ヨコハマ署を後にして、これからお世話になるお巡りさんの車で到着したそのご自宅は、それはそれは立派なマンションだった。
「どうぞ、上がってください」
「お、お邪魔します」
「荷物は……置くほども残っていないんでしたね。なら、このまま簡単に案内します」
靴を揃えている間にすたすたと進んでいく入間さんの背中を慌ててついていく。ちょっとした廊下にお手洗い、脱衣所と洗面所、お風呂。そこを抜けると広いリビングとキッチン、その先にほとんど物置にしているらしい客間。あとは入間さんの部屋と趣味の部屋があるそうだけれど……ここまででもう私の住んでいた1Kボロアパートとは広さも綺麗さも窓の大きさも何もかも雲泥の差だ。唯一似たところがあるとすれば、ボロアパートの廊下やベランダで嗅いだことがある、どこか焦げたような匂いがほんの少しだけするところだろうか。出会ってからはまだ一度も私の前でその様子を見せてはいないけれど、もしかしたら入間さんは喫煙者なのかもしれない。
それにしても、私は業界ごとの懐事情に詳しいわけじゃないけれど、あの車にこの住まいとは……警察官って意外と儲かるんだなあ。
足早にぐるっと回ってリビングに戻ってくると、入間さんは煩わしそうにネクタイを外しため息をひとつ吐いた。いやはや、こんな時間までお仕事をしていた上に言いがかりをつけられて変な女に家に上がり込まれたら疲れもするだろう。私も非日常な出来事続きで、身体も精神の方もくたくただ。時計はもう23時をゆうに回っていた。
「大したおもてなしもできず申し訳ありません。来客の予定など、ひとつも、無かったものですから」
「イエ、ほんと、お構いなく……」
慇懃無礼のお手本のような嫌味がちくちくと突き刺さる。いつの間にお湯を沸かしたのか入間さんが湯気の立つマグカップを渡してくれた。紅茶っぽい良い匂いがする。
とりあえず私と入間さんはソファに腰掛け、お互い帰りに寄ったコンビニで適当に買った物を口にした。
警察署でこそハイになっていたが、入間さんの運転する車に揺られているうちに気分も落ち着き、思考も冷えてしまった。それにつれ、つい1、2時間前の自分の大胆さ、警戒心の無さ、非常識さを自覚して冷や汗が滲みっぱなしだ。警察官とはいえ、見ず知らずの男の人に泊めろだなんて無理を押し通すなんて普通じゃ考えられない。
なら、この人の方は一体何を考えているんだろう。隣に並ぶソファで二個目のおにぎりを開ける入間さんを盗み見る。だって、どう考えたとしてもこの状況はいち警察官の職務じゃない。あの取り調べの時こそ「こんな状況の一般市民を見殺しにするなんて、なんて悪徳警官なんだ!」と喚き散らかしたけれど、それこそ「私たちにはどうしようもないので」と無慈悲に署から放り出されても仕方無い……というかそれが普通の対応だと今なら思う。
ぼんやり眺めていたせいか、目が合ってしまった。おにぎりを飲み込んでから、入間さんは口を開いた。
「今日はもう時間も遅い。細かいところは明日の夜お話ししましょうか」
「こまかいところ……」
「私とあなたの賃貸に関する契約内容の話です。ひとまず、それは置いておいて……さん、明日の通勤はどうされますか」
そうだ、悲しみにくれる暇もなく明日も仕事がある。職を失わないために恥を捨てて人の靴を舐める直前までいったのだ。内心喝を入れて脳みそを動かし、腕時計に目をやった。いつもヨコハマから勤務地までは30分ちょっとかかる。入間さんに聞けばここから最寄り駅までは大体徒歩10分とのことなので、7時くらいに出れば8時の朝礼には間に合うだろうか。
「なるほど。明日なら私もそれくらいに出ますから、通勤がてら駅までお送りしますよ」
「すみません、お願いしても良いですか?」
「ええ、構いません」
「良かっ……」
今度は入間さんが黙って私を見ている。なんだろう……あっあれか!? “お願いを聞いてもらったら、なんていうんでしたっけ?”……入間さんの声がリフレインする。ゴミをまとめる手を止めて慌てて頭を下げると、入間さんのくすりとした笑い声が聞こえた。
「いえ、失礼……あなたが、落ち着いていれば意外とまともな人だなと安心していただけですよ」
「きょ、恐縮です……」