初めて出会った時──いや、あれを出会ったと言って良いのか──彼は、赤い手袋を片方落としていった。名前も知らない彼を探す手がかりは、それだけ。
 だけど、それ以降毎週火曜日になると彼の姿を見かけるようになった。
 そのことに4週目に気付いてからというもの、毎週月曜日の夜には通勤鞄に赤い手袋を入れたか確認するのが習慣になった。翌朝は辺りを見回しながら職場へ向かい、そして夜も同様にして帰路を辿り「また返せなかったなあ」と鞄から出した赤い手袋を大事にテーブルへと置くのだった。
 そんなことが3ヶ月も続けば、7日のうち1日と少しの時間、眼鏡をかけた長身の彼のことを思い浮かべるようになっていた。なにせ毎週だ。季節がひとつ進む間の12回、いつも火曜日だと気が付いてからでも8回は彼の姿を見かけている。
 なのにあの赤い手袋は、未だ私の手元にあった。
 ある週は、信号待ちの横断歩道の向こう側。
 ある週は、中華街の混雑の中。
 ある週は、海風漂う山下公園の通りで。
 時には真正面から、時には横目で、緑がかった瞳が私に向けて細められる。それに私があっと声を上げる前に、瞬きひとつをする間に、彼の姿は人並みに溶け込んで消えてしまう。まるで煙のように……いや、そもそも初めからそこにいなかったかのように。
 おかげで、最近は手袋と曜日のことばかりを考えている。赤い色だけでなく、火という文字にすら過敏になっているような気さえする。遠目から、クールな印象を受けるスクエアの眼鏡も、その奥の切れ長の目も、きっちりと整えられた身なりも……ふとした拍子に頭をよぎり、私の意識をかっ攫っていってしまうのだ。
 なんとも不思議な話だ。何かに化かされているのだろうか、それとも素敵な男性を幻覚に見るほど自分は疲れているのだろうか?

「こんにちは、さん」 
 また訪れた火曜日、突然声をかけられた。心臓が、本当に飛び出すかと思った。必死に胸を抑えて振り向いたそこに、彼が立っていたのだ! 近くで見上げれば殊更整った顔立ちに眼鏡越しの涼やかな眼差し……確かに彼がそこに居た。
 こちらをじっと見つめる彼に、何故か急に「いよいよ捕われてしまった」という感覚に襲われる。あれだけ焦がれていた彼を前に狼狽える私の耳に、彼の高いような低いような不思議な声が、再び静かに届いてきた。
「お貸ししていたものを、返していただきに来ました」
 その言葉はまるで最初から私と彼の間に確かな約束があったかのように響き、胸の奥をざわざわと波立たせた。 
 けれど私と彼を繋ぐものなど、この赤い手袋のことしかありえないのだ。
「あのっ!」
 差し出したそれが彼の手に渡る寸前に、思わず私は口をついて声を上げてしまった。
 なんでいつも火曜日に? 私の名前をどこで? あなたは誰? 他にも胸の奥から溢れかえるたくさんの疑問に気ばかりが逸り、口ごもり、だんだんと恥ずかしさに頬に熱が寄っていく。
「──あまり、深く考えない方がいいですよ」
 しかし返事をしてくれた彼の顔も声も、涼やかなものだった。
 それだけを答えて、彼は薄く笑みを浮かべた。私は、ますます彼が火曜日にだけ現れる理由が気になって仕方がなかった。
 まるで、火曜日に会うことが当然みたいだ。
 それから何を聞いても彼は同じ様子で笑みを返すだけで、明らかに私を揶揄うかはぐらかしていた。だというのに私はむしろ、一手一手と丁寧に手繰り寄せられてるような気がしてならなかった。
「もう、ご質問は終わりですか?」
「……もう、会えないんですか?」
 思わず口をついて出た。これで彼との奇妙な火曜日も終わってしまうのかなと思ったら途端に体が冷たくなったような気がして、気付けば赤い手袋をぎゅっと強く握ってしまっていた。
「そうですね」
 その言葉と共にあっさりと手袋を取るのかと思った彼の手は、もう少し越えて、するりと私の手元まで伸びた。そうして、彼の手はそっと赤い手袋ごと包む。
 驚いて顔を上げると、彼がふっと息を溢した。
「それは、あなたが決めることです」
 まるで獲物が罠にかかる瞬間を楽しむように薄く歪んだ口元と……それと裏腹にただ見守るように柔らかく細められた緑の瞳が、私を惹きつけて離さなかった。


2024Novelmber01 謎 から(write241101)

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