兎の合鍵

 数分前に「少し待っていてください」とだけ言い残し降りてどこかへ行ってしまった入間さんが、紙袋を手に戻ってきた。
「送っていただくだけでなくパンまで、あの、すみません! ありがとうございます!」
「こちらの方が早いでしょう。あまり人を待つのは好きではないんですよ。特に朝は」
 私の分だと渡された紙袋を抱きながら運転席へ向かってペコペコと頭を下げる。車の中は焼きたてのパンの香りでいっぱいだ。慌てて財布を出そうとするもパンの一個や二個大して変わらないと止められてしまった。
「それよりも、すみませんが適当に買ってきましたので、苦手なものがあれば私の袋の中身と変えてください」
「大丈夫です、好き嫌いはそんなにありません!」
「それは素晴らしいですね」
 入間さんは苦笑しながらエンジンをかけた。適当に選んだとはいえ、入間さん曰く今まであのパン屋で買ったものどれも美味しかったとのことなので信じて期待しようと思う。
「また今度行きましょうか。……もしあなたが今日明日で出て行くことになければ、ですが」
 車がまた動き出す。寄り道したパン屋から駅までは、信号次第だが10分足らずで着くらしい。私はすぐに降りられるようにパンと鞄を抱え直した。
 そういえば、今夜細かい話をしようと言っていたけれど入間さんの帰りはいつになるんだろう。確認しようと私が口を開く前に、入間さんから教えてくれた。
「今夜はなるべく21時には帰ります。昨日の事後処理など色々残っていますから」
「えー、大変ですね」
「昨晩誰かさんに泣きつかれて時間を食った上、家にご招待するために仕事を切り上げましたからねえ」
「う……す、すみませんでした」
「冗談です。私も、あなたの保護という名目で切り上げられて助かりましたよ。それに、今夜からは私が疲れて帰っても温かい食事がすぐに出てきて、家事もやっていただけるんでしょう?」
「ぜ、善処します……」
「是非そうしてください。あなたの安寧のためにも」
 ついでにと聞いてみれば、炊飯器はキッチンの棚のどこかにあるはずだと歯切れ悪く返ってきた。余程長い間家で米を炊いていないらしい。
 とはいえキッチンの戸棚たちにはほとんど物を置いていないから、何かあればすぐに見つかるだろうし、そこに無いものは無いと思ってもらって良いとのことだ。
 つまり、朝にざっと見回った限り、調理に関するものはほとんど無いってことね!
 少なくともフライパンや鍋に類するものは入間さんの記憶に無いらしい。悲報だ……そこから揃えなければいけないのか……!
 冷蔵庫の中身は思い出すまでもなく調味料と酒しかなかったし、今日の帰りは何かしら食材をまず買わなきゃもう夕飯から詰みだ。それに炊飯器を使わないでいるということは米も無さそうだし、これは何を優先して買って帰るかリストを作らないとダメそうだ。仕事の空き時間で作れるかな……朝から気が遠くなりそうだ。まず米にフライパンと鍋だけで荷物も出費も嵩むし……。
「そうそう、今後買い物をする際はレシートを忘れずに貰ってくるようにお願いします。関係するものは精算しますので」
「えっ!? いやダメですよ、タダで泊めてもらう上に……」
「幸い、私はあなたから巻き上げるほど金銭には困っていません。あなたに提供していただきたいのは、あくまで労働力だけです。……それに私としては、あなたには早くお金を貯めていただかないと困りますからねえ」
「ハイ……」
 流石に私の食費光熱費分まで負担させるのは、と食い下がろうとしたけれど、そこを突かれてしまうとぐうの音も出ない。早くてキリよく次の給料日に追い出されてしまうかもしれない事を考えると、なおさらお言葉に甘えて貯金を温存させてもらったほうが良いのかもしれない。
 もごもごと言葉に詰まっているうちに、駅に到着してしまった。細かいところは夜に、とのことだから、話はひとまず置いておくしかない。
さん、降りる前にこちらを」
 改めて車とパンのお礼をしてドアに手を掛けたところで呼び止められた。振り向くと、ポケットから何かを取り出しているところだった。
 そうして入間さんが手をこちらへ差し出すのに合わせとりあえず私も両手でお皿を作って出すと、赤い手袋から何かが落とされる。ちゃり、と微かな金属音。私の手のひらで銀色に光っているのは、鍵だった。
「これは……?」
「私の家の合鍵です。……勿論、私がこれを渡すのはあなただけですよ」
 ……何が“勿論”なんだろう。また入間さんが、昨日私がコップを洗ってた時みたいな薄く口角を上げた微笑み方をしている。やっぱりこういうの、狙ってやっているのかな……?
 とはいえ揶揄われて毎回どぎまぎするのも、それを面白がられるのもなんだか癪なので、頑張って無視して渡された鍵に目と意識を逃がす。
 表面に溝が掘ってある。これなんて言うんだっけ、ああそうだ、ディンプルキーだ。
 そんでもって持ち手のところにはキーホルダーがついていて……その先っぽには、ちょこんとした兎さんがいた。
「あの」
「なにか?」
「可愛いキーホルダーですね……?」
「でしょう? ちなみに、私の下の名前はご存知ですか」
 なんだっけ……昨日一度名乗られたような気はする。いやでも、取り調べやら家に押しかけるやらで色々ありすぎて、ぱっと思い出せない。
 唸っていると、入間さんがニコニコしたまま子供に言葉を教えるようにゆっくりと答えてくれた。
「じゅうと、です」
「じゅうと……?」
「ええ、拳銃の銃に、兎で銃兎といいます」
「うさぎ…………、っ?」
 するり。赤い手が、鍵を乗せた私の手に触れた。そのまま、私の手の甲を覆うように、入間さんはその赤い指と手を滑らせていく。
 私は当然びっくりして、手を引こうとした。でも入間さんの手はそれを許してくれなくて、私の手が赤色に包まれて消えていく。
 入間さんが、ぐっと助手席に向けて前のめりになる。入間さんが、近い。きらりと金色に光るカラーピンが、眩しい。ぎゅうと上から力を込められ、まだ少しひやりとした鍵が、手のひらに食い込んでくる。
「……ですから、この子を私だと思って、肌身離さず持っていてくださいね」
 緑の瞳に、私の丸い目が写っているのが見える。眼鏡越しに、まつ毛が数えられそうだった。
 手袋越しとはいえ男の人にこうじっくりしっかりと手を握られては、距離を詰められては、さっきの強がりもだんだんと萎れて、気恥ずかしくなってくる。結局耐えきれず頬に熱が寄り始めたところで、入間さんの目がそっと細められた。
 溢れるように聞こえた笑い声は、意地の悪いものだった。
「言うまでもないとは思いますが、もしなくしたら……貴方も色々と失うものと思ってくださいね」
「い、いろいろ……!?」
 ……走り去っていく入間さんの車を眺めながら、私は一気に冷たくなった手で小さな兎さんを握りしめた。
 うん、とにかく、この鍵だけは何があっても手元から離さないようにしよう……!!
(230414)
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