「お疲れ様です。さん」
 丁度仕事が落ち着いたタイミングで、猫撫で声が私の背中を撫でた。ディスプレイから顔を上げ振り返れば、微笑みを讃えた上司……入間さんが佇んでいた。
「あなた、今、欲しいものとかありませんか?」
 ……あまりに不穏すぎる。今までどれほど地獄のような案件に付き合わされた時でも、ここまで露骨なご機嫌取りをされたことは無かった。
「あー……もしかして死体処いった!」
「そんなもの素人に頼むわけねえだろうが。……これから2時間程度、貴方には茶番に付き合っていただきます」
「は、はぁ……」
 決定事項なのか、仕事中なのに茶番とは、などぼやいてみるが、返ってきたのは愛車の鍵を手にした上司の一笑だけだった。

 ***

 入間銃兎さん。そのお名前を舌で転がすだけで、私は胸の内からしびれるような甘さがじんわりと広がって、素敵な気分に包まれるようでした。
 初めてお姿を拝見したのは、家のお付き合いのためにと母に連れられて観戦したDRB決勝戦。男性の争い合いだなんて、怖くて興味はありませんでした。
 ですが、そこにマイクを構え勇壮に闘う銃兎さんがいたのです。あの意志の強い目付きに鋭いお言葉……気が付けば呼吸も忘れ、モニターに釘付けになっておりました。
 それからの私は、まるで熱に浮かされたようでした。何をしていても、ふとあの時の銃兎さんを思い返しては胸が高鳴ってしまうのです。
 お見合いのお話をいただいたのは、ようやく落ち着いてきた頃でした。しかし母から渡されたお写真を見て、名前を見て、私は天地がひっくり返ったような気持ちになりました。見間違いようもない、眼鏡をかけた端正なお顔立ち……まさか、私のお見合いのお相手が入間銃兎さんだなんて! 私は思いました。運命というものがあるのだとしたら、きっとこのことだろうと。
 そうしてお会いした銃兎さんは、夢見ていた通り、いえそれ以上にまるで本から出てきた王子様かのように理想の通りの素敵な方でした。警察官らしく紳士的で優しくて、とても品性高潔な方! 歳が少し離れていることを父は気にしておりましたが、そんなことが気にならないほどに私は銃兎さんに惹かれてしまいました。お会いしてからというもの、私は足に羽根が生えてしまったかのように一層ふわふわと浮ついてしまって、お返事はいつ来るのか、次にお会いするときにはどんな服を着ていこう、どんな話をしよう……嬉しくって、楽しくって、なかなか寝付けなくても甘く幸せな日々でした。
 今朝、お返事、いただきました。内容は、お断り、とのことでしたね。
 それから……母と使用人の静止も、まるで耳に入らず、私は気付いたらお家を、中王区を飛び出しておりました。

