「そろそろ、終わりにしましょう」
「もう? 残念ね」
女の手が、未練がましく男の頬を滑っていく。手のひらから、中指の爪の先端まで、ひどくゆっくりと離れていった。
眼鏡越しの目がそれを追う。白衣の女はデスクへ向き直りながら、大袈裟にため息を吐いた。
「はあ、入間くんが羨ましい」
「……」
「だって、毎朝毎晩、鏡を見る度に入間くんの顔が写るんでしょう?」
入間の無言を気にすることなく、はぼやく。彼からの返事など期待していないからだ。にとっては最重要で、入間にとってはあまりに馬鹿馬鹿しい報酬の支払いを終えれば、入間はすぐにこの部屋を出ていく。席を立ち、凝り固まった身体をほぐすように身なりを整え、言葉だけで気持ちのこもっていないお礼を置いて、足早に退室してゆくのだ。
「……」
「……どうしたの?」
だから、は横目で気付いた違和感に首を傾げた。入間が、硬いスツールから腰を上げることも、口を開くこともなく、そこに留まっていた。
「入間くん、いつもさっさと帰っちゃうのに」
「さん。私の顔を、好きな時に好きなだけ見たいと思いませんか?」
の言葉尻を喰うように、入間が口を開く。は僅かに眉を動かしたが、すぐに「もちろん」と笑みで返した。
言葉通りに受け取るならば、彼女が否定するはずもない。なにせ、問いかける男の顔を好き勝手に触り尽くすためならば、職業倫理に反することも厭わないイカれた女なのだ。入間も、口角を吊り上げて笑みを返す。
「良い方法を教えてあげましょうか」
期待に目を輝かせるへ向けて、入間は腰掛けた身体を少しばかり前のめりに倒す。そして、手を伸ばした。彼女が今まで幾度となく自分の頬へそうしてきたように。しかし入間は、丸みを帯びた柔らかそうなその頬の感触すら、未だ知らずにいた。彼女は自分の表情筋まで把握しているだろうに……気持ちの悪いことに。
「簡単なことですよ。俺の恋人になればいい」
きょとん、と目を丸くして一拍後、弾けるようにが仰け反る。入間の指先が空を撫でる。しかし、避けられたわけではない。味気のない部屋が、笑い声で満ちていた。
入間にとって、初めて見る様子だった。いつもは、眼前のうっとりと溶けた微笑みか、それ以外の感情が抜け落ちた陶磁人形のような顔しか知らなかった。ある種感心を覚えながら、入間の手がゆるゆると下りていく。
その間笑い続けていた女は、ひいひいと息をつき、目元を拭いながらようやく返事をした。
「それは、め、名案ね」
「……あなたも、そうやって笑うんですね」
の笑みが引っ込む。入間の反応は、普段のドライ極まりない言葉と声色とは明らかに違う。落ち着き、しっとりとした響きだった。
「まさか入間くん、本気で言ったんじゃないでしょ?」
「冗談でこんなことを言うとでも?」
「言いそうだけど……。ううん、おかしいな……むしろ入間くんは、私のことが嫌いなんだと思っていたのに」
「まあ、およそ私の好みから外れていることは、否定しませんよ」
の眉間にうっすらと皺が寄る。相手の言わんとしていることが掴みきれず、戸惑っているようだった。
それを眺めながら、入間は困ったように肩をすくめて見せた。
「おやおや。いけませんか、自分にしつこく好意を告げてくる相手に興味を持っては? ……私も、あなたに触れたいと思ってしまっては」
「あのね、私が大好きなのは、入間くんの顔なのだけれど」
「勿論知っていますよ。それはもう、うんざりと、嫌気がさすほど」
いつも通りの、入間がイカれた女へと向ける明け透けに不快を示す言葉選びだ。しかし、は耳に入るそれに妙な熱が滲んでいるのを感じて、数度瞬きをする。
「だが、これだけ俺に関わって顔にしか興味が無いとしか言わねえ女なんて……ハッ、意地でも自分に惚れさせてみたくなるでしょう?」
「入間くんって、変なところがあるのね」
「お前に言われたくない……と返したいところですが、ええ、イカれたあなたに似合いの相手ですよ」
まさか口説き文句が返ってくるとは思わず、はわずかに頬を引き攣せた。しかし固まったのは一瞬で、それからは入間に向けて言い含めるようにじっくりと口を開いた。
「でもねえ、ほら……もし私が狙い通り入間くんに惚れたとして……そしたらもっとイカれた、さらに面倒臭い女になると思わない?」
「なにかと思えばそんな瑣末なこと……問題ありません、面倒には慣れていますからねえ。私の職業、忘れました?」
は口を半開きにして、今度こそ動きを止めた。いつも自分をイカれていると呆れる彼ならば、こういえば引くだろうと考えていたが、当てが外れてしまった。もうこれ以上、何を言えば彼が引き下がるのか思い浮かばない。
は入間銃兎の顔のことならこの世の誰よりも分かるつもりでいるが、それ以外のパーソナルな部分については、せいぜいDRB出場者だとか薬物の違法使用が嫌いだとかその程度。彼がいったい何を好むのか、何を嫌うのか……本当に何も知らなかったからだ。
目の前の女が口を閉ざすのを確認して、入間はスーツの内ポケットから手帳を取り出して開いた。
「さてさん。あなたの次の休日、私がいただいても?」
の返事はない。無視をしているわけではなく、彼女はまだこの雰囲気に頭が追いついていないだけ……入間は少し考える素振りをして、言葉を続ける。
「そうですねえ……例えばあなたが私の顔以外に心を動かすものは? それと食事は何を好まれます? お酒は? 逆に避けて欲しいものがあれば……」
「待って、なに、職務質問? それとも尋問? まるでデートのお誘いみたいなことを言うのね」
「まるでもなにも、れっきとしたデートのお誘いですよ」
穏やかに、しかし芯を持った入間の言葉が薄ら暗い部屋に落とされる。到底、軽口を叩いて流してしまえるような雰囲気ではない。イカれた女にすらそれが嫌でも伝わる声だった。
ようやく張り詰めた顔を見せるに、入間は喉奥で笑う。
「言ったでしょう。"私の顔が好き"以外の、あなたのことが知りたくなった、と」
だが眼鏡の奥は笑っていない。むしろ冷静に、淡々と、そしてどこか熱を孕んだまま女を射抜いていた。
あの目を、自分は知っているような気がする。それに気付いてしまうと、の困惑は頂点を極めた。
「ほらどうしました? 私の顔を朝イチから真夜中まで眺めたいんでしょう?」
じわじわと押し寄せてくる圧に、は小さく身じろぎをした。意識を逸らすためだ。すっかり入間のペースに乗せられ、雰囲気に圧されてしまっていたが、一度落ち着いて考えるべきだと正気を手繰り寄せようとする。
「あなた、本当に私の顔が好きですね。私自身には微塵も興味が無いくせに、これほど悩むとは」
しかし、彼はそんな隙を与えてくれる男ではなかった。ペンがトントンと音を立てて手帳のページを叩き、整った顔はにっこりと笑みを深めて返答を促してくる。
が、入間銃兎から目を逸らせるはずもないのだ。
「ですが私がそんな権利をやれるのは、“恋人”だけです。……さあ、お返事を伺っても?」
一応完結です!読んでいただきありがとうございました!(250429)
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