現場から近い公園のベンチで、ただ暗いだけでなんにもない海を眺めていた。張り込み待機中の私の頬を、ぬるい潮風がひと撫でして通り過ぎていく。やけにベタついて鬱陶しく感じるのは、夜通し仕事をこなし、疲れ切っているからだろうか。夜明け前が最も昏い、なんてフレーズを聞いたことがあるけれど、あれは事実としてではなく心境的な意味だと沁み入ってくるくさくさした気分だった。
「どうした、体調でも優れないのか?」
つむじに声が降ってきた。麻薬の大口取引摘発作戦の最中だが、まだ事態が動くまではかかりそうだと煙草を買いに行っていた入間さんが戻ってきたようだ。腰を落ち着けたまま振り向くと、缶コーヒーにプリントされたおじさんと目が合う。丁度私の目の高さで、入間さん愛用の赤い手袋が早くしろとばかりに揺れるから、とりあえず頭を下げて受け取った。
入間巡査部長は、私の直の上司だ。こんなふうに飲み物やパンをご馳走になることくらいなら、今日のような長時間の張り込みなどでしばしばある。ただ、いつもの私と入間さんのビジネスライクな距離感では、先ほどのように私の様子を伺うような、心配するような声掛けというはあまり記憶に無かった。
「……私、今日なにかミスとかしてました?」
「いえ。"今の所"、いつも通り完璧ですよ。貴方のような人が私の部下で、いつも助かっています」
このシームレスに着脱する猫の被り物は、もはや入間さんの制服の一部と言ってもいいと思う。いつもの慇懃無礼な言葉を聞き流しながら、今日この作戦のために行った各所への緊急の書類や要請、かき集めた人員の配置に関する指示連絡、口外できない"入間さんの直の部下特有のお仕事"……やったことを思い返していると、だらりと背を預ける私のすぐ横の縁に、入間さんが背後から寄りかかるように腰掛けた。背が高いから当然なんだろうけれど、嫌味なほど足も長い。
「ただ……いつものお前の働きぶりからすると、いくらか精彩を欠いていたのは確かだ。よければ、お話聞きましょうか」
火をつける音の後、肺いっぱいに吸い込むような長い吸引。続けて、細く長く吐き出された紫煙が潮風に舞う。ひと気の無い夜中だからといって公園でスパスパ煙草を吸っていいんだろうかとチラッと懸念したが、まあ入間さんだからなとすぐに頭の隅においやった。
思えば、急に取引日時が変更されるという報を受けてそこから夜中に出勤して署内会議室に籠り、日が登って落ちて今に至るまでずっと作戦準備にかかりっきりだった。夕食を掻き込んで以降は特に署内の喫煙所に向かう暇なんて無かったから、待機で小休止を取れる今ようやく煙草を口にしたのだろう。まったく、私の違法薬物関係へ向ける思いも相当だと自負しているけれど、入間さんの執着に近い熱意と集中力には負ける。普段の悪徳刑事ムーブも霞みそうな……いや、やっぱりそれは無いな。
「あー……くだらないことです。大事な作戦前に、お忙しい上司のお耳に入れるようなことじゃないですよ」
「話を振ったのは私です。どうせ取引までもうしばらく待機ですから、構いませんよ」
すぱー……煙草を味わう気持ち良さそうな音に顔を上げて見れば、実ににこやか。なるほどつまり、いいから話せと。入間巡査部長サマは暇潰しをご所望ということらしい。
仕事にはいつも通り集中していたつもりだったのだが……あの入間さんが体調について聞いてくるほど、私の傷心は表に出ていたのだろうか。まあ、入間さんからしたら心配というよりは十中八九「そんな調子で土壇場でミスするんじゃねえぞ」という釘刺しだと思うが。
しかし幸い、自分がそうなっている原因についての心当たりはしっかりある。ただ、完全にわたくし事、それも他人からしたらどうでもよい馬鹿馬鹿しい内容なので、私達が心血を注ぐ違法薬物案件を目前に話すことには少し気が引けてしまう。どうしたものかと改めて入間さんの顔色を伺ってみるが、静かに煙草の先を赤く灯らせながら私に向けた目を細めるだけだ。だめだ、辺りが暗すぎて煙草の火程度ではその目の色までは分からない。
