部屋中に充満した嗅ぎ慣れない薬品の匂いが鼻につく中、入間銃兎は他の誰かが聞けば鼻につく台詞を心底呆れながら口にした。
「あなた、本当に私のことが好きですね」
 途端に、目と鼻の先にある女の顔がぐっと歪み、不快を表す。はヨコハマ署から司法解剖をよく請け負う医師だ。その彼女に侮蔑まで孕んだ目で見つめられながらも、入間はさほど気にする様子もなく肩をすくめた。入間の言動にも同じものが含まれているから、お互い様だと言わんばかりに。
「失礼、私の顔が好き、でしたね」
「きちんとあなたの望む通りに検死結果通したでしょ? 入間くんも、ちゃんと私の要望通り大人しくして」
「わかっていますよ。あなたにはいつも助けられてますからね、仕方ありません」
 するりするりと女の指が掌が手が入間の顔を愛撫よりもつぶさになぞり、触れ、頬を覆っていく。肌が作る曲線を確かめるように指でなぞり、その下の肉の流れを確かめるように掌で触れ、様々な角度をつけて瞳の色を唇の形を確かめるように手で頬を覆う。2人の腰掛ける背後にあるのが検死として司法解剖を行うベッドでなくミナトミライの夜景であれば、今にも口づけを交わそうとする恋人同士のように見えたことだろう。
「まったく、たったこれだけで不正に手を貸してくださるあなたの思考と趣味、本当に理解できませんね」
「もし入間くんが殉職したら、綺麗に剥製にして飾っておきたいくらい大好き」
 病院内禁煙のせいでじわじわ湧き上がる苛立ちも込めて、聞き飽きましたよと入間はぼやく。この文句は入間が不正を持ちかけ、その報酬を支払う際にほぼ毎回聞くいわばお約束だった。は入間の鼻筋を眺め、眉毛をなぞりながら「好きなものにはいくらでも好きって言っていいじゃない」とご機嫌に嘯いた。

 ***

「では、私はこれで。資料ありがとうございました」
「入間くん。次の案件も危険みたいだけど、気をつけてね」
 じっと座り続けて凝った体をほぐすように入間がさして乱れていないジャケットとネクタイを整えていると、からは不安に揺れる声が返された。彼女の一見殊勝なその言葉が、入間銃兎自体への純粋な心配ではなく、“顔を傷つけないように”気をつけてねという意味だということは、もはや確認をするまでもない。入間がありがとうございますと嫌味を声にたっぷりのせたお礼と彼女が大好きな自身の顔で微笑みかければ、しかし案の定も意に介さずうっとりとして微笑み返すのだった。
「ねえ入間くん、顔さえ無事なら、あなたの四肢や頭に何があっても私がずっと面倒見てあげるし、死んでいても一生大切に愛してあげるから安心してね」
「そうはならないように、精々気をつけますよ」
 イカれ女め、最後にそう嘲笑と共に吐き捨て入間は解剖室を後にする。喫煙所へ向かう足音は焦れたように急いている。いつもそうだ。網膜に、自身を見つめる熱に浮いた綺麗な女の顔が焼き付いているのだ。一刻も早く真っ白な煙で塗りつぶしたくてたまらなかった。


(230310)


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