治療や検査で一晩過ごした病院を後にして、連絡の通り駐車場に向かう。
 一目でわかるお高い車の運転席に座った入間さんは、私のガーゼだらけの顔を見るなりにやりと口の端を上げた。
「男前になりましたね。いえ、女を上げたのほうが良いですか?」
「入間さん、男だ女だのの褒め言葉は今の時代コンプラ違反ですよ」
「そうだな。……悪かった」
 痛む頬でツッコミを入れつつ軋む身体を助手席に沈めるとすぐに、入間さんが今度は深々と頭を下げるのだった。

 ***


「──有名人の色男はお仕事にも女を侍らせて、良い気なもんだよなあ」
 鬱々とした廃倉庫に、下卑た笑い声が響く。入り口から数歩のところで留まる入間さんと私に対峙して、追い込まれた壁際にその男はひとり女を伴い佇んでいた。
 男の持つ注射針が鈍色に光る。シリンダーいっぱいに詰まった液体は、男が元締めとして好き放題ばら撒いていた“ひと舐めでも十分キマる”なんてクソみたいな評判の違法薬物だ。そんなクソ野郎自身もすでに微量に摂取しているのか、異様に血走った目を入間さんと私、そして女に忙しなく走らせている。
 もう一方の手は女の腕を掴んでいる。ここから見ても震えが分かるほど怯えきった彼女へ、男は針を突き立てる素振りをして唇を醜く釣り上げた。要するに、善良な市民を廃人にしたくなければ見逃せという人質交渉をしたいらしい。
 横目で入間さんを伺うが、指示は無い。相手の要求を待てということだろうと再度男へと視線を戻したところで、失礼にも注射針の切先を私に向けて男が興奮の滲む声を上げた。
「そうだ入間銃兎ォ、隣の女を殴れ。手ェ抜いたら、」
 バァン。男の言葉も途中に、鼓膜と、頬が弾けた。私のだ。白く明滅する視界が、傾いていく。咄嗟に頭を守る。なんだ。無防備に床に叩きつけられた肩から、鈍く嫌な音が全身に響いた。なぐられたのか。片頬は氷のような床の冷たさ、もう片頬には火を押し付けられたような熱さ。いや、ひらてか。状況を認識するにつれ、疼痛がぶわりと広がり、脳を満たした。いたい。かなり。
「殴りましたよ」
 はい、と聞き慣れた声だけが静かに通る。半分の神経と意識を痛みに侵されながら、なんとか目だけでも動かした。
 男に片腕を捕らわれたまま、へたり込んで顔を青くした女性。
 すぐ横には口を間抜けに開けて固まった男。
 そして、私に一瞥も寄越すことなく男を見据えたままの入間さん。まるで午後の煙草休憩から戻る時のように落ち着いた微笑みを浮かべながら、赤い手袋を撫でている。
「おやおや、どうしたんです? そんなに目を丸くして」
 まさに鳩が豆鉄砲を喰らったような、虚を突かれ未だ処理が追いついていない様子の男に、入間さんが首を傾げてみせる。
「ああ……もしかして、足りませんか」
 入間さんが、フレームの隙間から横目だけで私を見下ろす。そうして、入間さんはたった一言、鉛のように冷たく重たい声だけを私に落とした。
。起きろ」
「……は、い……」
 動いてはならないと神経がずきずきと警鐘を鳴らす中、打ち付けた余波で痺れる腕を無理矢理地面に突き、身体を起こす。脚もどこか打ったらしい。いや、腰かもしれない。何より脳に最も近い顔からの情報でパンクしているような感覚だ。
「遅い」
「ッ!!」
 くらりと歪曲する地面に足をつけ、私の身体がようやく直立の形を取るが早いか……再び頬で熱が弾けた。予測はできていたとはいえ、まるで一切の容赦もない衝撃に、またコンクリートの熱い抱擁を受けてしまった。ドクドクと血が動くたびに灼けて痛む頬と、チカチカと白や赤の星が舞い歪む視界に慣れる間もなく、ただただ冷静な入間さんの声に私の意識は引き戻される。
「気は済みました? それとも、蹴りの方も御所望ですか」
「うッ、は、あ゛……!」
 間髪入れず襲う圧迫感に、息が詰まる。横たわる私の脇腹に、入間さんが足を乗っけたのだ。いや、そんな優しいものじゃない、思い切り踏みつけられている、それもしっかり革靴のままで。ぐぐ、と体重を掛けられれば、力の入らない胴の肉には抗うこともできず靴底がめり込んでくる。私に許されているのは、唯一苦痛の吐息を溢すことだけだった。
「それで、どうします?」
「な、なんだよ……なんだよ!」
 脂汗に塗れた私と、部下を足蹴に冷ややかに問いを投げる入間さん。それに対して、動揺激しく男は大口を開けて喚きちらしていた。
「クソッ! その女、い、入間銃兎が大事に連れ歩いてる、お、“お気に入り”って話じゃあねえのかよ!!」
 悲鳴の残響の中、くすり、よく聞き慣れた笑みが聞こえたと思えば、ふっと腹部が軽くなった。ようやく思い切り息を吸い込める。
「ッぐ……ゥウ……!」
 けれど三度すら満足に呼吸もできないうち、寝転んだ私の頭が、なにか硬いもので抑えられ歯を食いしばる。万力で捉えられたかのように頭は痛み、首は少しも動かせない。霞む目で床を舐めると、影が見えた。
