フロアの戸締まりを確認し、照明を消し、エレベーターへ乗り込む。ようやくの退勤なのに、ポーン、間抜けな音がして二つ下の階で動きが止まった。
 はあぁ。ドアの向こうで待っていたやつは、乗りこんでくるなり、俺の背後で大きな溜め息を吐いた。それに、ついハゲ課長や御局様の顔が脳裏をよぎって体がこわばってしまう。ああいやだ、やっと今日の仕事を終えたっていうのに思い出させないでくれ。
「あ……何階ですか」
「あ……一階です、すみません……」
 げんなりとした気持ちを押し殺しながら最後の残りカスの作り笑いを浮かべて聞いたのに、なんだよ俺と同じじゃないか。そんな文句が顔に出てしまったんだろうか。女はへらりと頭を下げた。そのまるで覇気のない表情と仕草は、どこかで見覚えがあるような気がした。
「いや、この時間で鞄持っているなら帰りに決まってますよね……俺こそすみません……ハハ……俺、営業のくせにそんなことも察せないクズで……だからこんな時間まで……は、はは……」
「いえ、私が他人のことを考えず乗るなり溜息なんかついて……少し考えればこの時間に帰る人なんてみんな疲れてるって分かりそうなもんですよね……ああまた自己中だとか他人の心が分からないって思われるんだ……」
「いや俺が……」
「いえ私が……」
 ポーン、1階に着いたことを知らせる間抜けな音が、俺たちの自虐を遮った。
「あ、では……」
「あ、お、お疲れ様です……」
 愛想笑いともなんとも言い難い力無い笑顔と会釈で、女が歩き出す。猫背気味の後ろ姿も含めて、やっぱり誰かに似ている気がした。
 ……あ、俺と駅の方向同じじゃないか。俺に、初めて会う女相手に軽妙なトークなんかできるわけがない。積極的に人と関わりたいわけでもない。そんな俺が並んで歩くのもおかしいし、どうしようもなく陰キャな俺が後ろをついていって誤解されても困るし、かといって後から出た俺が早歩きで追い抜かすのも失礼だし……仕方なく、いつもなら帰りの電車でチラ見する一二三からの夕飯や家事についてのメールに、1文字1文字ゆっくり丁寧に返事を打ち込んで……それからようやく帰路に着いた。

 ***

「あ……」
「……あ」
「ええと……お疲れ様です」
「お疲れ様です……」
 あれから数週間、俺とあの女は時々こうして帰りのエレベーターで鉢合わせるようになっていた。
「よく、会いますね」
「そう……ですね」
 上部にある階数の表示を眺めながらなんとなく声をかけると、女のいつもの疲れ切った愛想笑いが返ってきた。……ていうか今の大丈夫か? ナンパっぽくて気持ち悪くなかったか? 背中に冷や汗が浮かぶのを感じながら、何かフォローすべきか、逆に慌てて取り繕う方が気持ち悪いかもしれないと頭の中をぐるぐるさせていると、ぼそぼそと女が呟くように名乗り始めた。
「ぎっ……技術開発部の、です……」
「技術……?」
 横に立つ女を横目で確認すると、女はエレベーター内の張り紙の方に向けた目を気まずそうにウロウロさせていた。
「今期から、技術の一部のチームだけ、こっちにフロア越してきたんです」
「へえ……すごいですね……」
「いや、はは、技術と言ってもISOがどうとか特許がどうとか品質がどうとかマニュアル作成だとか他部署からの問い合わせ対応だとか何一つ面白くもないくせに責任だけいっぱいある書類や事務仕事に回されてるだけで……はは、でも仕方ないんですきっと私が駄目なやつだから……」
 うわ、こいつヤバいやつだ。と名乗った女は普段よっぽどストレスが溜まっているのか、俺が相槌を打っただけなのに突然早口でぶつぶつ愚痴り始めてしまった。だけど、俺もこの時間にいるからには似たようなものだから、親近感というんだろうか連帯感というんだろうか、そんなものを少しだけ覚えてしまった。
 また階数表示を眺めているぼーっとしていると、さんはハッとしたように言葉を止めて、気恥ずかしそうに頭を下げた。
「すみません、急に……」
「いや、俺も……分かります」
「あの、貴方は……」
「あ……俺、営業部の観音坂と申します」
「え、営業部……すごいですね。お客様と話すなんて、私には出来ない……えっと、すごい……!」
「いや全然、何一つすごいことなんてないですよ……毎日毎日ハゲ課長のご機嫌を伺ってお客様の成長と発展をお祈りしてお局様に怒られながら溜まりゆく電話対応に受注処理に書類のコピーなんかに追われて……必死にやってるのに毎日毎日毎日毎日こんな時間まで……はは、でも俺はコミュ力もなければ仕事もできないからな……なにもかも全部俺のせい、俺のせいだ、俺のせいで……」
「いや私の方が……」
「いや俺の方が……」
 ポーン、1階に着いたことを知らせる間抜けな音が、俺たちの自虐を遮った。
「あ……ええと、かっ……んのんざかさんお先どうぞ」
「あ、ああ、さんお疲れ様です……」
 ふと振り返った時に見た、のろのろとスマホを弄っている背中の丸まった彼女の冴えない立ち姿は……やっぱりどこかで見たことがあるような気がした。

