入間先輩の下で働くようになってからおよそ3ヶ月が経とうとしていた。あっという間に桜は散り、新芽は上がる気温と共に日々青々と茂っていく。
αの中のαという周囲の評に違わず、入間先輩の仕事ぶりは凄まじかった。当然私のような人間ではそれについていくのに必死で、ちょこちょことミスを連発してしまっていた。
でも、入間先輩には怒られることはなかった。固い握手を交わしたあの時の威圧からは、とても意外なほどに。最初の頃こそ一言二言ちくりとやられたけれど、最近は「最終的に仕上がっていれば良いです」とか、軽いため息ひとつで済んでいる。
きっと私を監視下に置くために部下にしただけだし、仕事ぶりはどうでも良いと見限られちゃったんだろうなあ……なんて思っていたのだけれど、何かあれば丁寧に教えてくれるし、外回りやまだ新人の私がついて行っても良いような現場にも連れて行ってくれるし……入間先輩には私のことを後輩として育ててくれるつもりはあるらしかった。
そうして今日も元気につまらないミスを一つ二つ。それを直して報告をしたところ、デスクの入間先輩はいつもの何か言いたげなため息を吐いていた。
「ところで貴方、本当にΩなんですか?」
「えー、と……」
しかし唐突にそう尋ねられても、返答には困ってしまう。確かに周りからはひそひそされ始めている様子があるけれど、私は自分から第二性について口にしたことは一度も無いはずだからだ。
私が何かしらを答える前に、入間先輩が席を立つ。
「……いえ、すみません。これは私が不躾でしたね」
他人の第二の性について、基本的に他人が詮索することは無い。
その風潮は私が産まれたあたりから徐々に、そしてH歴になってからはより強くなりつつあった。そのおかげで私は周りに自分の性の話をすることはなく、そのせいで周りからΩだと噂されているわけで……。特に今なんか入間先輩の側だと私のダメダメさはより際立って見えるだろうし、そりゃそうだとしか言いようがない。
とりあえず、私はすっかり顔に染みついている愛想笑いをへらへらと浮かべた。
「気にしないでください。人からそう尋ねられるのはよくあることなので……」
「そうですか。ところでお詫び代わりと言ってはなんですが、美味いコーヒーでも飲みに行きませんか?」
そう笑いながら先輩がくるりと指先で回したのは、愛車の鍵だった。先輩が私を連れて外に出る時はほとんどパトカーだったけれど、今日は愛車の気分らしい。
「い、いえそんな……」
「コーヒーはお嫌いですか?」
ちなみに、いつも車の運転は入間先輩がされている。流石に気が引けて何度も私がやります、せめてパトカーの時だけでも……と懇願に近い形で申し出てはいるが、いつも「私はまだ死にたくはありませんからね」と取ってつけた愛想笑いで断られてしまうのだった。これでも一応ゴールド免許なのだけれど……ううん、日頃の行いからすると仕方がないのかもしれない。
「そうではなく、そんな、お詫びだなんて、」
「いいんですよ。そろそろ、左馬刻に貴方を紹介しようと考えていましたから」
「サマトキって……」
流石に3ヶ月も部下をしていれば、そしてここヨコハマ署にいれば、自分の先輩にまつわる"ちょっとした事"は嫌でも目にも耳にも入ってくる。いわゆる普通の警察官から外れた部分だ。
そのうちのひとつが、ヤクザとのつながりだ。特に交流の多い組織が火貂組で、入間先輩はそこの若頭・碧棺左馬刻と、もうひとり元軍人・毒島メイソン理鶯と合わせて3人でチームを組んでいる。その交友関係からか、事実なのかやっかみの入った噂なのか……入間先輩は灰色や黒色の大小様々な背鰭尾鰭がひらめいている人であった。
ただ、先輩はそのへんのいざこざに関わらせるつもりは無いらしく、私は今まで彼らと顔を合わせたことは一度もない。私自身もそれで良いと思っていたので、特に首を突っ込むこともなかった。
だって、私みたいなくだらないドジを踏むような間抜けが何かやらかして、例えばそのヤクザを敵に回すようなことになったらと思うと……恐ろしさに想像だけでも胃が痛む。それに、怖い人たちと進んで関わりたいわけもない。一応組対に所属する身としてはそんな気概ではダメなのだろうけど……。
それにしても急に紹介だなんて、いったいどういう風の吹き回しなんだろう。「コーヒーを飲みに行く」と言っていた気がしたけれど……もしかして、コーヒーって何かの隠語だったりするのだろうか?
