは僅かな水音。入り口から見えるのは、浴槽から飛び出しているやたら長いスラックスの脚だけ。
 近寄って覗き込めば、浅く張られたお湯の中、飲み友達である銃兎が上体と頭をぎりぎり湯面に浮かべるようにして身を投げ出して……つまり、半ば沈んでいた。
 彼に合わせて仕立てられている細身のスーツとシャツは、ぴったりとその身体に重たく張り付いてしまっている。首元のネクタイはカラーピンまでそのままきっちりと絞められたままだし、曇りがちで水滴だらけの眼鏡の下の瞼は静かに閉じられていた。
「……だから、オフィーリアかっての」
「…………うるせぇ」
 仄暗い水の底から響く悪態を聞いてようやく、私はほっと息をついた。何度か見ている私ですらこうなのだから、この光景を知らない人が見たら殺人現場かと驚くことだろう。銃兎は人の恨みを買いまくっているらしいから、尚更だ。
 なんの悪癖か、この男は2、3ヶ月に一度これをやる。
 本人からはっきり聞いたわけではないけれど、どうも睡眠不足と過労、ストレスが積み重なり天井を超えると全てを忘れたくなるのかなんなのか、こうなってしまうようだった。
 ただ銃兎自身何もかも面倒臭い気分になろうとも、幸い命を捨てるつもりだけは無いらしい。一応これをやる時には必ず私に連絡を寄こしてくる。ワンコールだけの着信履歴。それを見ると私は、自分の予定を放り投げてここに飛んでくることになってしまうというわけだ。
 ただでさえ死ぬ気がなくたって風呂場で亡くなる人は年間でもかなり多いらしいのに、ひとりでこんなことをしていたらハムレット原典さながらに死ぬのも時間の問題だろう。銃兎は儚げな美少女どころか180越えの立派なアラサー男性だし、彼が口ずさむのはゴリゴリにキメたラップだ。沈みゆく少女とはまるで違うのだから、是非とも生きてもらわなくては。私だって顔見知りを見殺しにしたとあれば夢見が悪いし、そこまで冷酷な人間ではないつもりなのだ。
「ほら銃兎、スポドリ」
 銃兎の後ろ頭に手を差し入れ、少しだけでも頭を上げさせる。普段は遊びのある七三にセットされた銃兎の髪型も流石に崩れ切り、湯に漂う後ろ髪は指に絡んだ。
 温かい。思い返せば、初めて呼び出された時は水だった。この光景に加えて冷え切った身体とくれば、それこそ本当に死んでいると思いその身体を慌てて揺すりながら「じゅうとくん、ねえ、じゅうとくんってば! え、やだ、け、けいさつ……!」「……ここにいる」「ぎゃーっ生きてる!」みたいな会話をしたのを覚えている。
 その後熱いシャワーを浴びてスッキリした顔で出てきたタオル一枚の銃兎に、安堵や恐怖やなにやら色々と混ざって半泣きで縋りながら、せめてお湯を張ってくれ、水量も減らしてくれとお願いしたら、それ以降は律儀に対応してくれている。まあそもそもやらないでくれという話なんだけれど……。
 あの時は風邪の心配もあるしと騒いだ気がするけれど、これはこれで水没に加えて脱水症状も怖い。気苦労多いな私は。おべんちゃらでなんとかならないものか。ならないな、お相手の銃兎の方がずっと口がうまいから。
 ……もしかして、銃兎自身が普段は色々と気苦労の多い人だから、その反動でこんな無気力状態になるんだろうか? いやまあ本人との会話や風の噂程度でしか彼の人となりは知らないし、それで世話を私に頼られるのも謎なんだけれど。
 そんな事をぐちゃぐちゃ考えながらペットボトルを彼の口元に寄せて傾ければ、当然液体の半分くらいはぼたぼたと顎と伝って溢れ落ちていく。どうせ、顔も服もすでにびしょびしょのぐしゃぐしゃなんだから構いやしない。時々、薄闇の中で彼の喉仏が動くのが見える。僅かながらでも口内に入った水分を嚥下していると確認できれば、それで良いのだ。
「ん、ぐ……へたくそ、が……」
「うるさいなあ」
 二、三口飲ませてから、またそっと頭を下ろした。無理矢理上げられた頭部が解放されたからか、湯に浸かって温まるのが心地良いのか、銃兎の眉間の皺が伸びていく。悪態がつければ安心だ。
 まったく、私まで仕事着をびしょびしょにしてお世話を焼いていると言うのに。しかもこの服なんてついこの間買ったばかりだ。いつものことながらもため息を吐いて銃兎の頭から手を引こうとすると、しかし今日に限って様子が違った。
「銃兎?」
 びしゃり、離れる私の腕に、赤い手のひらが重力に任せるだけの投げやりさでのしかかった。ホラー映画のゾンビか。内心つっこみながらまた顔を覗き込むが、やはり目は閉じたままだ。暗いから分からないが、きっとクマも浮いているんだろう。頼むからこうなる前に普通に休んで欲しい。……そうはいかないからこうなっているんだろうけれど。
 手を振り払うのも気が引ける。でも、この体勢でいるのも、そろそろ腰が痛い。もう一度名前を呼ぶと、もごもごと口が動いた。
「……いかないで、くれ」
「え?」
「……なんでも、ない」
 ばしゃん、重力に導かれるまま、滑り落ちる赤い手が浅い水面を叩いた。
 それから二、三度声をかけたけれど眉間の皺が一つずつ増えるだけだったので、私はいつも通り銃兎の懐を漁ってから風呂場を後にした。

