序盤に入間さんがハニトラとしてモブ女性と仲良くしている描写がありますので苦手な方は注意
はあ〜、何やってんだろ、私。
扉を背にして、何度目になるか分からない溜息を吐いた。扉の向こうからは、時折ほんの僅かに男と女の声が漏れてくる。ガタ、とたまに聞こえるのは机や椅子が揺れる音だろうか。ぼんやりと壁のシミにもう十個目くらいの星座を見出していると、一際高い女の声が貫通してきた。私の突っ立っている、人払いを完璧に済ませた暗い廊下はあまりに静かすぎて、追って男の声も耳に入ってくる。聞くつもりは毛頭ないのだが。
「……あぁっ……じゅう……」
「……いい……すか……外に聞こ……すよ……」
……聞こえてしまってるんだよなあ……。
第5取調室。私の後ろにある扉の上、そう書かれているんですよ、実は。そう、ここはラブホとか、シチュエーション再現風俗的な施設ではない。思いっきり警察署だ。……必要なこととはいえ、上司のセックスのために各種手配から真夜中に棒立ちで見張りまでしている自分の図はあまりにアホらしい。
「……そろそろお時間です」
「……あぁ」
多分さっきのがクライマックスの盛り上がりで、今はピロートークタイムなんだろう。まあ取調室に枕なんてないんだけど。そもそもベッドもないわけだが。とにかく、10分もあれば入間さんなら大体は情報を聞き出せる。腕時計を確認したのち、事前に入間さんと打ち合わせていた通りにノックを数回、扉越しに声をかけた。
いわゆる、ハニートラップだ。入間さんに抱かれている……いや、入間さんに自分を抱かせているこの女は、一般人への恐喝、詐欺、挙げ句の果てには薬物のばら撒き……最近派手にやっており私たちが追っている犯罪グループのリーダーと深い繋がりのある女のひとりである。この数ヶ月、手練手管言葉巧みに色々言えないこと見せられないこと記録に残せないことそんな策を巡らせて入間さんが籠絡した女性だ。いや私も貢献したけど。いや、なんなら今まさに滅茶苦茶手伝ってるけど。
「タクシーを手配してありますので、署の裏口までお送りいたします」
「そ、ごくろーさま〜」
コートと鞄を自然な動作で私に持たせ、女はその身に纏う香水と同様の、蜂蜜のようにもったりと甘い声で笑う。その背後、取調室の内側に控えている入間さんはスラックスは履いてくれているが、上半身はインナーにシャツを羽織っただけだ。情事の直後だけあって女からも室内からもむっとするような空気が漂ってくる。こんな状態の女と男、それも後者はここを職場とする警察官の上司を堂々と一緒に表から出すわけにもいかないわけで、女の秘密裏のエスコートは私の役目になっていた。そのせいか、回数的には片手で数えるくらいなのに私はすっかり屋敷の小間使いか何かのような扱いをされている。今も、私に荷物を持たせるや否や入間さんに縋りついてお別れのキスを交わしている。
寂しいわ、私もです本当は帰したくない……はー、我慢だ、情報を絞りきるまで、我慢だ私。頬の内側の肉を噛み締めて笑いやら鳥肌やら怖気やらを必死に耐える。上司の甘く口説きながらの濃厚な深いキスを真面目腐った顔を保ったまま見守るなど、あらゆる意味で拷問以外の何者でもない。入間さんにとっても部下にセックスの見張りをさせてこんなものまで見られて気分が良いわけでもないだろうに、まるで涼しい顔……ターゲットの好みである“クールで優雅で格好良い理想の愛人”の顔を一切崩さないのだからすごい。案外ホストとか向いてるんじゃ……いや、麻薬撲滅の為なら悪魔に魂を売ることも厭わないだけで、この人は別に誰かをもてなすのが好きというわけじゃないから速攻でストレス溜めて終わりそうだ。
そんなことを考えつつ、当然私たちの息のかかったタクシーに女を丁重にご案内し、少し寄り道をしてから問題の現場へ戻っていく。デスクライトだけ点けた暗い取調室では、乱れたままの髪型に皺の寄ったシャツを羽織った状態の入間さんが、椅子に座り込みぐったりと疲れた様子でタブレットに情報を打ち込んでいるところだった。
「あー……お疲れ様です」
「本当にな」
「とりあえず、タクシーやコートの盗聴器、発信機のログは私の方で確認してまとめておきますね」
「……いつも、場所の手配と人払いその他諸々、助かっています」
「いえいえ、これも“入間巡査部長の部下の務め”ですから。……よくやりますね、入間さんも」
「うるせえ」
大抵いつも何かやった後は「ご苦労様」とか一言くれるが、ここまでしみじみと改めて感謝の言が出るとは……やはり演技をしながら、仕事として睦言を紡ぎながらセックスをするのはいくら入間さんでも心身ともに疲れるらしい。戻りがてら更衣室のロッカーから持ってきた消臭スプレーを部屋に吹いて周りながらいつもの仕返しに揶揄してみると、苛立ちと疲労だけで構成された深く大きい溜息と悪態が返ってきた。
粗方情報をメモし切ったのかシャツのボタンを留めながら入間さんは「こっちだって趣味でもねえ女相手に毎回無理矢理勃たせんの大変なんだよクソが」とかなんとか剣呑としてぼやいている。我が上司ながら実に最低だとある種感心しながらワックスと鏡を差し出す。
「じゃあ何考えて“頑張った”んですか?」
「」
「はい?」
「さん、あなたのことを想ってあの女を抱いていました。わたしがそう言ったらどうします? ……少しは状況と質問考えろクソボケ」
「そう言われたら、とりあえず吐きます」
「ぶっ殺すぞ」
入間さんは、にっこりと微笑んだり眉間に皺を寄せてウサギの1匹くらい殺せそうな剣幕で睨んできたり、差し出した私の手を撫でたかと思えば叩き落とす勢いで引ったくったり……様子の変化が忙しい。相当イラついているんだろう。ヤニ切れもあるのかもしれないが、ついさっきまであんな甘々と囁きながらちゅっちゅちゅっちゅしていた男と同一人物とは思えない。まるきりヤクザの柄の悪さだ。あのサマトキサマと良い勝負じゃないか?
