しまった。それは、手遅れなことを表す言葉だ。
 私は、目の前で手を差し出したまま固まる飲み友達を前にそう思った。
 今日はバレンタインデー。年に一度チョコレートが飛び交う日本らしい行事だ。とはいえ、私はといえば今年は事前に美味しそうなチョコを見繕い、家族や仲の良い女友達に郵送するくらいでとっくに済ませている。幸い職場はこういう行事はやらない風潮だったし、それらしいことといえばこうしてバーでマスターがバレンタイン用のお通しとして生チョコを選ばせてくれるくらいのものだった。
 しかし、私と同じで仕事終わりらしくいつものスーツでやってきた常連仲間の銃兎くんが、お酒を頼み煙草を1服終える頃に突然私にチョコをねだってきたのだ。「当然あるんでしょう」といつもの気取った敬語と仕草で。中々他に見ない珍しい赤い革の手のひらを眺めながら、そういえば去年はあげたな、と思うと同時に今年は用意しなかった理由も思い出してそのまんま口にしてしまった。
「え? だって銃兎くん、去年散々“こんなに貰うと、お返しが面倒なんですよ”って愚痴ってたじゃん」
 その途端、先に数杯頂いていた酔いが覚めるほど空気が冷えるのを感じた。ぴしりと凍りつく音が聞こえるような気さえしたし、実際銃兎くんはカチンコチンになってしまった。眼鏡のレンズの向こうでは切れ長の目がめいいっぱいに開かれていて、差し出された手はそのまんまだ。何かはわからないけれど、私はどうも銃兎くんの地雷を踏んでしまったらしいことだけは明らかだった。いつも優雅な様を保っていて、悪酔いするところはおろか、言葉遣いが乱れることろすら見たことがない銃兎くんの初めて見る表情だ。うわあしまった。もしかして、男のプライドとやらを傷付けちゃった……? いやそんなことはないと思うんだけど!
「え……銃兎くん、職場で貰ってるんじゃないの? まさかゼロってことはないでしょ?」
「頂きましたよ、ええ、去年と同様にお返しのことを考えるのが億劫になるほど」
 引き攣った顔と声でそう言い切ってから、フゥ、と銃兎くんは気持ちを落ち着かせるようなため息をひとつ吐いた。そうして一度ロックグラスを傾け、いつもあまり外すことのない手袋から指を引き抜いてゆく。私がそれをなんとなく目で追っていると、彼はカウンターの上で所在なく佇む私の手の甲にそっとその長い指を滑らせてきた。
「それでも、去年と同様にあなたからの贈り物が欲しかった、と言ったら……分かっていただけますか?」
「……銃兎くん、意外と甘いもの大好き? 食いしん坊?」
「どうしてそうなるんだ!」
「痛った!」
 ペシン、とそのまま手の甲を叩かれてしまった。びっくりしたところで、鞄の中身の記憶がポロッと溢れてきた。
「あ、今私があげられるのってコンビニの羊羹くらいしかないけど……良い?」
「逆になんで羊羹があんだよ」
「いやー、仕事中たまに滅茶苦茶エネルギー補修したくなる時用に」
 ほら、と鞄のポケットから取り出して見せると、ツッコミと一緒に引ったくられてしまった。
 そうして、銃兎くんは私の羊羹に目を落とし憎々しげに舌打ちを鳴らした。
「クソ、俺はあんこ苦手なんだよ」
 じゃあ返してよって言おうとしたのに、銃兎くんは無視してべりべりと乱暴に封を開けてしまった。かと思えばばくばくと口に入れちゃった。途中えづいていたけど、全部お酒で流し込んでやり切った感でため息なんか吐いている。
 ……ウィスキーロックで度数かなり高いだろうに! あんこ苦手なら食べなきゃいいのに! そこまでして私の秘蔵っ子を奪うなんて……銃兎くん、嫌がらせに対してあまりに全力すぎる。私が友チョコを用意していなかっただけでこの仕打ち、酒の席とはいえなんてやつだ。まあコンビニ羊羹だから許すけど……。
さん」
「ぅわっ」
 私が銃兎くんの見せる色々な様子に呆気に取られていると、チェイサーも一気に飲み干した彼が急に顔を寄せてきた。いつも会うたびに思うけど、本当に整った顔してるなこの男。背も高いし、うんざりするほどチョコをもらうなどと恥ずかしげも物怖じもなく公言できるだけの見た目はしている。そんな銃兎くんの眼鏡の奥の目はじっとりと据わっていた。あれだけ強いお酒を一気飲みすれば、そりゃそうなるでしょ。半分呆れ、半分心配でその目を眺めていると、彼の言葉とウィスキーの香りがふわりと漂った。
「……お返し、期待していてください」
 まあいつもここで悪友的な付き合いをしておしゃべりしている感じ、銃兎くんの性格はお世辞にも良いとは言えない。いわゆる、イイ性格をしていると思う。もちろん、色々知ってるし、頭も良いし、彼と会うと嬉しいと思うくらいに楽しいけど。ていうか“俺”とか言ってたし、口調もきっとあの荒っぽい方が素なんだろうか。だからと言って人のおやつを奪ってバレンタインにカウントするのは荒くれ者がすぎるけど。
「……私、銃兎くんに苦手な食べ物教えたっけ」
「仕返しじゃねえ! だから、どうしてそうなるんだこのクソボケ女!!」


あとがき
本命には伝わらないシリーズ(書くとは言っていない)
バレンタイン(チョコは出ない)(230215)


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