砂糖を直火にかけたような、むっとした甘い臭い。ドアの向こうからかすかに漏れ漂うそれを、私の鼻は過敏に拾いあげた。
 喘ぐようにひとつ大きく呼吸をする。不快さに、喉の奥が詰まるようだった。
 少し前、出回りかけたドラッグがある。炙って発生する煙を吸えば、当人の望み、もしくは幸福な昔の光景を見せ、そしてそれを体験している気分までもを強く想起させるというものだ。当然、クズドラッグの例に漏れず強い依存性を持つ。回数を重ねるほど精神は現実に帰ってこられず、放置された肉体は副作用も相まって急激に衰弱してゆき、最終的には廃人となる。このバカみたいに甘ったるい効果と、そして香りからシュガードロップ、なんて呼ばれていた。
 しかしあれは、その名が広がるよりも前に“あの人”が国内組織も販売ルートも全て潰したはずの代物だ。
 ドアノブに手をかける。深淵を覗き込む時……なんて有名な文言が脳裏をよぎる。例えば、そう、例えばの話だが──あの人は、いったい何を見るのだろうか。
 ほんの僅かドアを押しただけで、わざとらしいケミカルな甘ったるさが、隙間からぶわりと溢れ出して纏わりついてきた。──サマトキサマや毒島さんとこの国のトップを取っているのだろうか。警察として出世し、より強い権限を得ているだろうか。ご家族や、仲間たちと穏やかに過ごしているだろうか。麻薬を撲滅させた世界に居るだろうか。

 暗闇の中、床に散らばる夥しい量の錠剤、粉、袋、アルミホイル片、ライター、注射器……いやにハッキリと闇に浮いて映る憎悪と悪意の数々を踏みつけて進む。段々と、失敗したカラメルのような不快でもったりとした臭気が強くなっていく。
 その中心に、あの人はいた。
「入間さん」
 呼びかければ、その影は幽鬼のように立ち上がり、蠢くように距離を詰めてきた。
 いつもテキパキと資料をめくり指示を出し、時に腹が立つほど優雅に振る舞っていた特徴的な赤い手が、泥人形のような動きで私に向かって伸ばされる。
 そして腕に縋りつき「……」肩を掴み「……」首筋をなぞりあげ「」私の頬に触れた。
 この人のこんな甘ったるい声は初めて聞く。いや、女性相手に情報を引き出す時はこんな感じだったかも知れない。だが、耳元で睦言のように囁かれる自分の名前は、まるで知らない言葉そのもので、怖気が走る思いがした。
 手入れを放棄されざらついた手袋が私の頬を引っかかりながら滑る。緑の瞳が徐々に私の視界を占めていく。ぐっと強くなる甘い臭い。吐息が唇を撫でる。眼鏡が、ぶつかってしまいそうだった。

……俺と一緒に堕ちてくれ」
「もちろんです、入間さん」

 ──思ったよりも呆気ないものだな。最初に、そう思った。
 私も、入間さんへと手を伸ばした。祈るように合わせた両手には、いつの間にか刃物が握られていた。さしたる抵抗もなくずぶずぶと進み、私の両手は濡れたシャツへと触れてしまった。
「…………」
 あの人にはまるで似ても似つかない、路地裏に捨てられた水槽の底のような緑の瞳が、段々とその忌々しく淀んだ色すらも失っていく。
「“入間銃兎”が歪むくらいなら、私の身なんていくらでも墜としてやりますよ」
 力が抜け覆い被さってくる細身のスーツを、私は赤い手袋のようになってしまった両手で受け止めた。

