「出ても構いませんよ」
不意にかけられた言葉に顔を上げると、入間さんは隣の棚の前で私が抱えているものと別のバインダーに目を落としたまま「電話」と短く付け加えた。
入間さんが指摘したのは、むいー、むいー、と私のポケットの中で鳴り続けているポケットのスマホのことだ。申し訳なさにへらりと苦笑いが浮かぶ。
「あー……すみません、大丈夫です」
「“俺が”大丈夫じゃねえから言ってんだ。さっきから鳴りっぱなしで鬱陶しいんだよ」
ぎろりと切れ長の横目が眼鏡の隙間から私を睨む。いつものデスクであれば多少マシだっただろう。しかし狭い資料室、ここ最近またきな臭くなってきた入間さんの案件に根を詰めて臨もうという中、ふたりで黙々と調べ物に精を出す空間にこのバイブ音はあまりに耳障りだった。
「すみません」
私はぼそぼそと口だけの謝罪を返す。本音としては、この電話に出たくなかった。だから放っておいたのだ。1、2回無視をすれば諦めると思っていたが、相手は根気強くまるで三度目の正直を願うかのように今回はやたら長く震えている。こんなことならば、とっとと電源を切るかサイレントにしておけばよかった。
しかし、仕事の邪魔だと上司から注意されてしまっては仕方がない。ファイルを棚に差し、意を決してスマホに手をかける。途端、私の指が通話の表示に触れる直前で耳障りな音は止んでしまった。
物言わぬ板を中途半端に掲げた私に入間さんはドアを指差し折り返しを促したが、やはり気は進まない。電源を切ってしまえばとりあえずこの場は凌げるだろう。だから大丈夫ですとそんな旨を伝えると、入間さんは不思議そうに眉を顰めた。
「大事な用じゃないのか」
「くだらないことです。調べ物中に、お忙しい上司のお耳に入れるようなことじゃないですよ」
「……お前もしかして、ヤクザに借金でもしてんのか」
「取り立てじゃありませんよ! ……元カレです」
「おや、それはそれは」
入間さんの野次馬めいた相槌を耳に、私は先程押し込んだファイルを引き出してからわざとらしくため息を吐いてみせた。
「よくある話ですよ、私とヨリを戻したいんだそうで」
「フったのはあちらでは?」
「私の記憶が正しければ、そのはずなんですよねえ……」
元カレというのは、私があまりに仕事が忙しかったせいで「俺と仕事どっちが大事なんだ」と怒らせてしまった相手だ。最終的にその問題は「俺と上司のどっちが好きなんだ」というおぞましい質問にいつの間にか勝手にすり替わり憤慨され別れに繋がったのだが……なんとも時が経つのは早いものであれからもう数ヶ月は経ち、通常業務に加え入間さんの仕事にも手を貸しそれなりに忙しい日々を送るうちに私はサッパリスッパリキッパリとそんなことを忘れていた。数日前復縁希望の電話がかかってくるまでは。
元カレの謝罪なのか言い訳なのか色々と混ざった言葉をまとめると、どうも冷静になればなるほど、私が浮気なんかをするわけがないと思い直したらしい。いや当たり前だろう。もっと早くに気がついて欲しかった。誰が職場で浮気なんかするか。リスクしかない。元カレに知る由は無かったが、疑惑の相手は不正捜査上等収賄上等ハニトラ上等でヤクザと元軍人と懇意にしている悪徳警官だ。リスクにリスクを乗算するような行為でしかない。
ともかく、その電話の中の元カレは反省し落ち込んでいるのは間違いない雰囲気だった。だがしかし、間が悪いことにその時の私も絶賛残業中で疲れていた。だから「ううんそっか良いよ別に気にしてないよ」と大人の棒読み対応で切り上げようとしたところに「今から会えないか。直接謝りたい」食い下がってくる彼の言葉にはそのまま「あー……今職場なんで」と返してしまったし、元カレからもしかしてと聞かれるがまま馬鹿正直に「え、上司……ああ、入間さんのこと? そりゃ一緒にいるけど」と答えてしまった。その結果、彼はやはりもう数日考えさせて欲しいとだけ残して通話を終えた。つまり、先ほどからの鬼電話は答えを聞いて欲しいということなのだろう。
「お前は戻る気は無いのか」
今更、というのだろうか、私の中では心理的にも物理的にも片がついて終わった話の認識であり……言葉を選ばずに言うならばもはや“わずらわしい”という気持ちが大きかった。仮にヨリを戻したとして、温厚な彼が一方的に別れを切り出してくるほどの我慢を今後も強い続けるのは変わらない。また同じことになるのは火を見るよりも明らかだろう。上司と一緒に残業していると答えただけで数日悩むくらいだ。今後も気を使い浮気を疑われながら仕事をするのは私だって嫌だ。
それに、先ほど入間さんについてぼろくそに評したが、勿論、それに手を貸している私自身もリスクの塊なのだ。そろそろリスクがゲシュタルト崩壊しそうだが、遅かれ早かれ私にもあの優しくて誠実な人物には別れを告げるべきという結論に辿り着いていただろう。この道を選んだのは私なので完全に言い訳だが、あの人と付き合った頃は私だってまだギリギリ善良だったのだ。それがこうなるとは……その点に関してだけ言えば、まったく申し訳ない。
