クダリボスの手は大きい。なにせ男の人だし、背丈も高いからそれも当然かもしれない。どれくらいの大きさかといえば……片手で私の喉をすっぽりと包み込めるほどだ。

「…………」

 色素の薄い瞳が、モニターのディスプレイを反射している。低く小さく唸り続けるサーバーの音の中、カチカチ、かちゃかちゃ、マウスとキーボードを左手一本で器用に操っている不規則な音だけが甲高く響く。
 うっすらと下弦にクマの浮いた目が、段々とゆっくり、しかし時折素早く瞬きをする。今日は、そこそこお疲れのようだ。よく兄のノボリボス共々にピエロだのロボットだのバトルジャンキー、ワーカホリックだのと評されているが、こう身体的疲労がありありと浮かぶところを目の当たりにすると、やはりこの人も人間なのだろう。白手袋越しに伝わってくる掌の柔らかさも、体温も、間違いなく人のものだと思う。
 滅多にある機会ではないが、クダリボスが疲れていてかつ私しかいないタイミング。その状況になると、取り掛かっている仕事からは一切目を逸らさずにただ手招きをするのが、合図だ。それに応じて近寄っていくと、私の足音を頼りにか、浮いた右手がごはんをねだるシビルドンの口のように揺れる。少し前屈みになる格好でお望みのものを近づけてやると、その大きな白いスペースにすっぽりと収めて包み込むのだ。
 どくん、どくん、どくん、どくん……。私の血潮が、クダリボスの親指と中指を規則的に押し返しながら、頸動脈を通過していく。じっくりと味わうようにしばらくそうしていたり、脈の強い部分に押し当てる指を人差し指に変えたり……時々、顎の皮や肉を親指と人差し指の根元で挟んだりする。最後のは、正直やめてほしい。

「…………」
「……そろそろ、よろしいですか」

 10分弱くらい経ったあたりで口を挟む。返事がない。器用にも、この体勢のまま集中しているようだ。しかし、流石にもう腰が、と私が付け加えれば「あ、うん、ありがとう」と生返事のようなぼんやりしたお礼と共に解放された。クダリボスは、決して私が苦しむような力を込めたりはしないし、嫌がればすぐに手を離した。仕事に戻ってゆく右手を眺めていると、事の始まりが思い出されてくる。

 あの日は、たまたまいくつかの仕事がクダリボスと私に集中し、家にはシャワーと着替えだけに帰り、睡眠は仮眠室で1、2時間くらいとるだけという日の三日目、いや多分日付で換算すると三泊しての四日目だった。あともう少しでこの波が片付くという頃、ノボリボスがせめてもの気遣いで差し入れてくれたクッキーを2人でカパカパ豪勢に缶コーヒーで飲み下しながら一息入れていた時のことだ。

「うーん、鼓動の感覚かな。あれ、ぼく癒される。子供の頃からそう、落ち着く。流石にもうしばらく聞いてないけどね、あっははは」

 もはやなんの話題からだったかも朧げだが、雑談中にクダリボスがそう乾いた笑い声を上げ、私も「あーなんかテレビで聞いたことありますねそういうの、あっははは、私の脈拍で良ければどうぞ」と手首を差し出しながら乾いた愛想笑いを返した。恐らくお互いに疲労が一周回って、かなりハイになっていたんだろう。そこで、クダリボスはありがとうと笑いながら首に手を伸ばしてきた。吊り上がった口角に据わった目。正常な状態ではホラーでしかないが、残念ながらあの場にいた2人は2人とも正常からは程遠かった。そして先述した通り、首に触れるその手は優しい力加減だったので、私はただ笑いながら特に気にすることもなくクッキーを齧り、同じく意味もなく笑うクダリボスの白手袋にカスをこぼし続けた。もしあの時に誰か他の人間がひとりでもいれば、私たちは即刻仮眠室に突っ込まれるか、救急車を呼ばれていただろう。
 その日以降、2人だけになるタイミングで、クダリボスは時々こうして私の脈動を感じながら仕事をするようになった。まさか、頭がおかしくなっていた時のことを平時に持ち出すとは思ってもみなかったが、目元と声音に疲れを滲ませながら頼まれると、まあ一度やったことだし減るものでもないしデスクワークの合間に立って休憩するようなものだし……とずるずる流されてしまった。そのまま、段々と頼み方も雑になってきて今では気だるげに手を振るだけになる程度には長く続いている。
 流石に、クダリボスもこの状態が人目には良くないことと分かってはいるのか、誰かが来る気配を感じると即座に手を離し、私に仕事を教えていたような振りをする。もし目撃されてしまえば、普通にクダリボスがとんでもないパワハラをしている様子でしかないから当然だろう。特別な関係でもなんでもないのに首を触らせていることを考えると、私が「これはパワハラでもセクハラでもなんでもないことなんですよ~」なんて誤魔化すのもあまりに無理がある。実際、この状態と関係性を説明しろと言われても難しい。

