入間巡査部長。現場に近く、実際に犯罪者たちと渡り合うことの多い対組織犯罪課の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いで手柄と評価を上げ続けている上司だ。迅速な仕事と指示で部下である巡査長、巡査たちからの信頼も厚い。私も例に漏れず彼を尊敬しているうちのひとりだ。ルックスも相まって一際耳目を引き、仕事の話でも主に女性たちの噂話でも部署内で彼の名を聴かない日の方が珍しい。
 一方で、私はといえば、昔から人から貰う褒め言葉は「真面目だね」。自分でもそれしか取り柄のない、つまらない人間だと思う。警察官になったのも、ルールを乱す者が嫌いだからだ。初めて入間巡査部長の捕物現場について行った際の、あの人の苛烈なまでのラップとそれによる追い立てっぷりは強く私の脳裏に焼き付き、以降畏敬の念を以て勤めている。とはいえ、同じ部署というだけでチームが異なる私の関わりらしい関わりといえば時々判子を貰いに行ったり、入間巡査部長宛の電話や書類を取り次ぐ程度だ。あの人のようになりたいと思うが、なかなかその仕事ぶりを盗む機会は得られない。
 現場について行った時以外で、私の頭に残る光景がある。急ぎの取り継ぎで入間巡査部長を探すことがしばしばあるのだが、大抵そういう時あの人は喫煙所にいた。年々小さくなる喫煙スペースでも、長身の彼のどこか品と色を漂わせる立ち姿はとても絵になるのだ。白煙越しに垣間見える落ち着いたダークブルーのフレーム……その奥の理知的な瞳は、いつも一際強く私の目を引いた。
 私も、ああして煙をくゆらせて思案してみれば、少しでも彼に近づけるだろうか。
 そんな、小学生のような発想、形から入るの極地、連勤と残業で頭がどうかしていたのだと思うが、20も半ばをすぎて私は、初めて煙草というものを手にしていた。
 一応吸い方くらいは調べたが、人生で初めての“煙草休憩”に入るのは酷く緊張した。近頃現場よりは内勤が多いことを活かし、ひと気の少ない時間を慎重に見定め、今日、誰も居ないのを確認してついにガラス一枚を隔てた未知に足を踏み入れたのだ。
 震える手でフィルムを剥がす。うまい開け方がわからず、中の銀紙が不恰好にくしゃりと歪んだが、なんとか一本を取り出して咥えた。調べた通り、息を吸いながら、チャチな使い捨てライターのぎざぎざとした発火ヤスリを回した。
さん?」
「っ!? ……げほっ……う、ごほっ!」
 完全に人が来ないということはないだろう。そう想定はしていたが、おや、と訝し気に私の名を呼びながら入ってくるのが入間巡査部長その人という覚悟はしていなかった。
 口内に広がる慣れない味と驚きで咽せこむ私を危ないと思ってか、入間巡査部長はまだ火をつけたばかりの私の覚悟を取り上げ灰皿に放り込んでしまった。
「また私に用事かと思いましたが……意外ですね。貴方は煙草は嗜まないと思っていました」
「すみ、ません……げほっ、実際、初めて口にいたしました」
「また何故です?」
 入間巡査部長は慣れた手つきで自らの口元に火を灯し、紫煙を吐く。まだ喉のイガイガが治らない私が、その奥の瞳に映っている。
 さて、困ってしまった。まさか、入間巡査部長に憧れて真似っこです、など言えない。いや、別に後ろめたい行為ではないだろうが、それを明るく笑い話とするようなキャラを自分はしていない。それどころか、今初めて雑談をするくらいに関わりの薄い部下、それもこんな真面目一辺倒のような私がそんなことを言えばきっとあらぬ勘違いさせ、気味悪がらせてしまうだろう。結果、私は嘘はついていないが本当のことでもない答えで誤魔化すことにした。
「……一度くらい、試しておこうかと……思いまして」
「歯切れが悪いですね」
 入間巡査部長の赤い手袋、その細く長い指に挟まれた灯が一定の感覚で綺麗に赤く光る。
 貴方にしては、と白い吐息と共に落とされた言葉に、もう一本引き出そうとした私の手は一瞬、止まってしまった。
「私のことを、ご存じでしたか」
「動揺しています? チームこそ違いますが貴方は同じ課ですし、時々私への連絡を取り次いでくださっているでしょう」