まあ、このままぼんやり取引が始まるまで待っていても眠くなるだけだろう。それに、入間さんの探りを交わしてまで隠すほどのものでもない。私は海へ向き直り、頂いた缶コーヒーのプルタブを起こした。
「昨晩、いや、日付的にはもう一昨日ですが……恋人に振られまして」
「おや、それはそれは」
入間さんの野次馬的な相槌を耳に、微糖のコーヒーで唇を湿らせてからわざとらしくため息を吐いてみせた。
「よくある話ですよ、“仕事と俺のどっちが大切なんだ”ってやつです」
「貴方が聞かれる側なんですか」
「そりゃあそうですよ。昨日今日だって、言ってしまえば急な土日出勤ですからね」
「もしや、デートのご予定でも?」
「埋め合わせ……の、埋め合わせの、埋め合わせですね」
入間さんの笑いを含んだ煙と一緒に、私はまた気怠い溜め息を吐き捨てる。とは言え、私に恋人を糾弾したり女々しいなどと嘲笑うつもりは無い。むしろ、あのフレーズをぶつけられても仕方がないとさえ覚悟していたくらいだ。一昨日の夜ヤクの取引日程が変更になった情報が入ってきた瞬間に、脳裏に恋人の怒りと失望の表情が思い浮かんだ程度には。
「それで、なんて答えたんだ?」
「両方、と。まあ、納得はしていただけませんでしたが」
「だろうな。別れているということは」
「彼は良い人でしたし、もちろん私なりに大切にしていたんですよ。でも、私は私なりにこの仕事にも譲れないものと誇りを持って勤めているつもりなんですよねえ……」
「誇りか」
「ええ、まあ……例え“入間巡査部長サマ直々の特別なお仕事”が時々あったとしても」
「清濁併せてしっかり完璧に処理してくださる忠実で優秀な部下がいて、私は幸せ者ですねぇ。それで、彼のお返事は?」
「“君は仕事を辞めて専業主婦になってもいいんだよ”、だそうで。はっはっはー、彼にも私の仕事へ掛けているものはちゃんと伝わっていると思っていたんですけどねぇ……しかも最終的に、っあー……」
「最終的に?」
「……」
しまった、口が滑った。つらつらと何も考えずに話していたせいで、間違っても入間さんには知られたくないところまでスルッとはみ出てしまった。ダメ元で缶コーヒーを口元に運び誤魔化そうと試みてはみたが、まあ案の定ダメだった。斜め上から「中途半端に口にされりゃ気になるだろうが」と言わんばかりの視線がこめかみにざくざくと突き刺さってくる。あとわざとらしく副流煙も降ってくる。
味気ないコーヒーと、煙を含んだ生ぬるい潮風の最悪のマリアージュを味わってから、私は観念して口を開いた。
「"分かったよ、やっぱり俺よりあの上司が良いんだな"……通話の最後に聞いた言葉です」
「上司……私ですか?」
「彼の中で、私は浮気者らしいですよ。私が週末のデートを何度もドタキャンしている真相は、熱い夜をイケメン上司と過ごしているからなんだそうで」
「おやおや、なるほど。私ですね」
「いやはや、確かに夜勤で過ごすことは少なくないですが……入間さんとそう見られるなんてまったく怖気が走りますよね」
「それはこっちのセリフだボケ」
「あいたっ」
私の横頭が、入間さんの長い腕の肘で小突かれてしまった。溢れそうになるコーヒーを慌てて抑える。セーフ。
“仕事か俺か”とはあくまで言葉の表面で、彼の中では“入間巡査部長が好きなのか彼氏が好きなのか”と私に問う最後の一線だったのだと気がついたのは、彼に捨て台詞を吐かれ通話が切れたあとだった。こちらはアウトだ。
その言葉が出るまでに「深夜に上司と2人きりでいることについて、頼むから言い訳をしてくれ」なんて懇願もされたが、そんなの私からすると「仕事だから」以外は毛頭なかったため、彼にもはっきりすっぱり後ろめたいことなど何も無くそう答えた。しかし実際には、仕事のスケジュールで怒らせたと思っていた私と、入間さんとの仲を疑っていた彼とで見事に質問内容がすれ違っていたというわけだ。