 私の頭から、入間さんの脚が伸びているようだった。
「──ええ、その通りですよ」
 男と私がぜえぜえと荒い息を吐く中、入間さんだけが悠々と、春の陽気のように語る。
「ご覧の通り私に忠実で、従順で、本当に良い駒……いえ、とっても良い子でしょう?」
 ごり、ごり……言葉の節々に合わせるように硬いもの……まず間違いなく、入間さんの革靴が私の頭上で揺れ続ける。それはサッカーボールをホールドしているような動き、いや……褒め言葉から察するに、撫でているつもりらしかった。まさか、靴底で? 人の頭を……?
 イカれてんのか。
 心の底から気味悪がった、力無いひとりごとが聞こえた。私もそう思う。まったく、自分で言い出したくせに勢いに圧され慄いているあの男も、「まあ、入間さんはいつも汚れひとつなく革靴を磨いているから、まだ良いかな」なんて呑気な考えがよぎり出した自分も、おかしくってしかたがない。
「ですから、なんでも申し付けていただいて構いませんよ。ただし……」
 二度も脳を揺らされまともな呼吸も許されず……どうやらアドレナリンが出始めているようだ。意識も思考もおかしくなってきているのが、自分でもわかる。
「こいつにしたことは倍にしてテメエにもくらわせてやるから覚悟しておけ!!」
 私の肩を蹴り転がしながら啖呵を切って、入間さんはこれ見よがしにマイクを掲げた。ディビジョンラップバトル参加者のみに許された、特別な刻印の入ったヒプノシスマイクだ。入間さんほどの腕があれば、男がわずかでも隙を見せれば確実に無力化できる。
 当然、男は慌てたようにあぶく混じりに声を張り上げた。
「お、女! マイクだ、マイクを持ってこい!」
「ほらさん、お使いですよ。起きてください。……はあ、世話が焼けますねぇ」
 痛みは、もう鈍くなってきていた。意識に霞がかかりはじめたからだ。でも、その代わり芋虫のような身じろぎしかできない。ため息が聞こえた。ぐっ、と上体が浮き上がるのを感じる。その拍子にぶつんとちぎれて聞こえたのは、ボタンの糸か。フロントが広がるのもお構いなしに、入間さんがジャケットの襟あたりを掴んで力任せに引き上げているようだった。裏地……警察の装備などが入るように大きくあつらえてもらった内ポケットまで、丸見えだろう。
 上司を見習って少し背伸びして買ったセミオーダー・ジャケットがズタボロになったことに悲しみを覚える間もなく、私の手にひんやりとしたものが握らされた。
「……ほら、貴方のマイクですよ。しっかり握ってください」
 入間さんが背中を押した方向へそのままフラフラと歩いていけば、男が私の手を掴みゴールを教えてくれた。マイクを奪うために女性を乱暴に解放したのか、衣擦れの音と小さな悲鳴……それから、聞き慣れない高笑いが耳に入ってきた。
「は、ははっ、ははははは! あの入間銃兎だって、マイクさえ無ければ──」
 しかし男の喜声を無慈悲に遮ったのは、脳に響く特徴的な起動音。
 流れ出すトラックの方に首を回せば、大小多数の寄り集まったメガホンがビートの刻みと共に薄闇の中に浮かび上がる。その頂上で煌々と光を放つ赤い警報を背に……トランシーバーを構える人影があった。
「な、なんで……うおっ!?」
 狼狽える男の声を頼りに体当たりをかます。硬い音が2つした。軽いものと、それよりもう少し重いもの。注射器とマイクが男の手を離れたようだ。不意打ちによろける男とともに傾いていく。私に、もう踏ん張る力なんて残っているわけがない。けれど、どうせ既に頭から脚の方までおかしくなっているのだから、あと一度くらい床に頬擦りしようが構わないだろう。
「いってえ……テメエ騙しやがったな!」
「騙すなんて、人聞きの悪い……」
 幸い、男がクッションになってくれたようだった。私を押し除けようともがく男へ、腫れた顔で精一杯の笑みを向けてやった。脳裏に、いつも見ているお手本を思い浮かべながら。
「ちゃんと渡したでしょう。……私の、警察用の支給マイクを」
「てめっ、ぐ、うあああ────ッ!?」
 男の汚い手が注射器に届くよりも早く。
 スピーカーから轟く鋭く力強い声が、格子と変わりバリケートテープと変わり男の四肢を身動きを封じていく。
 こうなるとホシにできるのは、まるで入間さんに赦しを乞うかのように再び地に伏し、ただ呻き声を上げることのみだ。
 普段の優雅な笑みも振る舞いも全てをかなぐり捨てた怒気が、ビリビリと空気を震わせて廃工場の空間全てを制圧するかのようだった。
「テメエのようなクズは、地獄を味わわせてからしょっぴいてやる! 1ヴァースでくたばるんじゃねえぞ!!」
 ボリュームを上げていく男の悲鳴と、床を伝う女性が駆けるリズムを耳に……私はもういい加減限界の意識をフェードアウトさせていった。