 ***

「なあ。また入間から面倒なお声が掛かる前に、休憩行ってきたらどうだ?」
「……大丈夫です」
「朝からずっと眉間に皺寄ってるぞ、大丈夫じゃないだろ」
「はは……そうかもしれないですね……」
 お言葉に甘えて、と先輩や同僚の気遣いに応えて廊下に出る。無機質なタイルを踏む足が嫌に力んでしまって、うまく歩けているか自信が無い。
 朝からずっと、最悪の気分だ。夢見が悪い、なんてもんじゃない。過去1、2を争う寝覚めの悪さだ。冗談じゃない。あの夢を構成する何もかもが悍ましく、腹立たしかった。
 昨日、何をどう手に入れたのか1本の違法マイクを使い回しながらイキリ散らかしていた大学生たちを補導した。今思えば、その際に1発くらったアレのせいだろう。使い手が雑魚でも腐っていてもヒプノシスマイク、あの時は僅かな衝撃だけで何も無いと思っていたが、精神は何かしらの影響を受けていたらしい。
 何とは無しに歩くうち、気付けば喫煙室の前に着いていた。別に呼び出されてなんかいないし、何の報告も無いと言うのに。無意識にここに足を運ぶだなんて……あの人につき従ううちに、すっかり変な癖がついてしまった。
 気恥ずかしさをため息で誤魔化し踵を返そうと思ったがしかし、また偶然にもガラス窓の向こうに居た、昨晩私が腹を刺したばかりの相手と目が合ってしまった。当然、何事もなくぴんぴんしている。でかい案件をひとつ終えた後だからか、眼鏡の奥の目を細めて、ゆっくりと楽しむように煙を燻らせている。
 あの人──入間さんが、煙草を持った手を数度揺らした。誰もいないから入って来い、という合図だ。今顔を合わせるのは正直気が引けるけれど、まさか上司を無視するというわけにもいかないだろう。
 廊下に人がいないことを確認して足を踏み入れれば、嗅ぎ慣れた白煙が私を迎えた。
「どうした? あたらしいヤサでも上がったか?」
「リストに変更はないです。あと、報告も、特には」
 入間さんは、何しに来たんだこいつ、という顔と態度を隠しもせずに短い煙草を灰皿に放り込んだ。私を訝しげに見下ろす眼鏡は今日も汚れひとつなく、その奥には強く理知的な緑が灯っていた。
「……すみません、なんとなく……えー、入間さんのことを考えていて……?」
「は? 貴方が今更私に媚びたところで、なんにもなりませんよ」
「そう、なんですけどね……あー、今日も入間巡査部長が御健在で安心しました。煙草はやめた方がいいと思いますけど」
「修羅場でも無ければ、私だって規則正しい生活を送りますよ。……本当に、どうしたんです?」
 大したことではとはぐらかそうとする私を遮るように、キンッ、オイルライターの蓋が勢いよく音を立てた。真新しい煙草の先が赤く光る。もう一本分の時間潰しに、いいから話せということらしい。
「その、変な夢を見まして。入間さんは、見たことありますか? 私が……死ぬ夢とか、私を殺す夢とか」
「何かと思えば、随分と物騒な話ですねえ」
 ハハ、と高い嘲笑。……確かに、たかが夢ごときで取り乱しすぎだったかもしれない。いくらその内容が、私にとって看過し難いものだったとしても。入間さんの目には夢ごときで動揺する私は馬鹿馬鹿しく映ったかもしれない、呆れられたかもしれない、などと思い至れば急に羞恥が湧き汗が噴き出した。
 ああ、もう、話すんじゃなかった。そう悔いを目に集めて入間さんを睨み上げた。
「見る。……どっちもな」
 憎々しげな声が、搾り出すように紫煙と共に吐いて落とされた。
 その顔からは、何の感情も読み取れない。いつもの口角を上げ挑発じみた笑みのポーカーフェイスとは違う。そこには、お面のように静かで硬い顔があった。
。俺は絶対に夢のようにはならない。だからお前も、俺に手を下させるんじゃねえぞ」
 強い意志を持った声で呼ばれる聞き慣れた自分の名前には、いつも背筋が伸びる思いがする。いや……嫌な予感に背筋を寒くすることも、よくあるけれど。
さん、お返事は?」
「もちろんです、入間さん」


あとがき
所謂「入間さんはそんなことしない(言わない)!」(20240128)

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