結局「それなら何をしているのかちゃんと詳しく教えてくれ」とさらに食い下がられてしまい、私は守秘義務だのなんだので口にするわけにもいかない、彼だって勤め人なのだからそれくらいわかるだろうに、と困惑するばかりだった。私が守秘義務に触れないようにしどろもどろと言葉を選び仕事の説明をする姿は、彼には見当違いの怪しい言い訳をする容疑者に見えたことだろう。
挙げ句の果てに「女なのに中王区勤務に栄転しないのもあの男のことが好きで、そばにいるためだろう」とまで罵られてしまった。誠に遺憾である。私から入間さんへ恋慕の情は一切合切無いというのに。とんでもない暴言だ。しかし、理由こそ割愛するが“入間さんのそばで働くため”というのは実のところあながち間違いでは無い。それで一瞬言葉に詰まってしまったのも悪かった。彼の目には図星を突かれて言い淀む犯人のように映ってしまったことだろう。ああ、本当に、思い返せば返すほど私の対応も察しも何もかもが悪かったと思う。
私と恋人だけの話のはずなのに、私からしたら全く無関係の上司を突然話にあげられて頭の中を疑問符で満たして困惑しっぱなしだったが……仮に彼の言いたいことを正確に理解できていたとしても、あそこまで彼の中で物語が出来上がっていては、もはやどうしようも無かっただろうという諦めもある。潮時、というやつだったのだ、きっと。
「しかしまあ、災難だったな」
「全くですよ」
「恨むなら今日を取引に決めたやつを恨むんだな」
「ええ、やはり違法ドラッグは撲滅しなくては。許してはおけない」
「その意気だ」
私の失恋話は暇潰しとして大変お気に召したらしい。入間さんは満足げに笑っている。私も片棒を担いでいるとはいえ、この恐喝隠滅ヤクザの釈放なんでもござれの悪徳上司と浮気だなんて……恋人とのやり取りをじっくり思い返しているうちに、だんだんと腹が立ってきた。真面目に一途にお付き合いはお付き合い、お仕事はお仕事をしていたはずなのに疑われるの、アホらしすぎる。
いたずらにプルタブを起こしたり倒したりしていると、胸ポケットにひっかけたトランシーバーからノイズ混じりの報告が流れ出した。待ち望んでいた連絡……ブツの現地到着と、取引の開始だ。入間さんは吸いかけの煙草を携帯灰皿に突っ込み、私は缶コーヒーの残りを一気に煽りながらパトカーへ乗り込んだ。
エンジンを掛けていると、助手席の入間さんが懐へ煙草をしまいながら嘯いた。
「私と貴方との熱い夜……さて、恋人のその言葉を真実にしてしまいましょうか」
「うーわ、リップサービスの相手間違えてますよ……ああいや、ある意味真実になるのか……ではよろしくお願いします、入間さん」
「ああ、任せろ」
イケメンという言葉についぞ謙遜を見せなかった上司が目をぎらつかせながらヒプノシスマイクを懐から取り出すのを横目に……私は入間さんとの熱い取引現場を目指してパトカーのアクセルを思い切り踏み込んだ。
***
結果は上々だった。あちらも対策や用心棒など様々な抵抗を見せたが、こちらには大した被害も無く、逆に取引現場に雁首揃えたクズどもは1人として取りこぼすことなくしょっぴくことができた。抑えたブツは危険視していた通り末端価格で数億数十億は下らない。ああ、これでどれだけの被害が未然に防げるか! ここ最近ではかなり大きな案件だったが、きっちり成果を出して終われて本当に良かった。まさに熱い……激アツな夜だった。これでこそ、私も恋人と別れてまで打ち込んだ甲斐があったというものだ。
興奮冷めやらぬ中トランシーバーで協力チームと連携をとりつつパトカーのエンジンをかけて待っていると、この大捕物劇の立役者である入間巡査部長が戻ってきた。どっかりと背もたれに身体を投げ出すように座り込むや否や、大きな溜め息を吐く。
