「ひとつ、提案があるんですが」
 私が無視するのをまるで意に介さず、視界を遮る灰色のシャツが朗らかに語りかけてきた。
「キスしてくれませんか? ……あなたから」
 喉から飛び出そうになった呻きを寸でのところで飲み込む。……やっぱりこの人おかしい、“この状況”でいけしゃあしゃあとそんなことを言い出せる面の皮は、どう考えても普通じゃないよ!
 突拍子もない提案に、ぐっ、と顔が強張っていく。テレビでも観て嫌なことを少しでも忘れようとくつろいでいたのに。怨みを込めて思い切り睨み上げてやるけれど、眼鏡越しに見下ろしてくる瞳は憎たらしいほど涼しげで、ただ私の首が痛くなるだけだった。
 久々にふたり重なった休みに引きこもり続けようやく自室から出てきたかと思えば、この男は私の傍のリモコンをおもむろに手に取るとローテーブルへと放り投げてしまった。ブツッと真っ黒に変わってしまった画面に私が声を上げる間もなく真正面まで詰めてきて、先程のセリフだ。
 眼前に仁王立ちどころか、私を挟んでソファ座面に膝を当てていて、私の逃げ場と視界はすっかり奪われてしまった。そうして、“見た目だけ”はまるきり余裕の笑みを浮かべ、私の返事を待っているのだ。
 この人、昨晩のことをもう忘れちゃったのかな? 残念だけど、私はまだしっかり覚えている。私たちは、現在進行形で大喧嘩中だ。きっかけはもはやどうでも良くなっている。なにせ、一晩経って私から折れてあげようと朝イチに「お、はよう。コーヒー飲む?」と話しかけたのに、無視して冷戦へと持ち込まれたのだ。そのまま帰るのも逃げるようで癪だから、彼の家のリビングを堂々と占領することにしたのだった。
「どいて、よっ」
 今観てた番組だって、丁度面白いところだったのに。いらいらするままに目の前のお腹をぐっと押す。両手をぺったりくっつけて力を込めたのに、びくともしない。もちろんこのシャツの下を見たことがないわけじゃないけれど、職業柄最低限鍛えているらしいことを改めて実感する。
「聞いてるの? ……"入間"くん」
 いつの間にかこれを口にするのが、すっかりぎこちなく感じるようになってしまった。恋人である彼の名字を呼んだ瞬間、私の抵抗をせせら笑っていた瞳が見開かれるのが見えた。弾かれたように、彼の手が私の手首をまとめて掴む。それは決して痛くはないけれど、かといって私よりずっと広い掌から受ける圧迫は、もはやわずかな抵抗すら許さないとでも言うようだった。
 すっかり砕け散った、彼お得意のぺらっぺらに薄い仮面の笑顔。蛍光灯を背負い暗く陰る瞳に私を捉えて、舌打ちがひとつ。それから、いつも私へ向けるものよりもいくらか低く重たい声が落ちてきた。
「……嫌です。あなたこそ先ほどの私の言葉、聞いてませんでした?」
「なんの話だっけ? あまりにも支離滅裂だったからまだ寝ぼけているのかと思って聞き流しちゃった」
「なら、もう一度言ってやる」
 だいたい、何が"提案"だ。お願いならまだ分からなくもないのに。とげとげしくそっぽを向いたけれど、そのせいで、ついに彼に普段崩さない余裕の態度だけでなく敬語すら放り投げさせてしまったようだった。
 あっと声を上げる間もなく、私より頭一つ長いその体躯は覆い被さっていて、ひっ捕えられていた私の手は座面に縫い止められていた。
「ッちょっと……!」
 反射的につぶった目を開くと、眼前にずいと迫った緑の瞳とかちあった。私が文句に口を開く前に、まるで尋問かのように威圧を込めて一言一言彼の口が動く。
「俺に、キスしろ。今すぐだ」
「……そんなにしたきゃ、無理矢理したらいいでしょ」
「それじゃ意味がねえだろ。おまえから、するんだ」
「ならその前に言うことがあるでしょ! ……そしたら、私も、折れてあげる」
 私の言葉を吟味するように、瞬きを一つ。眉間に寄せた皺が瞼と共にゆるゆると開く。拘束を解いた指先が、私の手首を労るようにそろり、そろりと撫でた。
「……すみません、でした」
 零れ落ちるように降ってきたのは、彼にはおよそ似つかわしくない小さな声だった。険のとれた深緑の瞳が、体を起こす彼とともに遠ざかってゆく。
「あれは、私も悪かっ……!」
 ネクタイの無いラフな彼の襟元を掴んで、思い切り引き寄せた。眼鏡のブリッジが触れる。
 細かいことを言えば"も"と言うのには一瞬引っかかったけれど、そんなことどうでも良くなるくらいに、私の頭に燻っていた暗雲はぶわりと吹き飛んでいた。
 彼の少し真ん中が厚い唇。彼の……そして、私も望んでいた通りに思い切り押し付けたその感触が大袈裟に懐かしくって、なぜか無性に泣きたくなる。誤魔化すように、掴んだままの服を力任せに引っ張る。脱力したようになすがままの彼の身体と共に、再びソファへと沈みこんだ。
 さっきとは打って変わって、私を押し潰さないように身体を浮かせようとする彼を逃がさないよう、両手で頬を包んだ。
「私も、ごめんね。……"銃兎"くん」
「……おやおや、ん、積極的、ですね」
 言葉を吐く節々で触れれば、彼の唇の形が徐々に調子を取り戻すように変わっていくのが、よく分かる。「ならやめようかな」少し離れて私も笑い返せば「やめないでください」銃兎くんは私の手に自分のを重ね、短く懇願を吐いた。そのまま導かれるように彼の首の後ろへと両腕を回せば、いよいよ今度は遠慮も容赦もない……でも優しい唇があちらから降りそそぐのだった。
「いいですね。やはり、あなたは素直なほうが、かわいいですよ。それに俺も……限界だった」
「今日は、んむ、銃兎くんも、素直だよ。ねえ、コーヒーいれてあげよっか?」
「そうですね、いただきましょうか。……しばらく、後になるかもしれませんが」


喧嘩して仲直りする話書くの楽しい(write240602)

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