ひゅっ。
 戸口に立つ自分の耳に届くほどの音に、入間は笑いを堪える。
 まるで小鳥がくびり殺される間際のようなそれは、予定に無い来訪者を視認したの喉が発したものだった。
「い、いる、ま、くん……!?」
 デスクへと放った万年筆が床に落ちるのにも気付かず、はよろよろとおぼつかない様子で入間へと向かっていく。その顔は蒼白で、目は見開かれこぼれ落ちんばかりであった。
「ええ、入間です。しばらくぶりですかねえ」
 もつれる足でどうにか入間の元へと辿り着いた女は、歌うようですらある入間の上機嫌な挨拶を無視して、まるで倒れ込むように彼のジャケットに縋り付いた。唇を肩をわなわなと震わせ、崩れ落ちそうになりながらなおは入間を見上げる。
「かっ、かお……っ! なんで……」
 引き攣り掠れた問いかけが視線と共に入間へ、正しく言えば、入間の顔へヒシヒシと注がれる。
 絶望に揺れる瞳に映る男の頬や額には、明らかに何らかの傷を負ったことを示す仰々しいガーゼが貼り付いていた。
「ああ、これですか? 少々やらかしてしまいまして」
 直近の事件でもらった怪我だった。しかし実のところ、ガーゼの下にあるのは子供ですら痛がらないような軽い傷である。むしろ度合いで言えばMTC3人の手にかかった犯人たちの方が、見るも無惨な状態にまで叩きのめされ豚箱送りとなっているのだが。
「そん、な……」
 素直に上がるの悲痛な呻きを耳に、入間は自分の口角が上がるのを感じていた。
 について入間が一言で吐き捨てるならば“便利な協力者のひとりではあるが、疎ましい代償を要求してくるイカれた女”だ。
 そんな彼女の元へ約束も用事もなくやってきたのは、ガーゼを取り替え通院記録を増やすついでである。ついでに、【自身の顔にのみ執拗なほどの陶酔を謳うあの女が、実際に傷ついたこれにどんな顔を見せてくれるのか】というちょっとした悪戯心が湧いたのだ。
「や、やだ……いるまくん、いるまくんが……」
 結果として期待以上に自分が怪我をしたことに対して縋り震え狼狽し、まさに絶望といった顔をみせたの様子は、入間の後ろ暗い喜びを大いにくすぐり満足させた。
「そうですねえ、治るかどうか……、っ!?」
 しかし今度は入間が息を呑む番だった。得意になって煽りを口にしきる前に……いつもならば自分を熱心に見つめ輝いている瞳から、ぼろりと大粒の雫が落ちたのである。
 ぎょっと入間が身体を強張らせている間に、俯き瞳へ影を差したの唇からは涙声が立板を伝うように溢れ始めた。持ち得る限りの薬でどうにかなるか、知っている中で最も美容外科手術の腕に富んだ医師に連絡を取るか、いや誰にも任せられない、自らの手で手術を行うしかない……なにやらぶつぶつと唱える様に、入間は慌てて両肩を掴み揺する。
「冗談だ! ただの、ほんの擦り傷です!」
「ほん、とうに?」
「揶揄って、すみませんでした。だから、あー、泣かないでください」
 清潔を保っていれば数日で跡形もなくなるだろうという医者の見解を告げれば、の口からは安堵の息が静かに落ちた。入間のジャケットを掴む指からも、ゆるゆると力が抜けていく。
「よかった……」
「……あなたがそううるさくなるだろうと思って、すぐに治療を受けたのは正解でしたね……」
 犯人どもにつけられるだけの余罪をつけるためだったが、1割くらいは本当にのためだったような気がしてきて、入間の口からも溜め息が重たく落ちた。もちろん怪我を利用したのは悪趣味であり、自分に非があることは重々に承知していた。しかし、常日頃自分の相貌へ賛美を送るの熱意を疑っていたわけでは無かったが、まさか泣くほどとは思っていなかったのである。
 さらに入間は、彼女の涙を見て自分が焦りを感じた、ということにも動揺を覚えていた。
 未だ半ば呆けたような女を椅子に座らせて、入間は傍らに転がったままの万年筆を拾い上げてそっと女の机に置く。そしていつも向き合うための椅子に自分も腰を下ろし、部屋の戸を開けた時の余裕に満ちた笑顔をすっかりと取り繕ってみせた。
さん。もし私の顔半分が、それこそ直しようもないほど吹き飛んだら、どうしますか」
「その時は、取引内容が、変わるのかな。お金か、情報か、辞めるかは、分からないけど……ちょっと、いま、かんがえたく、ない、な……」
 また震え出した声を聴きながら、入間はそっとの手に触れた。氷のように冷えたそれを包むように持ち上げ、自身の頬へと導く。
 がさりと鳴る、ごわついたガーゼが不快だった。
「特に依頼は無いですが、これで“お詫び”になりますか?」
「いいの? うれしいな」
「……本当に、貴方は私の顔が好きですね」
 笑みを見せ手を滑らせ始めたに、入間は肩をすくめいつもの嘲笑を吐く。滲む瞳は気にすることなく覗き込んできた。
「ええ、だいすき」
 今にも口付けを交わせてしまえそうな唇から涙声を溢すイカれた女に、自分が抱いているであろうイカれた感情がどれだけ伝わっているかは、疑問だった。


(231001)


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