 ***


「いやー流石入間さんは役者だなあ、なんて感心していたくらいですよ」
 しかも入間さんご自慢の車で送迎なんて至れり尽くせりだなあ、などとわざとらしく笑ってみせたけれど、運転席からはいつものイキイキとした罵声ではなく小さな舌打ちが返ってくるだけだった。
「……入間さん。結果、狙い通りグループのボスはしょっぴけたんですから、それで良いじゃないですか」
「ああ、お前のおかげでな。……あのクズは、俺が一晩じっくりかけて“お話”しておいたから安心しろ」
 あんなふうに人質を取り気の大きくなった輩を前に、下手に狼狽えたり手加減するところを見せれば調子に乗り、要求の度合いが釣り上がっていく。それならばいっそ振り切って、入間銃兎は血も涙も無い男だと、脅しや嫌がらせの類には一切動じないのだと思わせた方が良かったのだ。実際に、あの馬鹿野郎はクスリの効果もあってか、動揺で逃げ出すことも忘れた上に大きな隙を作ってくれた。
 まあ、正直言えば引っ叩かれた瞬間はそこまで分からなかったけれど……それでも”入間さんが無意味なことをするはずがない“ということだけは分かっていた。……別に、信じているだとか小っ恥ずかしいことを言うつもりはないけれど。
 それにあのクズ売人、最後は白目を剥いて意識を飛ばすまで入間さんのラップを叩き込まれ、それから一晩たっぷりかけた取り調べを終えて今は豚箱のすみっこで震えているらしい。いい気味だ。
 何より、人質の女性は大した傷も無く保護されたのだと聞けば……公僕たる自分が身体を張った甲斐があると、気も晴れるというものだ。
 赤信号を前に、車が緩やかに停止する。入間さんの口が開いたが、それはアイドリングのエンジン音に紛れてしまいそうな声だった。
。……顔、傷は残るのか」
「まさか。お優しい上司が平手で済ませてくれましたから」
 口内は流石に少し切れたけれど、全身も含め基本は打ち身や擦り傷程度なので瘡蓋と腫れが消えれば綺麗さっぱり治るらしい。医者の言葉を伝えると、ようやく入間さんが強張りを解くように深いため息を吐いた。
「あー……入間さん、私、スーツのジャケット新調したいです」
「ああ、フルオーダーでもなんでも好きなものを奢ってやる。よく考えとけ」
「え、じゃあギンザで……ギャッ!? そこ! 頭はたんこぶできてるんだからやめてください!」
「おや、この私に撫でられるのが不服ですか。赤信号の度にたくさん褒めてあげようと思ったんですがねえ……ほら、いい子いい子」
「もう信号変わりますよ! ていうか気色わるイッタ!!」




あとがき
BoP2023観に行った時に、レッスクで「いい子いい子」の時足で頭を撫でるのを見てからずっと書きたかった(20240128)

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