私がドアを開けると同時、黒い影がのしかかって、いや、抱きついてきた。
「わっ、え、銃兎くん!?」
「はい、ただいま帰りました」
時計の針がてっぺんをとっくに過ぎた深夜、突然鳴り響いたインターホン。そこに映る姿に慌てて玄関へ向かったら、これだ。彼の腕はぎゅうぎゅうと閉じ込めてきて苦しいし、密着するシャツ越しの身体は随分と熱を持っている。ていうか、とんでもなく酒臭い!!
気持ちよく眠っていた目もすっかり覚めてしまった。呆気に取られていると、つむじに不満気なため息が降ってきた。
「俺が帰ってきたんですが……なにか、言うことは?」
「お、おかえりなさい?」
「ふふ、ありがとうございます。今日もいいこで俺のことを待っていて、えらかったですねえ」
一転、ふにゃふにゃ蕩けた声といつもより気遣いの無い手が、わしゃわしゃと私の寝起きの頭や背中を撫で回してくる。なんだこれ、ふれあいコーナーの小動物? それに声色だけじゃなくて、なんか口調も滅茶苦茶だ。
「ぐぇ、じゅ、銃兎くん、今日は碧棺さん毒島さんと夜通しお祝いなんじゃ……」
今日、いや日付的にはもう昨日になっちゃったけど、5月30日はここの家主でかつなんやかんやで私の恋人ということになっている銃兎くんの誕生日だ。
昨晩……ああもうややこしいなあ、5月29日の夕飯時は「明日は夕飯は大丈夫です。左馬刻と理鶯に呼ばれてますので、遅くなると思います。すみませんが、戸締りをして先に寝ててください」とか申し訳なさそうにしていたけれど。
「ええ、そのつもりだったんですが──」
私としては誕生日には今までで反応の良かったメニューとチーズケーキでも作ろうかなというだけだったから、それならそれでまた後日にしようと話をして……銃兎くんは「それはそれは。あなたとのお祝いも楽しみですねえ」と喜んでいたっけ。
一応「おめでとう」は今朝一緒にご飯を食べながら伝えたし、その時さらっとお礼を言われたかと思ったら「行ってらっしゃいの挨拶をいただいても?」と口にねだられた。誕生日を口実に迫られると、断れない。そんな感じで朝っぱらから私を揶揄ってニッコニコで出ていった銃兎くんを思い出していると、はは、とその時みたいな朗らかな笑い声がした。
「──あいつらに祝ってもらって……あとは、あなたに会わないと……今日は終われねえなと、思って……」
眠そうに段々と重たくなってくる声と一緒に、銃兎くんの額が私の肩に乗っかってくる。重たい。煙草とお酒と謎のスパイスの匂いがする。
「今日って……もう日付も変わって3時前だよ?」
「しらねえ、俺が時計見てねえからまだ誕生日だ……」
「えぇ……」
あの銃兎くんが、小学生みたいな屁理屈を並べている。まったく、“べろっべろ”じゃないですか。頭を振るように額をぐりぐりと押し付けてくる。彼がいつも気を配っている緩めの七三も、ぐしゃぐしゃだ。とりあえず宥めようと背中をぽんぽんと叩いてあげた。
「……ひえっ!? じゅうとくん!? な、なな、なにすんの!?」
何がどういうわけか、ぬるー……っと、熱く濡れたものが首筋を這い上がってきた。一度だけじゃ飽き足らず、“べろっべろ”だ。ぞわぞわくすぐったさに慌てている間にも、ちゅっちゅと吸う音まで出している。
「ねえここ玄関なんですけど! っ痛!? ちょっと! 今、跡つけた!? いっ……か、噛んだぁ!!」
「うるせえ、プレゼントは大人しくしてろ……」
唐突になんの話!? プレゼントになった記憶は無いんだけど! 腕の中でもがいたり喚いたりしてみても、銃兎くんは不機嫌に声を低くして、腕の拘束が強くなるだけだった。
「もーっ酔いすぎでしょ!」
「酔ってねえ」
「っとにかく、わかった、わかったから……あとで! まず水飲んで、シャワー浴びて!」
「あとで……あとでならいいんだな……」
ぎゃんぎゃんと耳元で騒ぐと、ようやく解放してくれた。なにかをぶつぶつ呟き続けている銃兎くんの手を取って、とりあえずリビングまで向かう。廊下を歩く間も銃兎くんは、ふふふ、なんて遊ぶように指と指を絡めながら笑い声をこぼしていた。
こんな泥酔した銃兎くんは、初めて見た。普段の彼は気取り屋さんだし、飲酒量も職業柄人一倍気を遣っているだろうに……いったいどれだけ飲まされたんだろう。いや、普段は見ない我儘というか、甘えというか、それはかわいいと思わないでも、なくも、なくも、ないというか……いやいや、でもこの人は181cm、自動販売機くらいある。じゃれついてくるには図体がだいぶ大きいことを忘れないで欲しい。
「そういえば、夕飯の残りでよければ味噌汁もあるよ」
「……みそしる、ですか。あなたらしいですねえ」
「どういうことよ」