だがしかし、これらのように色々と面倒を考えてしまうと、とてもじゃないがもう頭の中から綺麗さっぱり捨ててしまった情を探し出し火を再び灯すだけの熱量は捻出できそうになかった。
なにせ、私が入間さんと働くこの道を捨てる選択だけはできないのだから。少なくとも、今はまだ。
「あー……まあ、無いですねえ」
「そうか」
それだけ相槌を打って、入間さんは口を閉じた。またふたりして資料を漁るだけの沈黙が資料室に訪れる。
「ああそうそう、スマホ、そのままでいいですよ」
「え?」
かと思いきや、そう間を置かず入間さんがやたら楽しそうな声をあげるので、私もついまた資料から顔をあげてしまった。あんなに苛立たった声音からがらりと変わったこともそうだが、入間さんが私に敬語を使ったことも引っかかった。
この人がそうする時というのは、他に人がいて良い警官または良い上司を取り繕う時か、嫌味を言う時か、からかう時がほとんどだ。勿論気まぐれや癖のようにそう話すこともあるが……ただ今の入間さんは、間違いなく前者だろう。とても嫌な予感がする。先程まで私と同じく難しい顔をして情報を探していたというのに、今は声だけでなく口元にまで機嫌の良さが浮かんでいる。確か、馬鹿な真似をしていた先輩の弱みを握り失脚させる策を思いついた時も、あんな顔をしていた。どう考えても、なにか悪巧みをしているに違いない。
「……うわっ!」
「かかってきましたね」
「すみませ、うわっ!?」
得てして嫌な予感というものは回収が早く、突然ポケットがまた振動し始めた。当然私は止めようとスマホをポケットから引っ張り出したのだが、その途端待ってましたとばかりの笑顔で奪われてしまった。それこそ入間さんの名前に掛けると脱兎の如き速さでひったくられた私のスマホは、そのまま流れるように入間さんの耳にあてられた。
「もしもし。どうも、ヨコハマ署組織犯罪対策本部巡査部長の入間と申します。はい? ああ、こちらさんのお電話で間違いありません。ご安心いただいてよろしいですよ」
入間さんの慇懃無礼な物言いが猫撫で声に乗って狭い資料室に流れ始める。ご安心できる要素が一つもない。取り返そうと慌ててスマホに手を伸ばすが、身長差でなかなか難しい上に、私の手はハエでも払うように叩き落とされてしまった。
「あなた、警察官相手にストーカーとは良い度胸をされていますねえ……おやおや、ご自分のされていることが立派な付き纏いに該当するという自覚がない、と」
入間さんは私をチラリと見て、つらつらととんでもないことを語るその口元に人差し指を立てた。黙ってろ、ということなんだろうが、元カレとはいえ一応知り合いに流れるように脅しかけられて驚かないわけにもいかないだろう。そりゃあ元カレからの連絡を面倒臭いと思ったことは確かだが、それは恋愛だの仕事だのと考えるのがということであって、別にヤクをやっているわけでもない一般人に無実の罪を着せて排除したいというほど私は怒ってはいない。
「はい? まさか! ご期待に沿えず残念ですが、私は良き上司としていつも彼女のお世話をしていますよ。本当です。え、“さん”ですか? もちろん今も私のすぐ側で忙しくしていますよ。とてもじゃないですが、電話口には出られないほど」
「ちょ、いるあ゛ッぁ……!?」
「何か聞こえましたか? ……静かにするように言っているんですがねえ」
抗議をしようと開いた喉が急に絞られ、醜い音が立つ。見上げた眼鏡の奥の入間さんの目は、愉快そうに細められていた。レンズに反射する赤色は、入間さんの愛用の手袋だ。
入間さんの手が、私の首を鷲掴んでいた。
「いう゛、ぅ……っ!!」
そうしてまるでゴム製のおもちゃかなにかで遊ぶかのように、私が口を開けば男性らしい大きい手のひらと長い指を食い込ませ、その度に私の言葉は呻き声に消える。抗議を諦めて黙れば、緩められた。今まで憎まれ口を叩いて小突かれることはままあったが、これはパワハラとかそんなレベルじゃない。私が息を詰まらせ目を白黒させている間も、入間さんのイキイキとした話し声は詰まることなく流れていく。
「彼女の声、気になりますか? は……? 何を言っているんですか、私とさんはこのヨコハマの平和のために日夜身を粉にして働いているんですよ。あなた、随分想像力が豊かなんですねえ」
くっくっと喉奥で笑う声が聞こえる。きっと電話の向こうにも聞こえているだろう。わざとらしく下の名前を呼ぶのもやめて欲しい。しかもご丁寧に“さん”とは……首の後ろがゾワゾワしてきた。
一応とはいえ部下の元カレだぞ。普通そんな相手に、あなたの元カノと電話を前にしていかがわしいことをするプレイに興じていますよと勘違いをさせるようなことをするだろうか?
