夢主亡くなってます


 結婚式を人生の頂点とするならば、エヌ氏は人生のどん底にいた。
 彼は、葬式の喪主だった。一生幸せにすると誓った妻は、もはや"妻だったもの"と形容する他無い有様で棺に収められている。
 エヌ氏はごく平凡で、しかし後ろ指指されることなどない善良かつ勤労な人物だった。そんな彼の伴侶の凄惨な死に様には、皆が彼に同情し我がことのように悲しんでくれた。
 通夜と告別式を終え、残るは火葬のみだ。守ることができなかった妻の前に呆然と佇む彼に気を配ったのか、いつの間にか式場には誰もいなくなっていた。
 だからだろうか。力強く、迷いのない足音がこの部屋へ向かってくるのが分かった。
 誰か忘れ物でもして戻ってきたのだろうか。エヌ氏が振り返ってすぐ、扉は激しい音を立てて蹴りあけられた。
「き、きみは……」
 エヌ氏は狼狽えた。細身のスーツに身を包み、花束を抱えた男がいたのだ。それも、ただの花束ではない。男の上半身がほとんど隠れるほどに大きい。色鮮やかなそれを抱えて、その男は真っ直ぐに式場の中央を歩いてくる。
 過去の話だ。エヌ氏と男は恋敵だった。恋敵と言っても、さして争うことはなくあの男は身を引いたのだ。
「……“彼女を一生幸せにする”、でしたっけ?」
 男が口を開いた。その言葉は、エヌ氏の言葉だった。それを最後に、男は二度と2人の前に現れることはなかった。
 足音が、棺の前……エヌ氏の隣て止まった。

 瞬間、色とりどりの花で視界が埋まる。強烈な衝撃と共にエヌ氏の世界が回った。

 参列者用の椅子が、倒れるエヌ氏に巻き込まれて耳障りな音を立てた。衝撃と轟音で眩暈を起こす彼に、バラバラと降り注ぐものがあった。
 男がエヌ氏の横面を殴った凶器を、つまらなさそうにエヌ氏へ向けて投げ捨てたのだ。力の限り振り抜いたせいでその束はすっかり崩れ、横たわる彼に花々が降り注いだ。
 エヌ氏は唇を噛んだ。これは当然の罰だと思ったからだ。そのまま、続くだろう男の叱責を覚悟した。
 しかし、ただ静寂だけが続いた。
 どうにか未だ眩む目を向けると、男が棺に触れるところだった。
 まるで彫刻でも撫でるようにゆったりと、何度も指先を滑らせて棺を愛でていた。
 男は、墨のように濃いクマをたたえていた。その瞼は、棺をなぞる手付きのようにうっとりと垂れている。口元には笑みさえ浮かんでいた。
 静かに佇むその姿は、深い哀悼に浸っているようだった……違う。エヌ氏は身震いした。それが勘違いだとすぐに分かったからだ。
「……彼女……」
 落ち込むどころか、緑の瞳は爛々と怪しく光っていた。
 男の薄く笑んだ唇がそっと言葉を紡いだ。
「……私が連れて帰っても?」
 その呟きは、がらんとした式場ではっきりとエヌ氏の耳に届いた。しかし、聞いたとてその内容をすぐには理解できなかった。
 男の目だけがぐるりと動き、エヌ氏を捉えた。待っているのだ。何を。先ほどの言葉は、冗談ではなく、本気で彼女を連れ去ろうというのだ。
「っそんな、馬鹿なこと……!?」
 エヌ氏は、途中で言葉を切った。けたたましい音と共に、エヌ氏を支えていた椅子が蹴り飛ばされたからだ。男の足が、そのままエヌ氏の真横に勢いよく振り下ろされる。
「テメェが口答えできた立場か!? ァあ゛!?」
 怒声に、式場中が震える。耳鳴りがするほどの剣幕だった。
 反射的に息を飲み、身が竦んでいた。先ほどの彼の覚悟も抗う意思をも吹き飛ばしてしまうほどの怒気に、エヌ氏はすっかり飲まれていた。
「……ご安心ください」
 しかし、次の瞬間男がにっこりと笑みを見せて空気が変わる。まるで緊張の糸を無理矢理ちぎり捨てるようだった。声の調子まで軽く、先ほどまでの威圧が嘘のようだった。
 男は懐から取り出した紙を、エヌ氏に見えるように広げた。
「この通り、彼女を迎える準備は済んでいますから」
 火葬許可証、それも火葬済みの証明印が付いている。それは、エヌ氏がファイルに綴じているはずのものだ。葬儀に関連する書類をまとめていて、あれも確かにそこにあるはずのものなのだ。一体、どうやって! いつの間に!
「そんなこと、今はどうでもいいじゃありませんか」
 男は歌うように話を続ける。
 なんとか口を挟もうとして、エヌ氏は、ひとつの違和感に背筋を冷やした。……静かすぎるのだ。
「ああ、体面上火葬と墓への納骨式がしたいのであれば、代わりも私が手配して差し上げますよ」
 あれだけの音がたったのに、誰も来ない。そんなことがあるだろうか。参列者もだが、式場スタッフくらいは様子を見に来ても良いはずなのに。
「フフフ……大丈夫、あなたが罪に問われることは絶対にありません」
 ──”余計な口さえ開かなければ”。その含みを理解したエヌ氏にできることは、ただ頷くことだけだった。
 それを見届けた男は、何事もなかったかのように踵を返す。エヌ氏が男の顔を見たのは、これが最後だった。
 散らばる花々の中、棺へと足を運ぶ男の笑顔は……まさしく恋人へ向けるものだった。

 ***

 車の中では、鼻歌が流れていた。滅多に無く、男は機嫌が良かった。何せ、助手席には彼女がいるのだ。
 準備は、すべて整っている。悲しくも、彼女はこうなってしまった。だが、それならば。自分の手が何色に染まっていようと、もはや気にする理由などない。これからは、自分こそが彼女を一生守って、一生愛するつもりだ。


(20250401)

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