喜劇のうらがわ

 そもそも、初めはあの野郎……左馬刻を呼びつけたつもりだったんだ。
 水面を突き抜ける感覚。バカみてえな現実と、クソみてえな疲労が、底無し沼のように昏い水に沈んでいく。目を閉じた暗闇の中、俺の身体と周りの境界が曖昧になっていく。唐突に、水に冷やされた頭が胸ポケットに突っ込んだままのオイルライターと煙草の存在を思い出した。だから俺は、左馬刻の馬鹿にそもそもテメエの持ち込んだヤマに手を貸してこうなったんだからそれくらいしろと、煙草と替え芯を買って来させるつもりだっのだ。幸いにも、スマホには防水性能がついていた。ほとんど浴槽に沈んでいた俺は画面をろくに見ず、発着信履歴に触れた。
 ……それがだった。
「もしもし、どしたの? ……銃兎くん? じゅう、」
 水の入った耳にくぐもって聞こえる女の声。記憶を辿る。行きつけのバーの常連だ。そういえば話の流れで連絡先を交換したと思い出す。クソ、かけ間違えた。通話を切ったスマホを脱衣所に向けて投げやりに放った。ガン、と床に跳ねる音。画面を見て、左馬刻を探して、発信をして、文句を言う。その動作をこなすのすらはや億劫だった。
 あの時期に俺が取り組んでいたのは、ひどく厄介な案件だった。それもとてもじゃないが表沙汰にできない手も使い、普段の数倍体力と気力と忍耐力を要するヤマだった。頭の先から足の先まで怠さがまとわりつく体を引きずりなんとか家についても、汗や泥、返り血を落とすのが面倒で、浴槽に沈み込むのが精一杯だった。適当に入れたら水だったが、それを気にかけるだけの余力もなかった。
「え? ……じゅうとくん、ねえ、じゅうとくんってば!」
 しばらくそうして冷たい闇に沈んでいたら、突如、ぎゃあぎゃあと甲高い悲鳴が浴室に響き渡った。うるせえだけでなく、図太くも警察官の家に侵入してきたそいつは水を吸いずっしりとしたスーツに手をかけて揺さぶり始めた。
「け、けいさつ……!」
「……ここにいる」
「ぎゃーっ生きてる!!」
 無理矢理覚醒させられては、服を着たまま、水に寝転び続けるのを俺の理性は良しとしなかった。
 それから騒ぎ続ける女を追い出した。……薄暗かったからだろう、俺についていただろう"汚れ"が彼女に気付かれなかったのは不幸中の幸いだった。
 冷え切ってしまった頭と体を熱いシャワーで流して出ると、女はまだ室内にいた。リビングで、顔を青くしてオロオロしていた。
 彼女は俺を見るや否や、俺がタオルを巻いただけの半裸であることも気にせずに縋り付いてきた。いや、もはや掴みかかる勢いで突っ込んできた。
「し、しんじゃったかと、じゅうとくん、ねえ、びっくりした、ばか!」
 別に、俺とこの女は親しくはなかった。同じ店で、たまに顔を合わせたまに話をするだけだ。その女が、涙声で支離滅裂にやかましく怒鳴る様を見下ろしながら……俺の中にどうにも熱が籠り浮つく部分があった。それが先ほど浴びたお湯の火照りだけだとは思えなかった。

 ***

 それから数ヶ月がたった夜。俺はまたひどく疲れていた。自分の案件をこなしながら上の尻拭いから同僚の応援に後輩の面倒。今回は別に返り血こそ浴びていないが、ただただ疲れていた。やはり服を脱ぐのも億劫で、その後のことを考えるのすらだるかった。
 また水に沈みながら、ふと頭をよぎるものがあった……“あのお人好しで喧しい女は呼んだらまた来るんだろうか”。
 馬鹿か。そんな女々しい、ただの顔見知りを相手に試すような行為をしてなんになる。そう思い直し、疲れから発信した気の迷いをすぐに止めた。たった1コールだ。間違い電話だと思ってくれるだろう。
「銃兎くん? 入るよー……銃兎くん、もしかしてお風呂場ー!? っぎゃー! また死んでる!!」
「いきてる……」
 結局、はまたしてもドタバタとやってきた。
 脱衣所に出ると、シャワーを浴びる前に脱ぎ捨てた濡れた服が申し訳程度に洗濯機に掛けられていた。リビングに向かえばやはり彼女が居て、数ヶ月前と同様掴み掛かってきて、俺を怒鳴りつけた。
「ばか! じゅうとくん、ばか!! はぁーっもーっしぬきがないなら、せめておゆにしてよ! かぜひくし! かぎあけっぱだし! なんなの、もう……!」
 だんだん泣き声の色が強くなりながら喚く彼女の向こう、テーブルの上に何かが散らばっているのが見えた。バラバラにされているが、あれは俺のオイルライターのようだった。脱衣所で俺のスーツを持ち上げた際にでもポケットの中に気付いて、手入れをしようとしてくれたのか?
 ……確かこのひとは、煙草を吸わないはずだ。馴染みのないオイルライターと格闘している彼女の様子が、頭に浮かんだ。どう表しようもないいじらしさに、頭の後ろがじんわりと甘く痺れた。
 このひとは、また呼んだら来るんだろうか? 性懲りも無く。俺を心配して。火照る頭でそう思案しながら、まだ濡れている髪をタオル越しにくしゃりとかいた。

***

 隣に座るが「そういえば」と明るく口を開いた。 
「銃兎、最近あの悪い癖やらなくなったね」
「そうですね、誰かさんのおかげで」
 そもそもその癖を作ったのが誰か、安堵の笑みを浮かべるは知らない。きっとこれからも知ることはないだろうし、知る必要もない。
 何故なら、その癖はもう俺には必要ない。
「あれよりも、ずっと良いものを見つけたからな……」
 彼女の首に下がるネックレスをひと撫でする。「なにそれ?」とくすぐったそうに身を捩る彼女を抱きしめれば、じんわりと心地良い温かさが広がった。


(20250712)

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