私の折り畳みの卓上鏡を覗いて髪を整えている入間さんを眺めながら、とりあえず話を戻した。
「それで、肝心の情報はどうだったんですか?」
「ああ、この間の売り子に吐かせた情報のウラが取れた。他はほとんどゴミみてえな内容だったが、情報は出揃ったと言って良い。フフ、彼女からはもう得られるものも無さそうですし……これで心置きなくしょっ引けますねえ」
ハッハハハ……立ち上がりジャケットを羽織る入間さんの、実に晴れやかな高笑いが狭苦しい取調室に響く。声色に隠し切れない意地の悪さが滲み出てはいるが、珍しい笑い方だ。……あの情報源はかなり我儘だったし、この数ヶ月の間従順に理想の愛人くんを演じるのはいくら猫被りのプロの入間さんでも本当にストレスが溜まっていたのだろう。おいたわしや。
「あー、入間さん。出る前にすみません、首元……襟に口紅とファンデついてます」
「あ? ……あの女……」
彼女、次に会う時は間違いなく格子の向こう側だろうな。そう思わせる入間さんの低い声と盛大な舌打ちを聞きながらワックスと鏡を化粧ポーチにしまい、代わりに小さい袋、試供品やビジホで貰ったクレンジングオイルとコットンを取り出した。修羅場とかで署内や車内に泊まる際に使えるからととりあえず貰っては突っ込んでいるものだ。
もうすっかり夜中で昼ほどの人数ではないとはいえ夜勤の職員は居る。仮に運良く目撃されずとも、放っておいて汚れが落ちなくなれば困るだろう。しかし、入間さんは面倒臭いとでも言うようにあからさまに顔を歪めた。まあ、情事後の気怠い中しっかりと身に付けたネクタイやカラーピン、手袋をまた外しシャツを脱ぐことを考えたら無理もないか。
仕方がない。私も何度目になるかわからない溜息を吐いて、コットンの封を破った。
「屈んでください、とりあえず応急処置します」
「……助かる」
タブレットを小脇に抱えて、入間さんが腰を折る。普段、背が高いのだから仕方がないでしょうとばかりに上から目線を寄越すご尊顔がすぐ横にあることの違和感がすごい。失礼します、と首元にそっと手を伸ばした。
「どうした」
「……いえ、自分の趣味じゃない色だなあと思っただけですよ」
「そもそも化粧っ気ねえだろお前は」
「ナチュラルメイクなんですが? それでは、入間巡査部長の好みとして市民の皆様が引くほどのケバケバのモリモリにしてきますね」
「クビにするぞ」
場所が場所なので、私の手が入間さんの首筋に触れてしまったのだけれど……そこが、やたらと熱く、ベタついて感じた。ただそれだけだ。いや、そりゃあ、さっきまでハードな運動をしていたんだ、汗くらいかくに決まっている。ううん、なんというか、この人もやっぱり人間なんだなあ、なんて思ったというか。変な動揺をしてしまったことに動揺しそうで内心首を傾げる。別に私だって恋人はいたし、セックスに縁が無かったわけじゃないんだが……?
誤魔化すように薄闇でもわかる薔薇のような赤をコットンで叩いていると、しばらく思案するように目を閉じていた入間さんが、その瞼と口を開いた。すっかり普段の平静な声色に戻っている。
「デスクに戻ったら今までの情報纏めて、すぐ動く。、悪いがお前にやってもらうことはまだまだ沢山ある」
「りょーかいです。クズどもをしょっぴくための“真っ当”なお仕事なら、大歓迎です」
「嬉しいでしょう? また私と“熱い夜”を過ごせるんですから」
なーに言ってんだこの人。そっと横目で伺えば、眼鏡のつるを挟んで入間さんと目が合う。口角は、いつもの調子で嫌らしく釣り上がっていた。
「……入間さん。そういう冗談は他の女の香水をべったりつけて言うもんじゃないです」
蜂蜜のような重たく甘ったるい匂いのこびりついた入間さんに、私は仕上げとばかりに消臭スプレーを思い切り吹きつけてあげた。
(230302)
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