珍しくふたりきりの管理室。いつもハキハキとしたシングルトレインの黒服の上司が、気まずそうに口を開いた。
「……クダリが、なにかご迷惑をおかけしてはおりませんか?」
ダブルトレイン配属の自分に、少しよろしいですか、とわざわざ声をかけてきていったい何ごとかと思いきや、まさかあの白服の上司の名前が出てくるとは。
「あ、えー……」
ひくり、と片頬が引き攣る。この言及、一体どこまでの意図を含んでいるのかわからない。仕事上のことならば良い。直属の上司に相談し難いことを他の上司に話すタイプの面談もあるにはある。しかし、そんな通達は来ていないし、それならばノボリボスだってもっと堂々と声をかける。……この場合、何をどう言葉を選んだものか……。私が悩んでいる間にも、ぴしりと背筋を伸ばして立つノボリボスは感情の読みにくい鉛白の瞳で真っ直ぐこちらを見下ろし、いつも真面目に引き結ばれた口角の下がった口元で私の言葉を待っている。しかしまさか、まさにそのご指摘の通り、あなたと口元以外同じ顔の弟さんから仕事中に首を掴まれ胸元に頬を擦り寄せられています、など馬鹿正直に告げるわけにもいかないだろう。
「……特に、業務に支障があるようなことはございません」
社会人として完璧なオブラートの包み方じゃないだろうか。笑顔でそう答えたが、しかしノボリボスは煮え切らないと言った風に顎に手を当てる。
「それならばよろしいのですが……」
「もしや、なにか私の勤務態度に不足でもありましたでしょうか?」
少し、探りを入れるべきかもしれない。
クダリボス付きの、つまり別系統の部下である私をわざわざ人目を避けて呼び、こう食い下がるくらいだ。やはり何かしらの確証か、そこまでではなくても違和感があったのかもしれない。あの非常識な息抜きを人にバレるのは、できれば、いや絶対避けたい。どう見ても変態プレイを仕事中にしているなんて知れたら、社会的に終わる。
ノボリボスも、どう話したものか、と私のように悩む様子を滲ませながらぽつぽつと答えてくださった。
「いえ、クダリが、近頃あなたの話をよくしておりますので……」
「それは、私がクダリボスの──」
「どうにも、恋人ができた、といったような文脈で」
「──部下だから、では、ないでしょう、か……」
ひくり、ともう一方の頬も引き攣る。多分今、厄介なクレーム対応をしている時のクダリボスと同じ笑顔をしていると思う。
「いえ、兄弟とはいえこのようなことに首を突っ込むのはどうかとも思ったのですが、仕事上の部下ということで万が一わたくしの勘違いであれば良いのですがそうでなかったら、あそこまで誰かの話をして浮かれるクダリというものはわたくしでもなかなか見たことがありませんので、よもやなにか無茶をさせてはいないか、一応兄として義妹の心配を……」
……いや何してくれてんのあの人!? 声を出せていたら喉から血を吐きながら渾身のシャウトが出ていたと思う。嘘でしょう、先日のあの日以降、相変わらず、いや隙を見て胴を抱きしめて心音を聴くことも加わったが、それ以外は何も変わらずプライベートの連絡先も知らなければ当然デートのひとつもしていない。あの馬鹿げた恋人宣言は私にセクハラと訴えられないで心音を聴くための方便のようなものと思って諦めて受け流していたのに、まさか、どこまでかは分からないが口外するとは思っていなかった。確かにクダリボスはノボリボスと仲が良い。双子のご兄弟であり同じ役職、仲が悪いよりはずっと良いことだが……職場恋愛まがいの内容まで情報共有されるとは想定外だった。ノボリボスも頭の中で話が進むのが早すぎる。仕事での回転の速さと爆発力はここで発揮しないでもいい……私は義妹ではない!