***

 私のような小市民では今まで触れる機会のない高級なティーカップを、傷ひとつつけることのないよう慎重にソーサーに置く。恐らくこの赤い液体も私がこれまでも、そしてこれからも口にすることは叶わないような茶葉なのだろう。残念ながらこの甘ったるい空気の前では、味も匂いもまるで感じられなかった。
「……ええと、それでこの悪徳け、いや王子様にお会いするために……中王区からはるばるとこんな薄汚い街、あーヨコハマまで……?」
 入間さんに半ば引き摺られるようにして辿り着いたのはヨコハマでも有数の超が10個つくハイパーウルトラロイヤルホテル、さらにその地上数十階のミナトミライが誇る夜景を一望できると評判のラウンジだった。そして、ここでアフタヌーンティーと共に私たちを、いや、入間さんを待っていたのは……先日のお見合い相手のお嬢様その人だった。
「ええ。どうしても銃兎さんにお会いしたくて……その、お恥ずかしながら、タクシーで参りました」
 馴れ初めというべきか家出の理由というべきか、一通り話し終えた彼女の口から、ほう、と春のそよ風のような溜め息が溢れ落ちる。
 それから、電車の乗り方がわからなくて、と陶磁ような頬を薄桃色に染めて恥じらう対面の女性は、月並みな言葉を借りればまるでお人形のような佇まいだった。近く成人すると聞いてはいたが、纏う雰囲気にはまるで清い少女のようなあどけなさすら残っている。
 しかし昔泊まったことがあり唯一ヨコハマで知っている場所だからとはいえ、選ばれたホテルの支配人は驚いたことだろう。突然タクシーでやんごとなき家のご令嬢が現れ、ヨコハマ署へ連絡して欲しいとお願いをされたのだから。
 入間さんが有無も言わさずとばかりに急いていた理由も分かる。これでお嬢様の身に何かあれば、最悪たぶらかした男の責任問題だ。そりゃあ赤信号の度にイライラゲージも溜まり舌打ちも飛び出すだろう。ここに来るまで非常に気まずかった。明らかに蚊帳の外なのに入間さんの隣に座らされている今も、かなりの気まずさだが。
 当の本人はというと、私の隣でまるで自宅かのように涼しい顔で紅茶に舌鼓を打っていた。今し方、鈴を鳴らすような声で熱くまっすぐに愛を語られていた相手とは思えない。無関係の私の方が照れていたんじゃないかと思うほどだ。相変わらず、すごいなこの人。
 閑話休題。改めて彼女を眺めてみればなるほど、まさに絵に描いたような、むしろ今時フィクションにも出てこなさそうな生粋のお嬢様だ。先日の送迎時に聞いて想像していた以上だ。
 ここまでの相手では、いくら入間さんでも遊びで手を出したり道具として利用したりを躊躇うのも無理もない。そもそも、ここまで浮世離れしていてはまともに利用が出来るかどうかも、怪しい。結局本当にお断りを入れたということは、利益やら労力やら価値観やら入間さんの中で色々と計画の収支が合わなかった、ということなのだろう。
「……私、銃兎さんから直接理由をお伺いするまで帰れません!」
 前のめりに再び口を開いた彼女は、黒曜石のようなとあえてベタに表現したくなるくりくりと可愛らしい目に、きらきらとした決意を光らせていた。
 いったいこれは、どうしたことだろうか。温室育ちのお嬢様からすればラップバトルなんて、ジャングルのおどろおどろしい食虫植物たちによる蔦や棘のぶつけ合いだとか、荒地の飢えたハイエナたちによる血で血を洗う牙の刺し合いにしか見えなかっただろうに。いやむしろ、それが彼女の目には物珍しく鮮烈に映ったのか。その印象から打って変わって、きっとハニトラする時よりも気を遣って物腰柔らかく蝶よ花よと扱われてしまったら……この一応見た目は整った男に夢を見てしまうのも仕方がない、のだろうか?
 私としては、この王子様のおどろおどろしいキレ顔アンド暴言も、手袋や顔が泥や返り血で彩られた姿も、悪党から先輩まで必要とあらばイキイキと恫喝する様も、反社会的自営業からの収賄現場も……とにかく清濁の主に濁部分を浴びるほど御相伴に預かっているので、判断がつかない。いや、これでも尊敬はしているのだ、色々と、そこそこは……たぶん。
 それにしても、まったく罪な人だ。こんな純真無垢なご令嬢に箱から飛び出すほどにガチ恋させて、一体どう始末をつけるつもりなのか。入間さんをじとりと横目で見上げる。
 ばちり。タイミング悪く、目が合ってしまった。
 いや、違う。
 これはわざとだ。
 眼鏡の隙間から覗く緑の瞳が、逃がれることは許さないとばかりに私の視線を絡め取り……そっと笑むように目が細められる。
「あの場では申し上げられませんでしたが、実は──」
 ぞ、と背筋に怖気が走る。しかし私が仰け反るよりも早く赤い指が私の肩に食い込んだ。鈍い痛みと共に、視界が一瞬薄暗い灰に変わる。
「──私には、将来を誓い合った相手がいるんです」
「っそんな……!」
 可憐で痛ましい悲鳴が耳を突く。押し付けられた胸元から目を剥いて見上げる。声のトーンを落とすだけでなく、その顔は眉を下げ困ったようにはにかみ……これ見よがしに申し訳なさそうな様を作っていた。
 は? 将来を誓い合った? 何の話? ……まさか私との話じゃないだろうな!?
