2月に入り風がすっかり身に染みるような冷たさを増す中、世間はバレンタインデーに向けて熱が徐々に上がり始めていた。朝のニュースではイケブクロにあるデパートの催事場の様子が映され、午後コンビニにおやつを買いに行けば茶色に支配されたデザートコーナーが目に入り、夜スーパーに寄ればお菓子売り場や製菓コーナーには割引のポップが踊る。
「どうしようかな……」
お皿を洗いながらため息を吐く。当然、ぼやくのはバレンタインのことだ。
会社はまあいいよ、基本的に「そういうのはやめておこうね」という風潮になっていて、せいぜい同じ部署の女性社員とこっそり交換するだけだから。あといつもお世話になっている観音坂くんくらいかな。彼は……以前ちょっといいチョコを渡したら地雷を踏んだらしく「俺みたいなやつにこんな勿体無い……」といつもの発作が始まってしまったから、それ以降は代わりにコンビニのチョコを渡している。それでホッとした顔をしていたので、今年もそんな感じでいいと思う。
話を戻して……悩んでいるのは入間くんのことだ。家事を対価に家賃光熱費食費を実質タダにしてくれて大変お世話になっている大家さんに対して何も用意しないというのは気が引けるし、それにこういうイベントは改めて普段の御礼をする良い機会でもある。
という感じで、渡すことは決まっている。決まってないのは、肝心のチョコレートをどうするか、だ。
手作り? いやあ、良いものを食べ慣れていそうなあの人が、素人の手作りチョコなんか貰っても困るだろうなあ。それに、重たく捉えられたら居た堪れない。それじゃあデパートで買おうか、とも思うけど、あのフロアいっぱいに並んでいるありとあらゆる種類、デザイン、価格帯のチョコレートたちからどれを選ぶべきか。いっそワインとかどうかなと思わないでもなかったけれど、私が勘で買って入間くんの好みの物を当てられる確率はかなり低い。
そもそも、入間くんはあの「MAD TRIGGER CREWの入間銃兎」なわけで……チョコ含めプレゼントなんか文字通り山ほど貰いそうじゃない? その上に私から余計に物を増やすのも、申し訳ない気がする。でもなあ、完全スルーして何もしないと言うのも……。
こんな感じで、ここ数日ぐるぐると悩んでいるのだ。
「お皿、ありがとうございます。コーヒー淹れますがあなたも飲みますか?」
入間くんは1日の中で何度かコーヒーを飲む。夕食後少しして、というのは彼のルーチンのひとつだ。最近はこうして声をかけてくれて、私の日課にもなりつつある。
申し出にお礼を返すと彼は「いえいえ、これくらいは」と豆の袋を開けた。それを泡の減ってきたスポンジを揉みながらぼーっと見ていると、入間くんはコーヒーメーカーに何度かスプーンを運びながらご機嫌に口を開いた。
「悩み事ですか?」
「悩み事というほどじゃないけど……」
「おや、気付いてないんですか? あなた、最近ため息が多いですよ。具体的には、今月に入ってから……フフ、バレンタインですか?」
わあ、鋭い。こんなピンポイントで言い当ててくるとは、流石刑事さんと言うべきか、それとも私が分かりやすすぎるのか……まあ、ここまでわかっているならいいか。
給水タンクに水を汲む入間くんのために、泡を流す手を止めて少し横にずれる。
「それじゃあ、バレたついでに相談に乗ってもらってもいい?」
「相談? ええ、構いませんが……」
「うーん、渡したい人がいるんだけど何をあげたら喜ぶのかわからなくって……入間くん?」
ガッチャン。給水タンクを取り付ける音が響いた。彼が立てる物音としては珍しい荒々しさに驚いていると、コーヒーメーカーの軽妙な電子音をお共にやたら重々しく入間くんが呟いた。
「そいつは……男ですか?」
「え? あ、うん」
「あなたとはよく顔を合わせる?」
「え、まあ、そうだね」
「29歳?」
「えっと、確かそう言ってなかったっけ?」
「……そして、DRB決勝に出場したことがある」
「私は直接見たことなかったけど……って何このアキネイターみたいな尋問……?」
「いいんじゃないですか? 観音坂さんには、その辺のコンビニのチョコレートを渡しておけば」
「いや当たってないけど当たっててすごい……」
「まさか伊奘冉さんの方か……!?」
「まさかそれはない! 入間くんの話!」
「は? 俺……ああ、そうか、いえ、私に決まってますよね、当然です」
入間くんって、さっきみたいに大抵いつも怖いくらい聡く鋭いのに、最近はたまにびっくりするほど鈍いところも見かける。いや、今回は本人に直接聞くのが申し訳なくて濁した私も悪いのかな……?