 入間巡査部長の口から立ち昇る煙が違う形に揺れた。喉の奥で笑うような、密やかな音が聞こえた気がした。確かにその通りだ、馬鹿なことを言った。羞恥を誤魔化すように、フィルターを唇で喰む。
「優秀ですが、非常に真面目。四角四面、といった印象でしょうか。いつも貴方の受け答えは、ハキハキとして、簡潔にまとまっていていたはずですが……」
 まるで尋問のように、ラップを紡ぐときのように、入間巡査部長の言葉が、紫煙に乗ってつらつらと流れ漂っていく。
「そんな貴方の、その突然の好奇心はどこから湧いてきたのか。私も、ちょっとした好奇心ですよ」
「喫煙所でのこういったコミュニケーション、情報交換は馬鹿にならない、と聞いたことがあります」
「なるほど」
 火をつけず咥えたまま、取り繕った嘘ではない答えを返す私に対して、入間巡査部長は短くなった自身のそれを灰皿でもみ消す。薄れた煙の向こうで僅かに上がる口角は、私との雑談、いや、私の動揺を暇潰しと思ってくださっているのだろうか。
 この場をどう誤魔化すか、いっそ先に戻りますと切りあげても良いものかと考えながら中々点かないライターをいじっていると、ふと唇が空いた。
「この煙草は、初めてにはきついでしょう」
 私が咥えていたまっさらなそれが、入間巡査部長の赤い指にひょいと取り上げられたのだ。目を丸くして、瞬くしかできないでいると、彼はそれをくるりと指先で弄ぶ。
「偶然選んだのかもしれませんが……真面目で、普段あれだけ細やかな仕事をする貴方が、初めて経験するものを適当に選ぶとも思えない」
 ぐ、とつい押し黙ってしまった。実際、ネットで調べれば吸い方に併せて、おすすめの銘柄だとか、mg数の少ないものを、など初心者向けの煙草の選び方がたくさん出てきたのを見ている。
「とすると、貴方にここまでして“交流したい”と願われている幸運な相手は……誰なのでしょうね」
 交流をしたい訳ではない。そう弁解しようとして、喉の奥で言葉が詰まる。煙草に手を出したのは、入間巡査部長の真似をしてみようと思っただけのはずだ。しかし、その大元といえば、尊敬する人から仕事を教わる機会が無いこと、もっといえば、まさに私が求めていたのは交流なのではないか? 一度そう思ってしまうと、駄目だった。
 私は嘘や誤魔化しの類が嫌いなのは確かだが、それだけでなく、滅法下手くそであることも、自分がよくわかっていた。私の動揺ひとつとってぽんぽんと連鎖的に情報を手繰り寄せていく目の前の上司相手に、通じるとは思えなかった。
 私が押し黙っていると、しゅぼ、と火の音が聞こえた。煙草に火をつけるライターの音だ。私のものと違って蓋がついていて、使い込まれているが品もあるあれはジッポと言うんだったか……いや、ジッポはあくまでブランド名だったか……?
 いいや、今はそんなことはどうでも良い。それより、入間巡査部長の口にある真新しい煙草、あれは私の口から取り上げたものじゃないか。思わず目を剥いて固まっていると、そこを目掛けて、ふぅー、細く永く吐息を吹きかけられ呻き声をあげてよろめいてしまった。目が、目が染みる……けむい、つらい!
「タールも、メンソールもキツイでしょう」
 涙の滲む目でもはや見えないが、隠す気もないくつくつとした煙たい笑い声で私の耳をくすぐりながら、入間巡査部長の手が苦しみよろける私を導くように私を支えてくださった。
「個人の趣味、嗜好品のことですから勿論黙っていても構いませんが……このままでは、"もしや私に影響されて"……なんて、自惚れてしまいますよ」
 憧れの人の手を握りながら、目も開かないまま、身体も頬も固まり引き攣るのを感じる。なんで、と短い問いが、荒れただけでなく嫌に乾いた喉に引っかかりながらかろうじて出た。
「嗜むようになれば分かりますよ。……今の貴方と私の纏う香りがお揃いだと」


あとがき
使えそうだと目をつけてた真面目な部下が、何も知らず自分を尊敬している様子を見せるので大喜びで粉をかけている入間銃兎の図(230125)


よかったなあとかあればポチッと→ ❤❤❤