「本当は心臓がいいんだけど、女の子の胸元に触れるのはセクハラになっちゃう。流石にアウト」
「えー、はあ、まあ……そうですね」

 私が記憶を掘り返しているうちに一息ついたのか、冷め切ったインスタントコーヒーを啜りながらクダリボスがそう冗談めかして笑う。首を掴むという行為も十分すぎるほどアウトだと思うが、この人の中ではそういう線引きらしい。ノボリボスもクダリボスも少し普通から逸脱したところがあるから、細かいところを気にしたらやっていけない。配属されてから最初に学習したことだ。

「……あの、なんですか」
「良ければどうぞ、って言ってくれないんだ」
「は?」

 いや、流石に、調子に乗りすぎじゃないだろうか。あれ、と不思議そうにじっと見上げてくるから、無視もできず仕方なく問いかけてあげたというのに、何故私がそんな「残念、期待外れ、気が利かない」みたいな雰囲気を向けられなければならないのか。恋人でもないあなたに首を明け渡しているだけでも相当常識から外れた行動だと思うのですが。そもそもあの時は連勤の疲労でおかしくなっていたから何も考えられず話の流れでどうぞどうぞしただけだ。しかも記憶違いでなければあの時差し出したのは腕だ。手首の脈だ。首じゃない。

「……私にも人並みの貞操観念というものがあります」
「貞操観念? それ、恋人だったらいいってこと? じゃあ、なろう」
「恋人でも職場でべたべたとスキンシップとかはどうかと思いますが……は!?」

 くるりと座面を回してこちらに正対したクダリボスは、いつもの笑顔だ。真っ直ぐブレない鉛白の瞳も、地下鉄で日に焼けることなく赤みのない頬も、あらかじめそういう形だと決められているような笑った口元も、いつも仕事の指示を出している時となんの違いもない。少なくとも、惚れた腫れたどうこうの話をするような雰囲気の顔ではない。……聞き間違いか、なにか内容の勘違いかもしれない。

「あのー、クダリボス?」
「なに?」
「“恋人”って何か、ご存じですか……?」
「……あのね、きみ、だいぶ失礼。ぼく、子供に見える?」

 ため息をつかれてしまった。もちろん、見えるわけがない。話し方こそ子供らしいところがあるが、仕事もバトルもばりばりこなす冷静さと頭の回転は大人のそれだし、見た目だって立ち上がれば見上げて話すほどの背丈だ。
 ただ、普段からあまりにご兄弟揃って浮世離れしている上、まるで明日のシフトの変更くらいのノリで求愛に類する言葉を吐いてきたので……まさかこの人は“恋人”というワードを“手持ちポケモン”くらいの意味だと認識しているのでは、と私が面食らってしまったのも無理はないことなのだ。

「あれ、きみ、恋人や気になる人いたっけ。ぼくが恋人になって、なにか困ること、ある?」
「えー、いや、特に今、パッとは出てきません、が……」
「じゃあ、さっそく」
「でもそういう問題では無、ウッ……え、は? く、クダリボス!?」
「あは、声響く。鼓動が聴こえないよ、

 不当にプライベートを探られた私の抗議を一切意に介することなく、不満げに名を呼ばれ嗜められてしまった。でも悲鳴くらい許して欲しい。
 当然胸に伸びてくるのだと思っていた手が、脇腹を通過していったのだ。それも2本、両腕が。そのままするりと背中に回ったそれに、今まで首では無かったような強い力を込められてしまっては、私は慌ててクダリボスの背後、背もたれに手をついてなんとかバランスを保つしかなく……もし誰かに見られれば、椅子に腰掛けたクダリボスに私が覆いかぶさっている、不本意すぎる体勢になってしまった。
 一言で表せば、抱きつかれている、状態だ。そんなに顔や耳を密着させていれば……そりゃあ、声だって響くだろう。

「ちょっと、急に、あの、えー……誰かが来たらまずいですよ!」
「どうしたの、いつもそうでしょ。それに大丈夫! ぼくたち恋人なんだから」

 なるべく小声で糾弾するも、まるで通じていない。空返事だ。そろそろ静かにしてね、とまた怒られてしまう。いや、何一つ大丈夫ではないのですが。つい1、2分前までは漂う空気に砂糖ひと匙の甘さすら無いような間柄だったというのに、なんだこの人は。もしかして今日で5徹目とかだろうか。いや、バトル用トレインの点検に合わせ、つい一昨日にサブウェイマスターは揃ってお休みされていたはずだ。それはない。
 ……ええと、では、本当に、そういう関係になるつもりなのだろうか。心臓の鼓動を聴くためだけに? 私は聴かせるために? 馬鹿げている!
 一体この図体の大きすぎるいい大人は、どんな顔で部下の胸元に頭をすり寄せているというのか。大ぶりの制帽が邪魔をして、伺い見ることはできない。……逆に良かったかもしれない。私の顔を見られなくて済んでいる。焦りと怒りと混乱と羞恥と照れで、間違いなく酷い顔をしているだろうから。

「あー、落ち着く……」

 温泉にでも浸かっているような声が胸に響く。私は何一つ落ち着いていないのですが。


(220409)


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