外国のケーキを彷彿とさせる、色やトッピングが盛り沢山でその見た目通り甘くて飲みごたえ抜群のフラペチーノ。中王区限定だというそれをちびちびと啜るストローに、いよいよ行儀の悪い空気音が混じり始めた。
H歴のこのご時世、政治の中心たる中王区に男性が立ち入ることは原則許可制である。加えて、ほとんどの場合において彼らが車で乗り込むことは禁止されている。なんともディストピアめいた環境だ。そして、そのせいで私は上司から当然のように足としてのご指名を受け、今、広々とした料亭の駐車場でただただ待機をする羽目になっているのである。
この手間賃として要求するにしては、コーヒーショップの中王区限定フレーバーのトッピング・ホイップ・ソース全マシマシ程度では安すぎたかもしれない。そもそも、別に私はそこまで甘いものが大好きというほどでもない。美味しいは美味しいのだが、口直しにコーヒーが欲しいという本末転倒な気持ちと、“勿体無いことをした”という考えが頭を漂っていた。
なにせ、今日は敬愛する上司、入間巡査部長にとって門出のきっかけとなるやもしれないのだから。
交渉次第ではもっと大きな貸しにできたかもしれない。少なくとも、ごねれば私も別室で料亭のランチくらいごちそうになれただろうに。後悔の溜息を溢し、未練がましく口を付けていた残骸を運転席のドリンクホルダーに差す。
乗り慣れた覆面パトカーの運転席に背を預けて、目を瞑る。激務も嫌だが、こう暇すぎるというのも考えものだ。事件なら待機にも緊張を保てるが、仕事でもなんでもない。普段お目にかかることの無い荘厳な庭園を狭い窓から眺めるのも、すっかり飽きてしまった。
しかし眠りにつくほどの間もなく、窓を叩く音に起こされる。
「入間さん、あー……お疲れ様です」
「ああ、本当にな」
どっかりと助手席に座り込むと同時に、入間さんの口からは疲労感たっぷりのため息が盛大に飛び出した。
私は眠さに細めた目をにやりと形を変え、揶揄いと日頃の仕返しを隠さず問いかけた。
「それで、どうでした? “お見合い”の具合は」
返事代わりに隣で鳴る舌打ちに肩をすくめ、エンジンを起動した。入間さんの指は、ドア側の肘掛けを忙しなく叩き始めている。……さて、中王区を出て一番近い喫煙所はどこだったか。アクセルを踏みながら、自分は吸わないくせにすっかり覚えてしまった脳内地図を検索した。
「……どうもこうも無え。どうせ断る話だからな」
「えっ、お話、受けないんですか」
料亭を後にして少ししたところでぼそりと返ってきた答えに、私はつい皮肉を忘れ素直に驚いてしまった。
なぜなら、今回入間さんに持ち込まれたお話は、普通に考えても、入間さんと私の目的からしても、かなり良い内容に思えたからだ。
どういう経緯かは謎だが今回入間さんに声を掛けてきた家というのは、日本でも有数の政治家一族であった。H歴以前から力があり、現在では時代に合わせていち早く女性当主を立て上手く世を渡っているような強かさも持ち合わせている。そちらの来年20歳になるご令嬢との縁談話……立派な家柄は違法薬物問題根絶のための大きなカードになるだろうし、お相手もそれだけ歳若いとなれば悪党相手に海千山千のこの人が籠絡し御すことなど容易いだろうし……てっきり乗るものとばかり思っていた。
「馬鹿か?」
横から、ただただ気怠そうな溜め息が聞こえた。中王区入りした昼前から何時間もずっと煙草が吸えなかったのがよほど堪えているのか、その状態でお偉いさんやらお相手を前に猫を被り続けたことに疲弊したのか……まあ、両方か。せめて窓をわずかに開け、横目で盗み見る。入間さんはその顔に風を受け、いつもより硬めにセットされた前髪がわずかに揺れる下で、眼鏡の奥の切れ長の目をそっと細めた。
「私に許嫁なんてできてしまったら、ヨコハマ中の女性がヤクに手を出してしまうでしょう?」
「そんな……入間さん、大丈夫ですか? ヤニ切れで頭があいたっ! ちょっと、運転中はやめてください!」
「そうですね、“運転中は”やめてあげましょうか。……さて、喫煙所に着くのが楽しみですねえ」
「すみません根性焼きは勘弁してください」
「ご心配なく、私こう見えても上手ですよ」
そうこうしているうちに、下界へのゲートが見えてきた。ドアポケットに入れておいた入館証を手探りで取り出す。
根性焼きの上手い下手って何で決まるんだろうか。焦げ跡がくっきりとよくつくこと? それとも逆に跡が綺麗に消えるようにつけられること? ……いや、やめよう。別に知りたくはない。
***
色気無くただ黒いだけの缶コーヒーの残りを煽り、ドリンクホルダーに突っ込んだ。煙草を吸う間これでも飲んでろと渡されたこれは大した香りも味わいなくただのうっすらと苦い水でしかなかったが、おかげで糖分に侵された口の中をさっぱり洗い流すことができた。
「本当に断るんですか? お見合い」
「何か問題でも?」
ヤニ補給を終えて気分も落ち着いたのか、どっかりと助手席に腰を下ろした入間さんが笑う。
「問題と言いますか、入間さんの立場とか、話を持ってきたお偉いさんのメンツとか……このお話のメリットとか」
「馬鹿か」
煙の臭いが残るため息が緩々と吐き出される。アクセルを踏めば少し広めに開けた窓が、入間さんの額を撫で前髪を上げさせた。目が乾燥するのか、ピントの問題か、目を顰めそっと眼鏡のブリッジを抑えるのが横目に見えた。
「そんなもんは、どうにでもなる話だろうが」
「そりゃあ入間さんならどうにでもできるかもしれませんが、」
「相手はお綺麗な言葉、お綺麗な世界しか知らねえガキだぞ」
──巻きこめるわけねえだろうが。食い下がる私を遮った言葉の最後は、ほとんど風の音に紛れ掻き消えていた。
なるほどもしお相手が家柄を傘にきた傲慢ちきな女であったり“悪い遊び”に明け暮れているようなお嬢様であれば、きっと入間さんは大喜びで、容赦なく甘言を弄し使い倒そうとしたに違いない。しかしどうやら実際のお相手は、家族の庇護のもと愛され真っ当に大事に育てられた箱入り娘であったらしい。成人したとはいえそんな無垢なお嬢様に、万一の時、泥を被らせるのは……余りに酷というものだ。
入間巡査部長は、目的の為ならばリスクを取れる人だ。例えそれが法に背く悪行だとしても。私はその選択ができるこの人に従っているのだ。
しかし、だからと言ってこの人は、人間が持ちあわせているべき善良さと、警察官としての気質の全てを捨てさってなどはいない。時折、善良な相手には礼儀を持って接し、守るべき市民や子供に手を出すことは決してないと揶揄するかのように笑いながら嘯くが……そういう人だとも、私は認識しているつもりだった。
「……入間さんの、そういう所は素直に尊敬できると思ってますよ」
「どうだかな」
赤信号に引っかかる。助手席に顔を向ければ、入間さんはつまらなさそうにネクタイの結び目に触れ、それから懐に手をやるところだった。
「まあ、入間さんとのうんざりするほど熱い夜に付いていけるのは私くらいなもんでしょうからね……って返しとけばいいですか?」
「ええ、きっとそうでしょうね」
ハッ、と勢いのある嘲笑を風に乗せ、入間さんは煙草を咥えた。
(20240328)
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