「30分」
隣で本を読みコーヒーを堪能していた銃兎くんが、ふと口を開いた。
休日の午後のまったりした時間。ソファに並んで座って、お互い思い思いに過ごすいつもの過ごし方だった。
でも彼は本を閉じ、マグカップの隣にそっと置いてしまった。口にした時間もなんだかわからない。首を傾げて彼の顔を伺うと、にっこりと笑って返した。
「あなたがそれを抱きしめていた時間です」
彼の長い人差し指が向けられた先。いつもと違って私の手元にいるのは、手のひら大の銃兎くんだ。
正確には、彼を模したぬいぐるみ。中王区がDRBにかこつけて展開しているいくつかの事業の一つとして製作したサンプルだという話だ。シニカルに笑んだ口元が、本物によく似ている。
H歴の男性にはどうやら肖像権も存在しないらしい……銃兎くんがそんなことを不機嫌にぼやきながら放り投げたものを拾い、それから私は手持ち無沙汰の慰みに弄んでいた。権利関係はわからないけれど、ぬいぐるみに罪はないし。
さて現状を整理したところで、改めて私が考えるべきことは、わざわざ30分も時間を測っていた銃兎くんの真意についてだ。手元の小さな彼と、隣の彼を交互に見る。
そして見上げる方の彼のそっと細められた目に、上がる口角。そして機嫌良く浮いた声色。……私に揶揄うポイントを見出だした時のいつもの様子そのものだ。嫌な予感、いやもはや確信だ。腰を浮かせて逃走を計ろうとしてみたけれど、そんな私の行動などお見通しとでもいうふうに銃兎くんが口を開いた。
「5回」
「こ、今度はなに?」
「あなたがそこの私にキスをした回数です」
蛇の舌なめずりのような囁きに、私の喉からは蛙の鳴くような呻きが出てしまった。
“ぬいぐるみ”という物は、大抵存在自体が可愛い。モデルの人物は181cmの背高のっぽで隙あらばいじわるをしてくるけれど、私の両手に収まるこれは顔付きは似ていても物は言わないし柔らかく丸っこい頭は揉み心地が良い。だから私は暇に空かせて意味もなく撫でたり抱きしめたり、まあ、確かに頬擦りとか口元にも持っていったりしたけど……最後のそれをキスだとは認識してなかったよ、私は!
「よ、よく見てるね……」
「ええ。あなたを監視、いえ観察することにかけて右にいるものはいないと自負しています」
その言い換え、意味ある? とか、嫌だよ銃兎くん以外にそんな人がいたら! とか、そもそもそんな人ひとりでもいて欲しくないよ! とかツッコミ文句をやわらかい銃兎くんの頭をもみもみしながら考えたけど、どれもこれも得意げな彼の様子に霧散してしまった。真面目な話し合いならともかく、こういう時の銃兎くんに口で勝てたことは、ない。
「……あっ!」
小さい銃兎くんが宙に浮いた。もちろんぬいぐるみにそんな機能はない。大きい銃兎くんに、摘み上げられ、またテーブルに放り投げられてしまったのだ。
「さん」
ころんと倒れるかわいそうな銃兎くんに手を伸ばそうとしたけれど、ひどい銃兎くんにちょいちょいと袖を引かれて叶わなかった。私の静止を見て離れていく手。流石に純粋な文句を言おうかとしたけれど、私が振り向いたところで、彼はそのまま両腕を広げてみせた。ちょうど、ぬいぐるみの彼のように。
「どうぞ」
「どうぞ、って……?」
嬉しそうやら楽しそうやら……私のオウム返しにまず見せたのは、彼にしては珍しい無邪気な笑顔。呆気にとられている私に、本物銃兎くんは続けた。
「それにしたことを私にもしてください。同じことを、同じ回数、同じ時間」
訂正、邪気しかない。知ってた。やっぱりとっとと小さい銃兎くんを回収して逃げてしまおう。そろそろと腰を浮かせたところで……蛇のように、再び彼の手が巻き付いてきた。
「う、わ!」
「おやおや。"身じろぎ"なんかして、どうしました?」
ソファに尻もちをつかされて、白黒しそうになる目で非難を込めて睨んだ。でも銃兎くんは白々しい笑みを崩さず、何事もなかったように、またウェルカムハグポーズに戻っていくだけ。ぬいぐるみと同じ格好だ。
「折角ここに本物がいるのに……無視されたら、寂しいでしょう?」
首を傾げそっと口角を上げて一見殊勝なふりを見せているけれど、優しくしているうちに言うことを聞いておいた方が良いですよ、とその笑顔に書いてある。ぬいぐるみと違って、可愛くない!
「はあ、そろそろ腕が疲れてきたな」
「降ろせばいいじゃん!」
反射的にツッコミを入れると、銃兎くんは腕の代わりにそっと眉を下げた。
「そうですか……私も、たまには可愛い恋人に可愛がって欲しいんですけどねえ……」
「ぐ、うう……!」
それは、ずるいんじゃない!? 銃兎くんはいい意味で自分の振る舞いには人一倍気を配っていて、良くも悪くもプライドが高くて、私にとって都合が悪いことに私を揶揄うための口も頭もよく回る。だからいつもはもっと遠回しに声をかけてきて、そしていつの間にか「あなたがそうして欲しがってたから」「良かったですねえ」みたいな流れにしてくるのに。こう分かりやすく、ストレートに駄々をこねられると……それはそれで、断りにくい!