 ***

 自室から出てきた銃兎が、私の呼びかけに虚を突かれたようにタオルで頭を掻く手を止めた。
「どう? すっきりした?」
「……あなた、まだ、居たんですか……」
「えぇー……?」
 自分の命を人質に呼びつけて面倒を見させておいて、随分な良い草だ。じっとりと睨みつけると、銃兎は「冗談ですよ」と肩をすくめて笑った。
 皮肉な敬語に嫌味な笑顔、すっかり通常運転だ。いや、回復したのは良いことなんだけど。
 あれから少ししてシャワーの音が流れて、それから銃兎がソファに座る私の後ろをのそのそと通り過ぎていった。私は私でやることがあったのと、多分彼は全裸かタオルを巻いただけだろうから特に声はかけなかったけれど、やはり気付いてなかったらしい。
 ラフな格好に着替えてきた銃兎が横に座るのと同時に、煙草とライターを渡してあげる。これもいつものことで、銃兎がスーツごと水没させるものと同じ銘柄とコンビニのレジ横にあるライターを、私はここに来る前に買ってから来るのだ。
 そして、いつも一緒に入水させられるオイルライターはテーブルの上に綺麗に分解して乾かしている。替えのワタや芯材だって、彼が用意している備品を引っ張り出して、横に並べて置いておく。私自身は使ったことがないのに、もはやこの手入れにも慣れたものだ。
 そう呆れと自賛の入り混じったため息を吐く私の横で、ちゃちな蛍光ブルーが火を灯した。
「……居てくれて、よかった」
 いつもの髪も服装もビシッときめている彼なら違和感が凄いだろうが、今の彼はタオルで拭いただけの髪に部屋着。ついでに彼に言わせるとメガネもくつろぐ時用らしいけど、私にはよく違いがわからない。なんにせよ、こんな全く気取っていない銃兎を見たことある人間が何人いるのか。ある意味、タオル一枚の姿よりも見てはいけないものを見ている気になってしまう。
「なに銃兎、まだぼーっとしてる?」
「失礼ですねえ、本心ですよ」
 長い吐息が響く。わざと茶化して笑う私から背けた向こう側に、白い煙が広がっていく。
「ああ、あれか、いつ呼ばれても来てあげる優しい優しい“都合の良い女”的なやつ!」
「ハァ、もうそれで良いです」
 私が皮肉混じりに胸を叩いて笑うと、銃兎は背もたれに沈みながらまた大袈裟に煙を吐いた。
「うそうそ、ちゃんと良き常連仲間だと思ってるよ」
 短くなった煙草を押しつぶして、銃兎はだるそうに立ち上がった。どっこいしょとか言い出すまでそう遠くなさそうだ。
 それから、いつもオイルライターの備品とかを入れてる一つ下の棚から何かを取り出した。細長い箱だ。
「本当は、次食事をする時に渡そうと思っていました」
「何それ、お菓子? お礼なんて別に良いのに。いつもそう言ってお酒奢ってくれるじゃん」
 私の気遣いに対して、銃兎の口からは煙草を咥えてもいないのに深呼吸ばりの息が吐かれてしまった。
 なにさ、とおどけたように突っかかってみても、こめかみを抑えた銃兎には無視されてしまった。やっぱりあんなことするから風邪引いたんじゃと心配したら、またため息のおかわりを貰ってしまった。失礼では?
「ハァ、もうなんでも良いです、いらなきゃ捨ててください。……このクソボケ女」
「えっなんで私罵倒されたの? 私に感謝してるって流れじゃなかったの!?」
「はいはい、もうこちら、帰ってから開けてください。あなたの鞄入れときますよ」