***
「入間さん! お疲れ様です」
「頭は奥でお待ちです」
そんなこんなで入間先輩の運転で車で連れられ数十分。先輩と街のチンピラの職質だとかはやってきたけれど、ヤクザの事務所なんて生まれて初めて来た。恐る恐る背中にくっついていったが、舎弟らしき人たちは先輩の顔を見るや否やどうぞどうぞと快く迎えてくれた。組対のエースが顔パスというのは……いや、細かいことを考えるのはよしておこう。
私が顔を青くしている間に入間先輩は数度のノックの後、慣れたようにドアノブを捻っていた。
「左馬刻、俺だ」
「ああ、入れ。……あ?」
「し、失礼しま──」
バチン。
入間先輩に促されるまま奥の戸をくぐろうとし、音に聞く"碧棺左馬刻"らしき白髪の男と目があった瞬間だ。私は大きく飛び退いていた。脳内で爆ぜる爆竹または全身に走る静電気に弾かれるようにして。咄嗟に、踏み入れたばかりの足で大きく後ずさっていた。鳴りを潜めるかのように、急激に呼吸が浅くなる。手のひらは、いつの間にかじっとりと湿っていた。
まるで、この入口に見えない刃が設置されているかのようだ。沓摺から先、ただの一歩でも踏み入れることは叶わないように思えた。
──この人、αだ。それも、とびきり強い。
本能が発する防御反応と、警戒信号。直感的にそう感じた。例えるならば動物が他の縄張りに踏み入ってしまった時の焦燥感。私でもつぶさに理解させられるほどの圧倒的な気配を、奥に鎮座する男は放っていた。
部屋の前で立ち竦んでいる私を、碧棺左馬刻がその赤い瞳で怪訝そうに上から下まで舐めていく。それから、ふいと入間先輩へ顔を向けて、ひどくつまらなさそうに口を開いた。
「おい銃兎ォ、なんだその女。まさかそれがテメーの"番"だとかぬかすんじゃねえだろうな」
「馬鹿言え、職場の後輩だ。お前で確かめたい事があったんだよ。……まあ、おかげで今済みましたが」
「ぁあ?」
「ですよね、さん?」
境界線を越えた先で、入間先輩が手を差し出している。貼り付けたような微笑が、辛うじてこの場に留まっている情けない私を静かに待っていた。乱れて思考が定まらない。よろけるように手を伸ばす。
「っア゛……!?」
私の指先が赤い掌に触れる寸前、強い力であちらから手を掴まれて引き摺り込まれた。突然、背中に硬い衝撃と鈍い音が響く。叩きつけるようにして私の身体で乱暴にドアが閉じられたのだと理解した時には、入間先輩の手が私の首に掛かっていた。
意識が、くらくらする。気道が締まっているわけじゃない。むしろ、入間先輩の手には不思議なほどに力が籠っていない。ただ、この場を支配するあのαの放つプレッシャーが、私を異物として押し潰さんとしていた。
「ッハ、おい銃兎! 俺様の事務所でおっぱじめようってか? 布団でも貸してやろうか」
「うるせえ、余計なお世話だ。それに私は、そういう相手とムードは選ぶ方です」
「そーかよ、クソ程どうでもいいわ」
碧棺左馬刻の揶揄を一蹴して、入間先輩の指先が私の首筋を撫で……襟の合わせに手をかけた。ぷつり、ぷつり、上からいくつかのボタンが外されていく。
赤に包まれた手が、私の胸元をそっと開いた。
暴かれるような物は何も無く、そこにはただ素肌の首、鎖骨と胸元"しかない"。
その決定的な証拠を前にして、先輩は吐き捨てるように短く笑った。
「さん。あなた……αですね?」
入間先輩が確かめたかったこと、そしてさっき済んだらしいこと。それはきっと私の反応、そして碧棺左馬刻が私を指して発した"番"の言葉だったのだろう。
未だ深く吸えず酸欠に喘ぎながら掠れた声で、私は観念を白状した。
「すみ、ません……私……α、です……」
「──そういうことかよテメーこのウサ公俺様のこと試金石代わりに使ってんじゃねえ」
ふ、と圧が消えた。碧棺左馬刻が私への警戒を解いた、のだろうか……? ついでに、先輩の手が私の襟からパッと離れた。
肺にのしかかっていた重しが消え一気に空気が流れ込む。落差に咽せて咳き込みながら、胸元を慌てて抑えた。今更私をドッと襲う焦りや羞恥など毛頭気にすることもなく、入間先輩は碧棺左馬刻に向き直っていた。
「仕方がないでしょう、αなんてそこらに転がっているものでもありませんからねえ。減るもんじゃねえんだからギャアギャア喚くな」
「まさに石ころみてえに転がってる女引き摺ってきてンなことよくほざけんな」
「まあ何にせよ貴方がいて助かりましたよ。……そろそろ"近い"ですからね。早いところこいつの正体をハッキリさせておく必要があった」