「ねえ、なにしてるの?」
「ッ!?」
「おや、クダリ。お疲れ様です」
「うん、お疲れ様」
ずるり。ふた首の白蛇が、這うように背後から現れた。一本は私の腹を周り、一本は私の首を甘噛みする。見慣れた腕。クダリボスだ。私も、部下として挨拶をするべきなのだろうが、驚きのあまり、声が出ない。
するり、するり、手袋越しに触れる熱い手が、探るように私の喉を撫でる。
硬直したままの私を気にも留めず、2人の上司は話を続ける。
「随分早いですね。スーパーダブルは丁度今頃ホームに戻ってきたくらいでしょう」
「うん。ノボリがぼくの部下を連れていったって聞いて、走ってきちゃった。それで……なんの話してたの?」
私のつむじに、クダリボスの顎が刺さる。背中にぴたりと密着しているクダリボスから、どっどっどっどっ……荒い心音が響く。本当に慌てて来たのだろう。ノボリボスと楽しそうに話す声音も吐息もまるで乱れていないというのに、鼓動だけは、まるでそのひとつひとつが私を責めるように殴りつけてくる。
「、ぼくの大事な部下。……確かに、ノボリに自慢しちゃったけど、シングルにスカウトされたら困る。すっごく困る。ねえ、ノボリもすっごくつよいし仕事できるけど、異動するなら相談して。業務に不満があれば、なんとかするから」
「ご安心くださいまし、勘違いです。……あなたがそこまでするものを、取ったりなどいたしませんよ」
私とクダリボスを上から下まで眺めて、ノボリボスが優しい笑い声を出す。はた、と今の自分たちの体勢を思い出して、慌てて白い両腕を払った。思いのほかすんなりと拘束は解けた。ノボリボスとはいえ人前で首に触れるどころか抱きしめるような格好をして、何を考えているんだ! 努めて平静の顔を維持しようとしているけれど、羞恥に頬がカッと熱を持ってしまって、うまくできているか分からない。
「セ、クハラですよ。……それよりもクダリボス」
えーなにだとかいつもしてるだとかノボリなら気にしないだとかぶつくさ喚くその温かい手を改めて私から取ると、ようやく静かになる。……確かにノボリボスは口元に手を当てておやおやふふふ仲がよろしいことでと目を細めている。そんな微笑ましいものを見るような顔をしないで欲しい、違う、そういう関係ではない。落ち着こうとため息を一つ吐いてから、クダリボスに向き直る。
「今日はもうダブルの運行も会議もありませんので……デスクワークの前に大人しく! 仮眠室で! 休まれてください」
「……えー」
「……おや」
やはりおふたりは口元以外同じ顔だ。なにやら揃って目を丸くしている。お疲れのご様子の上司に休憩を促しただけで……そんなに驚くようなことは言っていないはずだ。
クダリボスの手のひらを検めている私の手が、突然がしりと掴まれる。声こそ上げないが、今度は私がびっくりしてしまった。
「あー……が連れていってくれたら、そうしようかな。大事な部下の進言だもんね」
そう言うや否や、じゃあねノボリ、と私を掴んでいない方の手を上げて歩き出した。クダリボスの背丈に合わせた長い脚の早歩きに引き摺られ慌てて足を動かしながら振り返ると、ノボリボスも鏡写しのように片手を上げて楽しそうに私たちを見送っていた。
「……ね、。なんで気付いたの」
かつかつ、かつかつ。2人分のせかせかした足音が廊下に響く。流石に廊下に出てからは離された白手袋の手に、ぼんやりと目を向ける。
「クダリボス、お疲れの時は手の温度が上がりますから」
「え、そう?」
首を傾げながら手を開いたり閉じたりしているが、気付いていなかったのだろうか。大体いつも私に触れる時は手のひらに熱が篭っており、そこから段々と私の脈に移していくように温度が落ち着いていくということを。
「ええ、手袋越しでも分かります。伊達に、何度も貴方に触れられていませんよ」
「…………」
「……どうしました?」