 ***

 それから数日が経ち、待ち侘びた週末がやってきた。銃兎から貰った箱は未開封のままだ。
 あの銃兎が用意してくれたんだから、きっと良いところの良いお値段の良い見た目の良いお味のものなんだろうな……そんな期待に胸を膨らませて、最大限に楽しむべく私はいつも買うのよりちょっとお高めのコーヒー豆や茶葉を用意してティータイムに臨んだのだった。
 立ち上る湯気、これから始まる素敵な時間への期待を煽る香りの中、私はいよいよウキウキとして箱に手をかける。
「あれっ?」
 オシャレにも巻き付いていた細くて銀色のリボンを弄っていると、ポロッと、どうも挟んでいたらしいカードがテーブルに落ちてしまった。メッセージカードかな、と思って触れたけれど、どうも硬さが紙じゃあない。プラスチックっぽい感じがする。
 まああとでいいか、折角の飲み物が冷めちゃうし。そんな花より団子精神で、私は今度こそ箱に手をかける。
「あれっ!?」
 そうして出てきたのは、“きっと良いところの良いお値段の良い見た目のもの”には違いなかった。ただ、良いお味はしそうにないところが大きく違った。
 それどころか、お菓子でもなければそもそも食べ物ですらなかった。ぐちゃりと投げ出されているリボンよりももっと細いチェーンに、小ぶりで上品な飾り。多分だけど、これ……ネックレスだ。
 ずず……。とりあえず、まだ湯気の立つ飲み物を啜った。うん、見間違いかもしれないし、一旦落ち着こう。
 1度目を閉じて深呼吸。瞼を開けば、ほら……きらりと軽く涼やかな光が目に入る。いや、なんで!? 落ち着けるわけがない。やっぱり意味がわからなくて、折角のお高めの飲み物も全然味がしない。
「あれっ……あれえええっ!?」
 もしかしてメッセージカードに何か、と思ってひっくり返すと、それは右下に数字が書かれているだけだった。この文字列には、見覚えがある。私の記憶が正しければ……これは銃兎の住むマンションの部屋番号だ。
 まさか。いや。これはカードキーというやつでは。いやいや。そんなわけないでしょう。いやいやいや。そうだとしたらこれは“合鍵”、いやいやいやいや……!!
『遅えんだよ!』
 もー銃兎ってば間違えてるよー、と言うつもりでかけた電話。
 銃兎にはワンコールで出られてしまったし、それに私がびっくりしている間にすごい勢いで第一声を取られてしまった。その言葉と声色はまるで冗談でも間違いとも思えなくって、私は出鼻をくじかれた上まるきり気圧されてしまった。
「……アノ、カード、エット、ネックレス」
『あなたが鍵も締めずに不用心だと騒いだんでしょう? ネックレスは……まあ、あなたに似合いそうだから買ったんですよ。普段のお礼には足りないですが』
 電話の向こうから鼻で笑う音が聞こえて、ホッとする。いつもの嫌味ったらしい銃兎だ。ああ良かった、あのカードキーもプレゼントも、これからも入水自殺にならないように見張に来いってだけで、やっぱり深い意味は無いんだ。まったく、驚いたり焦ったりなんかして……とんだ“思い違い”じゃないか!
 そうなると自意識過剰みたいで少し恥ずかしくなってくるけれど、私はそれを誤魔化そうと笑ってお礼を返した。
「いやあ本当お礼は十分だよ、まあでも、それならありがたく着けさせてもらうね」
『……ええ、次会う時を楽しみにしています』
「今後ともよろしくね」
『こちらこそ、よろしくお願いします』
 じゃあね、と軽く通話を終えようとした私よりも、銃兎の言葉の方が早かった。
『正直……フラれたかと思っていました。いえ、この先は直接言わないと無粋ですね。それでは、次お会いするときに改めて』
 そうして通話が途切れる直前に聞こえた挨拶……今まで聴いたことがない、お菓子よりずっと甘い声が耳に残る。
 耳元から離せないスマホを片手に、そしてすっかりぬるくなってしまったカップを片手に……私はドッと冷や汗が吹き出るのを感じた。
『おやすみなさい。……さん』

 ……とんだ“思い違い”じゃないか!


(20230724)

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