コポコポとコーヒーが抽出されていく。入間くんは眼鏡のブリッジを抑えながらそれをじっと監視し始めてしまった。なんだか分からないけれど、とりあえず相手もハッキリしてしまったことだしグダグダとさっきまで悩んでいたことを溢してみた。
お皿の泡を流し終えるころには、入間くんはもうすっかりいつもの笑顔でゆったりとキッチンに寄りかかっていた。
「私、なにかおかしいこと言ったかな」
「いえ、まさかあなたが私のことでそんなに頭をいっぱいにしてくださっているとは思わず。どうも、ありがとうございます」
「違くはないけど、言い方が嫌味だなあ……」
コーヒーの香りが少しずつキッチンに充満していく。でも、私の頭はまだプレゼントのことでいっぱいだった……入間くんの言葉を借りるなら。
「……手作りと市販ならどっちがいい?」
いや別にさっきの尋問のお返しというわけじゃないけれど、戸棚を開けながら聞いてみる。コーヒーメーカーの隣にマグカップを2つ並べながらチラッと様子を伺うと、彼は私の方を向いて、それから少しだけ目を細めてゆるりと微笑んだ。
「あなたからのものなら、なんでも嬉しいですよ」
……入間くんの、こういう時ポンポンとそういう台詞が出てくるところ、本当にイヤ! 私は真面目に聞いてるのに! さっきまで謎の動揺をしていたくせに! 思わずじとっとした視線を送るも、本人はどこ吹く風だ。
「ど、どっちか!」
「では、手作りを……ねだっても、よろしいんですか?」
一瞬、言葉に詰まってしまった。私を見つめる入間くんの目はまっすぐで……そこに、さっきまでの笑みは無かった。
結局、私の方がわざとらしく目を逸らしてしまった。気恥ずかしくって、悔しい。
「あ! あと、もしかしてチョコじゃないほうがいい? 入間くんいっぱい貰いそうだし飽きるよね、他になにか……」
「ああ、そこは気にしなくていいですよ。なんであれ、あなたの物を最初にいただくつもりですから」
……そういうとこ! あんまりにもサラッと言うし、私は滴下するコーヒーを必死に見つめていたから……入間くんがどんな顔でこんな言葉を吐いているかもわからなかった。
ていうかなんでも良いって言われると、それはそれで悩むんだって! そもそも別にお菓子作りそんなに上手いってわけじゃないし、いつものご飯とおんなじで一般人クオリティのものだし……!
そんなことをもごもご呟いていると、それなら、と入間くんがふっと柔らかく息をついた。
「コーヒーに合って……あなたと一緒に食べられるものだと、嬉しいですね」
「わ……かった」
私が固まっている横で、彼が悠々とコーヒーを注ぐ音が聞こえる。
一層香りたつコーヒーの湯気が漂ってくる。
はい、と入間くんがそっとカップを差し出す。
「それで、私のお気に入りの映画でも観ましょうか」
いつもお決まりの流れ通り、悔しいけれど私は入間くんに返す言葉を見つけられなくって、カップを受け取る手にほんの少し力が入った。
でも入間くんは「今日は、残念ですがまだ仕事があるので」と、そんな私をそれ以上は揶揄わず、自分の分を手に自室へと消えていった。
後日、私はそれはそれでネット上に転がる膨大な数のレシピの選別に頭を抱えるのだった。