やれやれと嫌味の一つでもぶつけてやると、斜め前を行くクダリボスが急に押し黙ってしまった。歩くペースもがくっと落ち込む。別に、いつもこの程度のことは言っているはずだし、それに対してクダリボスは一枚上手に切り返してくるのだが……私がそのまま追い越してしまいながら不審を口にすると、要領を得ない声音と言葉が後ろ頭をくすぐった。
「いや、うーん……ちょっと、グッときてる。ちょっとだけ」
「なんですか、それ。やはりお疲れなんですよ」
「そうかも」
仮眠を取れと言ってからずっといやに素直なクダリボスを引き連れ、廊下を進む。目的の仮眠室の戸を手に薄暗い部屋に白い上司が入るのを待ち、静かに閉じた。利用者リストを確認すれば、幸い4つあるベッドは誰も使用していない。ふたりで仮眠室に入る様子を誰にも見られなかったことに少し安堵する。変なところで勘違いする人間を増やしたくない。ごそごそと上着と帽子をハンガーにかけてベッドに潜り込む上司を横目に、その名前を代筆した。まったく、子供なら分かるが、成人男性が仮眠室に行くのに誰かの付き添いが欲しいなど、普通は無い。おかしいことだ。それに付き合う私もおかしいということになってしまうが、上司命令だし、仕事効率のために仕方のないことだから……そう、私はおかしくない。
「何分後に呼びに来ますか」
「ね、手出して」
他に人は居ないが場所が場所なのでつい枕元に屈んで小さく声をかけると、全然違う話が返ってきた。布団からちょこっと出された手が、ぽふぽふとシーツを叩いて催促している。
「手、ですか」
「首でも、胸でもいいけど」
「……はい」
「ありがとう」
少々むっとするが、この人と会話が成り立たないことはままある。頭の回転が早すぎるパターンと、思考が常識離れしているパターンとがあるけれど。今回は後者だろう。もはや諦観の溜め息を吐きながらお望み通りに差し出せば、むにゃむにゃと眠気の現れたお礼と共にクダリボスの手が触れる。うとうとと見ているのか見ていないのか虚な目のまま、その指先がたどたどしく私の中指をなぞり、薬指との股をくすぐり、手のひらをつついていく。……慣れない感触が登ってくる。薄闇の中目を凝らしてようやく気付いた。ああそうか、素手だ。この人も、流石に眠る時は手袋を外すらしい。
「ねえ、……ぼく、こたえ、きいてない」
「答え?」
するり、するり、なんの隔たりも無く触れる熱い手が、探るように私の手首を撫でる。少しすると目当てのものが見つかったのか、ぐ、とその指たちで噛み付くように掴まれる。
「ずっといて。……ぼくのとこ」
「ああ……異動なんかしませんよ。ノボリボスも勘違いだと言っていたでしょう。これで良いですか」
「……そう、だね……」
どくん、どくん、どくん、どくん……。私の血潮が、クダリボスの指を規則的に押し返しながら、動脈を通過していく。鈍い痛みを訴える手首から目線を移すと、鉛白の瞳に捕まった。いつもはディスプレイを映すその目が、私を見上げている。暗がりでは余計に何を考えているか分かり難いが……ふ、とすぐに逸されてしまった。
ゆっくりと、指の力が抜けていく。
「……それに」
「……なに、」
「……いえ……」
珍しい。そう思っただけだ。
いつも人と話す時は、こちらが逸らしたくなるほど真っ直ぐに目を見て、言いたいことはハッキリと口にする人だ。いつも私の脈を感じ取ろうとする時は、私の首か心臓の辺りを痛みや苦しみの無いように優しく触れ、誰か来るか私が言い出すまでは離れない人だ。
いや、眠いだけだろう。理性はそう言った。だから余計なことは言わず、おやすみなさいとだけ言って仕事に戻れと。
「“恋人”なんでしょう、私は」
「あ、はは、うん……うん、そう。……はー、落ち着く」
クダリボスが、温泉にでも浸かっているような力の抜けた笑い声をあげる。そうして私の目をもう一度見て、それからとろとろと繰り返していたまばたきがようやく止まった。