「お互いの人生をかけて、同じ未来を夢見ている大事な女性です」
 違法薬物撲滅に関して確かに一蓮托生を誓っているけれど……いや今の文脈! 意味がまるで変わってくるだろう! くそ、この感じ、覚えがある。いつだったか入間さんが私のスマホをマイク代わりに元カレと私同時に精神ダメージを負わせた時のことが、バーッと勢いよく脳裏を過ぎる。
 こ、こ、この悪魔……また私の名誉を生贄に捧げて“嘘はついてないけれど適当な言葉”でこの場を納めるつもりだ……! くそ、やけに太っ腹な報酬提案の裏はこういうことか、畜生め。こんなの、中王区限定のフラペチーノ程度では絶対に許されない!
「おふたりは、その、お付き合いは長いのですか」
「そうですね……1、2年ほどです。ですが、ほとんど毎日顔を合わせて、機会があれば片時も離れず過ごしています。……ですよね?」
 私が急展開に目を白黒させ胸中を不安にざわめかせ長い指が突き刺さる二の腕の痛みに耐えている間も、お嬢様から入間さんへのやけに神妙な逆取り調べが進んでいく。
「……はい……常日頃連絡を取り合っている仲デス……」
 同じ職場ですから、ええ、そりゃもうほぼ毎日顔くらいは高確率で見るし、入間さんが案件を持ってくれば昼夜問わず過ごしますよ。上司を部下ですから、ええ、そりゃもう常日頃細かく報連相だってしていますよ!
 なんだこの茶番劇は。急に上司の恋人役を、それも潜入捜査でもなんでもなくただ上司のお見合い相手を煙に撒くためにやらされるなんて……もはや私へのドッキリだったりしないだろうか? そんな淡い期待にカメラを探すが、代わりに向けられるのは冷たく光る眼鏡のレンズだけだった。
「ええ、はい。彼女は私のために人生を捧げてくれた信頼できるパートナーですから」
 質問は聞き逃したが、たいしたことではないだろう。“部下として”という副音声がハッキリクッキリ聞こえてくる針小棒大な煽て文句を、よくもまあこんないけしゃあしゃあと吐けるものだ。しかもその愛する女性の脛を先が尖った形の良い革靴で小突きながら!
「そう、なのですか?」
「はい、そうですネ……いつも可愛がっていただいてマス。あー……相思相愛デス」
 遠い目になりかけたところで、かちゃり、カップとソーサーの擦れる音がした。焦点を戻すと、紅茶を勢いよく飲み干した彼女が、険を込めた瞳で私と入間さんを交互に射抜いているところだった。
「……もしかして、私を騙しておとなしく帰らせようとしているのではないですか?」
(……どうするんですか、お嬢様意外と鋭いですよ!)
(てめえが大根だからだろうがクソボケ!)
(乗れるわけないじゃないですかこんなクソ茶番!)
 むしろ突然連れてこられてここまでボロを出さなかったことを褒めて欲しい。アイコンタクトという名の睨み合いをしていると、お嬢様は意を決してと言わんばかりに可愛らしく私たちを睨みつけて言葉を続けた。
「恋人なら、その……き、キスとかもするのでしょう? お二人の仲を見せていただければ……私も、好きな方の幸せを祈って身を引きますわ」
「ギ、ィッ!?」
「ええ、勿論、構いませんよ」
 変な悲鳴が出た。お嬢様の提案はもちろん、入間さんの親指が私の肩の肉を本当に突き破らんばかりに突きたてられたせいだ。
 箱入りで夢見がちなお嬢様であることは分かっていたけれど……キスだと? ここで? もちろんってなんだ? 勿論ノーだ! というか今この上司即答しなかったか!? いえ、勿論、滅茶苦茶構いますけれど!?
 言うが早いか、入間さんの手が混乱する私の頬を捕えていた。しかし間違っても恋人にするような優しくムードある仕草などではない。万力のように、がっしりと、鷲掴みである。
 入間さんの親指が私の唇に触れる。形を確かめるようになぞられ、最も膨れたところで、止まる。
 まさか、いや、それはないと信じているが、まさか、いや、本当にするつもりじゃないだろうな……!? 眼鏡の人とキスをしたことはないが、眼鏡は邪魔になるんだろうか。そういえばじゃない、違う、飲まれるな、するつもりは……。
 くすり。ぐるぐると混乱していると、密かな笑みが聞こえた気がした。 
 ちゅ。こちらの心の準備などお構いなしに、眼下でリップ音が小さく響いた。
「……え?」
「そのまま、」
 呆気に取られている間に、入間さんは角度を変えて、再度触れるだけの口付けを"そこ"に落とした。
 数度、お互いの前髪が触れ合った後、入間さんが顔を上げて、笑った。今まで何度も見た、作り笑顔と、猫撫で声。
「いかがでしょう、これでは足りませんか? ただ"これ以上"となると……貴方にご覧にいただくには少々刺激が強いかもしれませんよ」
 赤い舌が、ちろちろと見え隠れする。まるで蛇のようなその仕草に、絶滅危惧種の彼女はふっくらと柔らかな頬をいよいよ薔薇色に染め上げ、両手で口元を覆ってしまった。
「おやおや。……貴方も、そんな反応をしてどうするんです? 別に初めてでもないでしょう」
「……ひ……と、前で、したことなんて、無いです」
 ぽそり、指の間から、興奮を落ち着けるようなため息が聞こえた。
「やはり、初恋とは、実らないものなのですね……」