しかもそのためだけにいきなり躊躇いなく部下の首を絞める男、それこそ普通に嫌すぎる。黙らせられる上に喘ぎ声も出させられて一石二鳥とでも思っているんだろうか?
そういえば、このタイミングでそんな勘違いさせたらさっきまでの3回の電話の時もずっと入間さんとイチャついていたから出られなかったのだと思われやしないだろうか?
一体、どんな倫理観を持ちどんな恋愛遍歴送っていたら一瞬でこんなに酷いシナリオを組み立てられるんだ。我が上司ながら実に最低だ。混乱と謎の感心が私を襲う。
「こう言ってはなんですが……フフ、そもそもあなた、彼女を満足させたことはあります? 彼女の昂りを、熱の籠った瞳を目にしたことは? 彼女の前で熱くたぎる思いを夜通し言葉にしたことは?」
「……っ……、……!」
わざと熱っぽく演技している入間さんの口角はやはり釣り上がっているし、もはやネズミをいたぶる猫のように意地の悪い顔をしている。楽しそうで何よりです……そんなわけがあるか、冗談じゃない! 最低を更新していくな! なんなんだその言いまわしは!!
そりゃ入間さんに色々とこき使われる中でも大きな案件となれば私もそれなりに気炎を上げるし、そうしていよいよ入間さんがクズどもと対峙し追い詰める様を見守る際は目に熱くらい籠るというものだ。上手くことが運び、悪人どもの大量検挙やヤクの押収などそれ相応の成果が出れば、満足だってするだろう。
入間さんが私の前で夜通し熱い思いを口にするところも、見たことはある。だがそれは間違っても、きっと今元カレが勘違いしているであろう“私に向けて甘い言葉を夜通し耳元で囁いた”とかでは無い。カスの売人どもへの憎悪のラップと怒りの取り調べのことだ。ぐつぐつに煮えたぎるほどの熱い思いだ。私の前? そりゃあ、現場では補佐をして、取り調べでは調書を取るのは私なんだからそうなるだろうよ!
だから、私に、入間さんと、いかがわしいどうのこうのとかは、一切無い。潔白だ。勘弁してほしい。
「でも、私はあなたに感謝しているんですよ……あなたが彼女を手放してくださったおかげで、私は気兼ねなくさんのことを可愛がることができるんですから。ええ、それはもう、彼女は非常に優秀で、忠実で、とても可愛い部下ですよ。昼も……夜もね」
昼勤、夜勤もしくは残業地獄って言え!! 意味ありげに間を置くな!! 入間さんから私への対応はしごくとかこき使うとかしばき回す方の可愛がりだろうが!!