今日の入間さんのラップも、鬼気迫るものがあった。一言一句的確に鋭く放たれ相手の動きを奪っていくリリックには、毎度毎度素直に感心してしまう。とはいえ、ヒプノシスマイクは使用者も消耗する。あれだけの人数相手の掃討作戦を終えて更に現場で出す必要のある指示も一通り出してきて、流石の入間さんでも疲れが滲んで見えた。
「こちら、入間巡査部長と共にこれより署へ戻ります、どうぞ。……入間さん、お疲れ様です」
「ああ。……戻るぞ」
「了解です」
戦闘直後は気が昂るのだろう。入間さんの話し方はいつもより低く、気持ち荒っぽくなりがちだ。
車を走らせてすぐ、作戦前に待機していた公園の辺りまで来ると、車窓から見える水平線はもうすっかり白んでいた。入間さんや仲間たちと激アツな夜を過ごしているうちに明け方すらすっ飛ばしてしまったようだ。
さんさんと目に刺す朝日をなんとかしようとサンバイザーの調整に苦戦していると、ずっと沈黙していた入間さんが不意に口を開いた。
「おい。俺はどちらを取る人間に見える」
「はい……?」
前触れのない問いに疑問符で返してしまった。一瞬だけ入間さんへとよそ見をしたが、ドアに引っ掛けるように頬杖をついて外を眺めているだけで、詳しく教えてくれるつもりはないらしかった。
そのまましばらく車を走らせていると、大きな通りに差し掛かった頃に運悪く赤信号に引っかかってしまった。
「……もしかして、仕事か恋人かの話ですか?」
「ああ。お前は、俺がどう答えると思う」
入間さんが煙草を咥えたので、窓をそれぞれ少しずつ開ける。肺中の空気を入れ替えるような深い深い呼吸。どう見ても考えても不健康にしか思えないが、それを繰り返す度にどこかぼうっとしていた入間さんの目と顔にいつもの鋭さが戻っていく。ヤニ切れと……あとは、大きな作戦から解放されて、入間さんにも少し眠気が訪れていたのかもしれない。まあ何せ、私たちはほぼ二徹だ。
「入間さんがどう答えるかは分かりませんけど」
私は煙草をやらないので、意識を保つためにとりあえず口を動かすことにした。
「……“入間巡査部長”は、例え恋人の命が掛かっていようとも、違法薬物の撲滅が叶うならば迷わず見殺しにするくらいの人物であって欲しいですけどね、私は」
「随分物騒だな。その天秤に乗っている恋人が、お前自身だとしてもか」
「その前提がまずありえないですけど、それなら尚更でしょう。もし今後私が人質になりでもしたら、私のこめかみに銃を突き立てられていようが首にナイフを当てられていようが、無視して踏み込んで欲しいです。というかむしろ、“入間巡査部長”にはそのマイクで私ごとぶっ飛ばすくらいしてもらわないと困ります」
ガムとか置いてなかったか、前を見ながら手だけでドアポケットやらコンソール周りやらをまさぐっていると、「ハッ」と威勢の良い吐息が車内に響いた。
「なるほど。お前と熱い夜を過ごせる相手は俺だけだろうな」
嘲るようなそれについ目を向けると、入間さんは肩を震わせていた。「ほら青ですよ」とやはり震える声に正面へと向き直れば、丁度前の車のブレーキランプが消灯したところだった。隣からは依然くつくつと笑いながら煙草を味わう音が聞こえる。
「はあ、そうですか」
「ええ、きっとそうです」
敬語が混じる程度に落ち着いては来たのだろうが……いったい、何がそんなに面白いのやら。私はアクセルを踏み込んだ。そういえば、このあとクズどもの人数分大量の事後処理を片付けて、さらに家に帰ってからも元カレの物を片付けなければならないのか。まあ帰るのは明日明後日になると思うが……その間まだまだこの上司と一緒にいることになるのか。
あー…………眠い。
(230202)
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