 ***

 平身低頭に謝罪や挨拶を繰り返す迎えの使用人とやけにスッキリした顔をした彼女を載せた高級車を見送った。
 私は入間さんの車に乗り込んで、つい吐き捨てるようなため息が出た。
「……紳士的で、品性高潔、です、か……」
「どうしました? 何か異論でも?」
 逆に、無いと思っているんだろうか? 粗野で品性下劣……とまでは流石に思わないが、間違ってもお嬢様の抱く見世物小屋の印象そのままで過ごせるような清廉潔白な王子様では、絶対無いだろうに。
 ただひとつ言わせてもらえば、私が認識している紳士というものは、人前で合意無く唇を奪う真似などしないだろう。
「してねえんだから良いだろうが。ああ、それとも……期待に添えず、申し訳ありませんでした」
「あー……絶句です。あのお嬢様のためにも、いつか絶対パワハラとセクハラで訴えてやりますからね……!」
 ひらひらとあしらうように揺れる手に、嫌でも目が吸い寄せられてしまう。慌てて顔ごと目を逸らせば、入間さんが喉で嗤う上機嫌な音が聞こえてくる。
 くそ、片手運転をやめろ、と悪態をつく代わりに負けじと睨みつけてやれば、入間さんはまるで意に介さずその親指を自身の口元に持っていった。
「どうぞお好きに、存分に訴えてもらって構いませんよ。私たちの誓い合った未来の先でなら、ですが」
 ちゅ。先ほど聴いた、リップ音。
 窓を全開にすれば、風の音が轟々と全てをかき消してくれた。
「……一刻、いえ1秒でも早く、麻薬を根絶させてやる……!」
「その意気だ。精々、私のために尽くしてくださいね」


(20240328)
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