リビングに着いてからも大変で、テーブルで待っててと声をかけても銃兎くんはまったく聞く耳持たず、私にまとわりつき続けた。鍋に火をかけて待つ間も、後ろからそろそろと抱きついたり、そのままつむじに口付けたり、私の毛先を弄ったり……鼻歌みたいな吐息を頭上で溢しながらやりたい放題だ。
まあ、どこか手加減を感じるから、前に「料理中は変なことしないで! 危ないから!」と怒ったことはかろうじて覚えてくれているのかもしれない。酔っているのと誕生日であることを加味して、甘めの判定で許してあげよう。
結局テーブルに湯気の立つお椀を置いて椅子をひいてあげて、ようやくしぶしぶと離れてくれた。
「……おわあっ!? の、飲んだ?」
それから、空いた鍋を洗っている間にまた背後に銃兎くんが佇んでいた。心臓が跳ね上がってバクバクしている私に対して、銃兎くんはただこくりと頷いた。
「そ、そしたらシャワー浴びるか、明日にしてもう寝ちゃってください……あ、食器もらうよ。銃兎くん?」
手を差し出しても、彼はまるで宝物かなにかのようにお椀とお箸を大事に両手で抱えて黙りこんでいる。温かいものを飲んで落ち着いたのかもしれない。何かいいたげにはしているけど、目はぼんやりとしているから。
「ええと、なにか私忘れてる……? あ! 改めて、誕生日おめでとうございました」
……あれ? さっきのお帰りなさいとか普段の「お礼は?」とかと同じでこれかなと思ったけど、違ったのかもしれない。銃兎くんは一瞬驚いたように目を開いてから、気の抜けた笑みを浮かべるだけだった。四角い眼鏡の奥で、ちょうどこの時期の葉っぱみたいな色の目が柔らかく細められている。
とりあえず、沈黙と気恥ずかしさを誤魔化すために彼が抱えるお椀に手を伸ばした。
「……ねえ、さん」
受け取ったお椀。それを持つ私の手をさらに、銃兎くんの手がぎゅうと覆った。酔っているからか、眠いからか、多分両方のせいで彼の手はとても熱い。
「ずっとこうして、私に味噌汁を作ってくださいね」
「……は……それ、って」
「では、おやすみなさい」
する、と指先が私の手の甲を撫でて離れる。「いえ、ああ、あとで、がありましたね……」とかなんとか呟いて、私のおでこに彼の唇が触れた。やっぱり、やたら熱い。
フラフラと自室へ向かう銃兎くんの背を眺めながら、私は妙に火照る頬を抑えた。絶対、漂う酒臭さのせいだ。
「……酔いすぎでしょ」
その後、一応銃兎くんの部屋をそっと覗いてみたけれど、彼はベッドに倒れ込むようにして眠っていた。寝息も聞こえるし、床じゃないから大丈夫だと思う。本当に、一応確認しに来ただけだし……“あとで”はどうするのかなって。
それで自分の部屋に戻ると、枕元に置きっぱなしのスマホには碧棺さんと毒島さんからそれぞれメッセージが来ていた。
【ウサちゃんの惚気うぜえから帰す 適当にお前のことプレゼントっつっといた】
【すまない、飲ませ過ぎたようだ。左馬刻が揶揄したのだが、貴殿の話が出て止まらなくなった。銃兎は、帰る場所ができて嬉しいのだろう。】
写真も何枚かくっついている。夥しい数のお酒の空き瓶の中で、銃兎くんが碧棺さん、毒島さんと気の置けない楽しそうな笑顔を浮かべている。私はとりあえずそれらを保存して、布団を被った。明日起きられるかな、味噌汁の具、どうしようかなあ……。
***
「おはよう、銃兎くん」
「……おはよう、ございます」
真っ青な顔で出てきた銃兎くんは、頭を抑えて呻いていた。そりゃまあ、あの写真通りの飲みっぷりなら、誰でもそうなる。
「さん……昨晩、私いつ帰ってきました? ていうか俺はなんでわざわざ帰って来たんだ……?」
「……夜中の3時ごろかな」
「そうですか。……ダメだ、何も覚えてねえ……くそ、左馬刻あいつ何飲ませやがった……」
普通に、お酒だと思う。きっと量と度数とお値段が尋常じゃなかっただけで。私が心の中でツッコミを入れながら鍋を火にかけている横で、銃兎くんがグラスに水を注ぐ。一気飲み……は流石に厳しかったのか数度に分けて煽ってから、ぐったりと項垂れた。
「だめだ。朝ごはん、すみません……二度寝します」
「あ、銃兎くん。ええと、味噌汁……作ったけど、飲む?」
「あー……そうですね、それだけいただきます」
それから、彼は力無い愛想笑いを浮かべながら食卓についた。
なるほど。銃兎くんは、昨晩のことは本当になんにも覚えていないみたいだ。……ふうん、そっか。覚えてないんだ。別にいいけど。あんな台詞、今日日そういう意味で使う人もいないだろうし。別に気にしてたわけじゃないし。……ふーん……そっかあ……。
「こんな姿を、誰かに見せるとは……」
空のお椀を前に、彼は満足気なため息を吐いた。フラフラと自室へ戻って行く銃兎くんの背を眺めながら、私は首元をそっと撫でた。誰かさんのせいで、季節外れのタートルネックだ。
「酔いすぎでしょ……」