「いや、ほら、大人気MCでもある入間巡査部長サマ相手に恐れ多いんじゃないかなって……」
「それを言うなら、おまえは、俺の、恋人だろうが。照れ隠しはやめて、早く来い」
「あい……」
だめだ。満足するまで引かないモードに入ってしまっている。
……まあ、あれだよね、同じことだよね。銃兎くん自身同じことをしろってそう言ってるんだし、これはぬいぐるみと戯れるのと同じことなのだ。内心でそんなことを読経のように唱えながら、彼の胸に頬を寄せるように恐る恐る抱きついてみた。
くっついた彼の胸の奥で、噛み殺している笑みが響いて聞こえる。頭上からは、満足気な溜め息。うーん……やっぱりぬいぐるみと同じなわけないかも!
それから、抱きつく私をその上からさらに包むように、彼の腕が私の背に降りてきた。
「……」
「……」
どく、どく……笑みが引いた後は、規則正しい鼓動だけが響く。拍子抜けだ。私はてっきりくすぐられるか、怪しく撫でられるか、想像のつかない嫌らしかったり厭らしかったりイヤらしかったりする揶揄い方でもしてくるかと身構えていたんだけど。銃兎くんは時々私の頭や背中をゆるゆると撫で下ろすだけでそれ以外は本当にぬいぐるみのように大人しく私の腕におさまっていて……なんなら、じんわりと伝わってくる体温で眠くなってくるほどに何もない。
「……」
もういいのかな? 銃兎くんは暇じゃないのかな? そろそろと顔を上げてみると、眼鏡越しの穏やかな緑と目が合った。普段きりりと気を張っている彼と打って変わって、緩んだ目元だ。
ふと、頬に熱が寄る。そんな目で、ずっと私を見ていたんだろうか。
銃兎くんが自分の唇を指差した。
「……ん」
「ん?」
「ほら、キスも5回分残っていますよ」
やっぱり、可愛くない! もぞもぞと身じろぎをしてみるけれど、私を囲う銃兎くんの腕は逃してくれるつもりはないらしかった。苦しくないし、少し動くだけの余裕はくれるところが、本当にイイ性格だと思う。
「……ん!」
諦めて彼の肩を掴み、半ばよじ登るようにして口付けてあげた。七三の三の方のおでこに。
それからずるずると下山してまた胸元あたりに収まると、銃兎くんはわかりやすく唇を尖らせて険しい目で私を見下ろした。
「なに、その不満そうな顔! ちゅーしたでしょ!」
「……事実、不満なので。特に場所が」
「あのぬいぐるみにもそんなもんだったよ!」
「仕方ありませんねえ、ほら、もう一度。今度はちゃんとこちらにお願いします」
仕方ないこと、ある? なんで私が呆れられる側なんだ。ぬいぐるみを口元に運んだのは事実かもしれないけど、多分あのまるっとしたかわいらしい頭とかだったと思うんだけど!
睨みつけてみても銃兎くんに引く気は一切無いらしく、“こちら”とやらをとんとんと指し続けている。キス待ちしてる間も彼は私がうんうん悩んだり慌てたりする様すらにやにやと見下ろして楽しめる人だから、タチが悪い。
「……ん!」
「ん。……こんなに一瞬でした?」
「一瞬でした!」
再び登山して、お望み通りちゅっとするけど、今度は下山も許されなかった。
「もう抱きしめてはくれないんですか? 頭も、あなたなら触れて良いんですよ」
両腕を引っ張られて、あれよあれよと銃兎くんの首の後ろに回されてしまった。それから改めて彼の腕は私の腰あたりにガッチリと回り、私は完全に銃兎くんの体に縛り付けられて、う、動けない……!
「じゅ、銃兎くんもぬいぐるみ相手にやきもち妬くんだね」
「ほう」
間違えた。彼の低くなった声に慌てた時には、もう彼の指がつうーっと腰から背中を伝い、頸まで撫で上がっていた。「そんなんじゃないですが」狙いだったのに完全に外してしまった。
「っうひゃあ!」
「毎度ながら、色気のない悲鳴だな……」
「ちょっとどこ触って、銃兎くん離し、話を、はな……」
「却下だ。すみませんねえ、あなたのご指摘通り、ぬいぐるみと差があるのが我慢できない大人気ない男なので」
そこまでは言ってないのに! 目の前の銃兎くんの口元がニヤリと歪む。
「少なくともあと20分。私に構うか、構い倒されるか選ばせてあげましょう。ああ、ちなみに……キスは残り3回です」
どっちに転んでも銃兎くんが楽しいやつ。ぬいぐるみそっくりのシニカルな笑顔が段々近付いてくる。
結局、銃兎くんは私をぬいぐるみのように弄ぶのが大好きなんだ。
隙あらば大好きな恋人いじりたくってしかたない入間銃兎(20250712)
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