離れようとしているふうに見えたその指先は、気のせいだったのか、しっかりと私の手首を枕にしている。
「…………」
「…………」
何分、経っただろうか。もうずっと、規則正しい呼吸音だけが聞こえる。目下の上司は、寝顔でもうっすら笑顔をたたえたまま、すっかり眠っている。私は、そっとその指と仮眠室から抜け出した。
廊下を進む。頭の中で、最低限今日中に処理するべき残りの仕事を確認する。余計なことを頭から追い出すように。追い出すように、追い出すように……。
ああ……まったく、口が滑った! そう言う他ない。
……厄介なもので、人間というものは意識しないようにと思えば思うほど、意識をしてしまうらしい。
ぐう、と呻き声を上げながらこめかみを揉んだ。その拍子に手首がじわりと痛んだが、見るに幸い痣などはできていないようだった。そういえば、真っ当にここの脈に触れられるのは初めてだ。そして、素手というのも。熱を持ったあの大きい手が、中指を通って、指の間に触れて、手のひらを……いや、思い出さなくても、良い。私は慌てて手首を擦り、感覚を誤魔化した。
どうにも、自分はあの人の縋るような態度に弱いらしい。思えば、あの悪習を受け入れずるずる続けているのもそのせいだ。きっと、普段キビキビした上司が少し弱いところを見せる、そのギャップのせいだろう。そうだ、できる上司に頼られて応えない部下は居ないだろう。それ以外に理由なんて無いはずだ。……いや、それでも、やはり首や胸元はおかしいか……? 駄目だ、本当に、もう、考えるのはよそう。そうだ、業務には何も支障は無いのだから、とりあえず現状、これで良いのだ。
「おや、。もうよろしいのですか?」
「ノボリボス。先程は、お話の途中で失礼いたしました」
「いえいえ、良いのです」
管理室に戻ると、クラウドさんとシンゲンさんになにやら指示を出していたノボリボスがそわそわと近づいてくる。なんやナンダとクラウドさんとシンゲンさんが不思議そうな顔でノボリボスと私を見ながら、持ち場に戻るのか退室してゆく。……いつも思うが、ノボリボスは無表情なのは顔だけで、それ以外の部分には割と感情が出る。私とクダリボスの謎の関係が周りにバレるとしたら、ここからじゃないだろうか。釘を刺せれば刺しておきたい。誘われるまま、少し離れたところに位置するサブウェイマスターのデスクの前に数十分ぶりに戻ってきた。
「あの」
「わたくし安心いたしました!」
私の言葉をかき消して、ノボリボスの歓声が響く。
「クダリの様子に気付き気を使うあなたの献身……いやはや、おふたりの仲を疑ったりなどして、大変失礼いたしました」
「けんしっ……いえ、そこはまだ疑っていただいて結構です」
だめだ、私の否定を照れ隠しか何かのように受け取っている。楽しそうで、まだ何か余計なことを言いたげな顔だ。本当に、少なくとも、普通の恋人のような関係ではない。どうにかしてそのラブラブカップルのような誤解は解いておきたい。……いや、まだワンチャンスある。ノボリボスが概念を理解していない可能性が。
「あのー、ノボリボス?」
「はい、なんでしょうか」
「つかぬことをお伺い致しますが……“恋人”って何か、ご存知ですか?」
「ええ、ええ勿論です! 一緒に観覧車に乗ったりする仲のことでしょう?」
おふたりはもう乗られたのですか? なんと! まだであれば義兄が遊園地のチケットをお贈りいたしましょう! ……などと、いつもの鉄面皮のまま周りに花を飛ばさんばかりのうきうき声で、見上げて話すほどの背丈の上司がひとり暴走特急を走らせている。
子供か!? 誰が義兄だって!? ……そんなツッコミをこらえながら、私は説得を放棄してクダリボスのデスクからダブルトレイン関係の書類を手に取った。
あとがき
弟の色恋話にウキウキノボリ(220508)
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