 ***

「それ、あれじゃないか? 噂の“技術部の観音坂”」
「え? なんだよそれ……俺……?」
 回覧だと渡された技術資料に目を落としていた。資料を持ってきてくれた同じフロアの同じ営業、一応同僚にあたるそいつ曰く、製品仕様の一部変更だということらしい。技術開発部・。右上に押されたその職印をついまじまじと眺めてしまった。それをめざとく同僚に勘付かれ、最近たまにエレベーターで会う女が多分こいつだという話をしたら、そんな謎のフレーズを教えられた。
「なんかぶつぶつ独り言呟いてたり突然笑ったり、課長から仕事押し付けられて鬼残業してたりする根暗な女性社員がいるんだってよ」
 ……技術部の観音坂ってことは、それ遠回しに俺もそうだって言ってるようなもんじゃないのか? 俺がつい変な顔をしてしまったのに気づいたのか、「いや、はは、俺がそう言ってるってわけじゃなくてな」なんて誤魔化すように話を切り上げて行ってしまった。逃げやがって。
 結局、今日もデスクに山のように積まれた仕事を必死に片付けているうちに、そいつもハゲ課長も誰もいないいつものひとりきりの夜になっていた。
「あ……観音坂さん、お疲れ様です」
さん。……お疲れ様です」
 噂を……と言ってももう何時間も前、多分6時間くらい前だけど、噂をすればなんとやらで今日もエレベーターにその女が乗り込んできた。
 いつもは大抵気まずい挨拶だけして、互いにこの狭い空間の適当なところや虚空を眺めているだけなのに、今日はエレベーターのドアが閉まるや否や、さんがぼそっと謝り始めた。
「その、すみません」
「え?」
「あ、いえ、その……観音坂さん、“営業部の”だなんて渾名が一部であるらしくて」
「あ、あー……?」
「それが申し訳なくて謝らなくっちゃって……はあ、こっち来たばかりなのにもう人に迷惑をかけてしまって……ていうかこんなこと言われても観音坂さんも困りますし知らない方が良かったかもしれないのか……いつもこうやっていらんことばっかり言って嫌われて……あああ、本当にすみません、すみません悪気はなくて……」
「いや……その、さんも“技術部の観音坂”なんて呼ばれてるらしいし、おあいこですよ」
「え、ええ……?」
「ああいやこんな俺なんかと同じなんて不名誉なこと……おあいこって言われても困るよな……なんのフォローにもなってない……こんなんだからハゲ課長からは気が利かないだのお客様とうまくやり取りできているか不安だのなんだのぐちぐちぐちぐちつつかれるんだ……そんなにやるなら自分でやればいいだろうが……いややっぱり俺が気が利かなくて要領が悪いせいで……」
 ポーン、1階に着いたことを知らせる間抜けな音が、俺たちの自虐を遮った。
「あ、お先どうぞ……」
「あ、お先どうぞ……」
「……」
「……」
「やっぱり似てるんですかね、私たち……」
「やっぱり似てるんですかね、俺たち……」
 ため息から言っていることまで丸かぶりで、俺たちはなんとなく顔を見合わせて笑い合ってしまった。ああ、なるほど。誰かに似ている、と思っていたが……本当に俺だったのか。折角だし駅まで行きますかと口角を上げたままそう言ってくれた彼女の細められた目の下には、よく鏡で見かける濃いクマが浮いていた。


あとがき
独歩くん、卑屈なくせにちょこちょこ失礼だったり図太いところが絶妙で面白いですね(230211)


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