α同士は本能的に相容れないらしい。持ち前の高い能力と気位がぶつかり合うのだとか。私もそのひとりのはずなんだけど、これまでバレないようにαらしい人々を避けて生き延びてきた。なのでその感覚に触れることなく、どうにも実感がないままきてしまった。
しかし今回、否応なく相対させられたαらしいα、碧棺左馬刻。試金石とは言い得て妙だ。無理矢理正体を引き出されたこの身をもって、痛感していた。
ちなみにあんな神経を直接殴りつけるような威嚇行為ができるのは、αの中でも余程洗練された人間だけらしい……とは、後日先輩から教わったことだ。
「謝ることではありませんよ、隠し事は私もですから。なんのことか、おわかりですね?」
腰を抜かしかけ未だ呆ける私の手を、入間先輩が今度こそ優しく掬った。
そうして少し屈むようにしながら自らの首元まで導いていく。「そのまま引いてください」私の指を使ってネクタイを緩めさせ「そこの金具、そう、上手ですよ」カラーピンを外させ「ボタン弄れますか? ほら、あと少しです」襟元をそっと開けさせていく。
そこには、鎖骨の少し上から首に一周ぐるりと巻かれたベルトのようなものがあった。
"私との決定的な違い"を前にして、私はその答えを恐る恐る口にした。
「入間先輩は、その……Ω……なんです、よね」
「ええ、よくできました」
入間先輩の、気持ちのこもっていない褒め言葉が空虚に響く。
そこにあったのは抑制薬と同じくΩのためのアイテムの一つ……Ωの発情とフェロモンの抑制を助け、そしてヒートとは別の"とある事象"から彼らの身と人生を守るためのチョーカーだった。
Ωのヒートについては、数ヶ月の周期で訪れる他に例外がある。強いαの存在もしくは身近なαの感情の昂りに当てられ、発作的に引き起こされることがあるそうだ。だからこそΩとαの交流には十分注意が必要なのだ、というのは中学生の頃に保健体育で習う内容だ。
そしてこのΩとα双方の誘発と誘惑に関しては、個々の欲情対象に限るものだったはずだ。入間先輩が男性αたる碧棺左馬刻と組んでいて問題が無いということは、反対に女性αが身近にいるかどうかが死活問題となる。
……つまり、私はこの人にとって最も警戒すべき存在のひとりだった、ということだ。
私を碧棺左馬刻に会わせたがった1番の目的は私の第二性を確かめることだろうけど、もうひとつには、より強い男性αに女性αである私の気配を掻き消させ、安全に尋問する狙いもあったのだろう。
「さて、私の秘密を知ったからには……協力、してくれますね?」
質問の形を取ってはいるが、YES以外の返事を受け取る気は毛頭無いのだろう。"協力"が何を指しているのかに私が至るより早く、入間先輩は器用に片手で襟元を直しつつもう一方で合意の握手を固く結ばせていた。
この3ヶ月ですっかり見慣れてしまった、深紅の手袋。かっちりと着込んだスーツと併せて可能な限り肌の露出と接触を減らすこの格好は、まるで先輩の身を守る鎧のようだ、と思う。
入間先輩へかける言葉、それは弁解か謝罪か質問か、自分でもわからないまま口を開こうとした時……深みのある香りが鼻をかすめた。
「おー、そっちの用事は終わったかよ」
ズズ……と啜る音に目をやれば、碧棺左馬刻がマグカップを口にしソファに腰を下ろすところだった。
いつの間にかローテーブルには他にも2つ、カップの中で黒い液体が湯気を立てていた。
「ええ。待たせてすみません」
「暇すぎてお前らの分まで淹れちまったわ」
α同士は反発する。時々α同士が夫婦や友人になるパターンもあるが、大抵はうまくいかなくなると聞く。もちろんそれはあくまで一般的な性質の話なので、α同士でも気が合って仲良くなることもあるそうだ。
とはいえ私が碧棺左馬刻への萎縮が解けるかというと、それはちょっと自信が無い。勝手知ったると腰掛けた入間先輩に隣に来るよう促され……結局限界までソファの端に寄って腰掛けるのだった。
「言った通り、美味いコーヒーでしょう?」
「コーヒーって、本当にコーヒーだったんですね……」
「あ?」
「ヒッ!」
ただ、その後入間先輩と碧棺左馬刻が話しているのを聞きながらちびちび啜った、恐ろしい彼が淹れたらしいコーヒーは……嘘みたいに美味しかった。
色々設定つまみ食いしたり捏造したりしてます。
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