なにやら、さも今までは気を遣ってましたよみたいな言い方をしていたが、別に入間さんが私のスケジュールを考慮したことはなかったように思う。もしそんなものがあればデートの埋め合わせが積み重なることは無かっただろう。ただ、そもそも恋人どうこうを含め入間さんとはそこまで雑談をすることもなかったので仕方のないことではある。仮に気を使われて指示や指導に手を抜かれていたら、私としてはそちらの方が困るので、そこについてだけは目をつぶろう。
しかしそれ以外について声をあげようとすれば喉を絞られ呻き声を出させられてしまうし、抵抗しようとしても今度は衣擦れの音をまた言葉巧みに利用されそうで、私にできる意思表明といえばただただ入間さんを睨み上げることだけだった。
当然、普段ヤクザの若頭と怒鳴りあっている入間さんは私になど全く怯まず、むしろ一層笑みを深くした。そうして、じっとしている私を褒めているのか小馬鹿にしているのか、掴んでいる赤い指先ですり、すり、と私の首を撫でるばかりだった。
「それでは、そろそろ彼女が待ちきれないようですので失礼……おやおや、まだ“私の”部下に何か? ええ、そうですよね、もうありませんよねえ。物分かりが良くて大変助かります。それでは、良い夜をお過ごしください」
御伽話に出てくる悪役の蛇は、恐らくこういう話し方をするだろう。入間さんはそんなおぞましい朗らかさで通話を終えるとようやく私の首を解放した。急いでスマホを引ったくり返すと、おやおやと肩をすくめられてしまったが無視をする。
「あれだけ言っておけば、もう連絡が来ることもないでしょう」
「いやいやなにしてくれてるんですか、あんなでまかせを……」
「嘘はひとつもついていませんよ。どこかの三文小説作家と違ってね」
「嘘をついていないのにここまで酷い話運びになることあります?」
「はっ、何のことだか」
入間さんは、私の動揺をよそにもう資料に目を落としている。釈然としないし悔しいが、そもそも私事でスマホを鳴らして迷惑をかけていた私が悪いと飲み込む他無いだろう。もう意味はないと分かっているがなんとなくスマホの電源を落として、肺いっぱいの空気に文句を溶かし込む。
「……正直、私だとバッサリ断れなかったでしょうから助かりました。本当にその一点に関してだけですが……ありがとう、ございました」
「どういたしまして。部下の悩みを解決するのも上司の勤めですからね。良い鬱憤晴らしもできましたし」
いやそれが9割だろ、というツッコミは辛うじて飲み込んだ。私の元カレを転がすことは気分転換として大変お気に召したらしい。珍しく敬語のままうきうきと私に応える入間さんに、溜めこんだ息を吐きがてら恨み言をこぼすくらいは許されるだろう。
「ところで私の外聞どうしてくれるんですか。優しい彼氏騙して上司と仕事中に浮気するクソビッチになっちゃったじゃないですか」
「どうせ言いふらされて嘆くほどの交友関係も無いでしょう」
「ぐ……!」
警察官は勤務地を転々とすることが多い。ひとところで馴染みすぎると、その地域の人間と癒着問題を起こしかねないからだ。まあ、それでも目の前の上司みたいにいけしゃあしゃあと不正に手を染めている悪徳刑事もいるわけだが。私もシブヤ、シンジュクときてのヨコハマだし、確かに飲み屋くらいしか人と喋ることは無いのだけれど。哀れな元カレもそこで声をかけられたのが最初だった……困った、あそこはご飯の美味しい居酒屋だったのだけれど、こんな話になってしまうともう顔を出すことはできないだろう。
「……」
写し終えた資料たちを戻しながら唸っていると、いつの間にか私の背後に同じくファイル手に持った入間さんが立っていた。どうしたのかと振り向いて声をかけるが、入間さんは応えない。私より頭ひとつ大きいその長身で、わざわざ棚との間に私を挟んだままファイルを戻していく。資料が焼けないようにとただでさえ薄暗い照明が遮られる。
「……実際のところ、」
入間さんと目が合う。やたらゆっくりとした動きで背表紙を押し込んでいた赤い手が、次いで私の顎を掬ったからだ。
「あなたには、私がいれば十分なんでしょう?」
覆い被さるように私を見下ろすその静かな緑の瞳は、影が差す中でも私の視線を引き寄せ捕まえて離さなかった。同じく揶揄う様子のない平坦な声、私の答えを待ってただ閉じられた口。
入間さんが何を考えているのか、読むことができない。だが、それでも問題はない。私はこのダル絡みに対して、何を言っているのかといつも通りにうんざりとして受け流せばいいだけだ。
「…………」
「……おやおや、否定しなくて良いんですか」
「…………ふっふふ……ちょっ、ふ、はは、やめって、ください!」
数秒の膠着の後、パッと相好を崩したのは入間さんだった。つい先程までの続きのように私をおちょくるような声をあげ、なぜか突然私に添えていた指で顎の下をくすぐり出した。まるで猫にでもするかのようなその手に、猫パンチをお見舞いして引き剥がす。
「そういうことを一切の躊躇い無く言える強靭な精神力がないとヒプノシスマイクは扱えないのかと感心して痛ッ! 入間さん今日セクハラとパワハラ酷いですよ!!」
「本当に可愛くねえ女だなお前は!」
あとがき
イイ性格している入間銃兎書くの楽しかったです(20230402)
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