猫のような男だ、と思う。それも、可愛らしい猫なんかじゃない。誰にも媚びず、懐かず、気まま勝手な猫。

 予備工具置き場、コンクリート壁に棚がいくつかと段ボールでごちゃついた狭い場所。私たち整備士はそんなにデスクワークは多くないので、通常は整備士詰所をフリーデスクとして各々使っている。だが私は、滅多に人が立ち寄る事もなく落ち着くからと書類作成時などは勝手にこの部屋を自分のデスクにしていた。一応工具置き場ではあるので整備士管轄の部屋であり、上司には許可を貰っているので大丈夫なはずだ。先輩の中にはカナワの車庫の一角に豪華なダンボールルームを図面を引いてまで築いている人なんかもいるから、それよりはまともな人間だろう。
 そのマイデスクで私が、本日何度目になるかも分からないため息を吐いた時だった。

「あのね、うんうんうるさい」
「ッ!? …………いつから居たんですか」
「ぼくクダリ、15分くらい前から居たよ。ってほんと不用心」

 ガタリとパイプ椅子を揺らすほど驚いて振り向くと、予想通りの白い影が眉間に皺を寄せていた。
 ……いつもそうだ。この人はいつの間にかぬるりと入り込んできて、我が物顔でサブウェイスゴイカタイパイプイスに腰掛け、勝手に人のお菓子を口にして秋春ならぼんやりうたた寝をして夏なら壁にくっついて涼み冬ならどこからともなく勝手に持ち込んだストーブで温まっていく。「あのね、バトルは体力も頭も使うから、のんびりしたいし甘いものも欲しくなるんだよ」となぜかこちらの理解が足りなくて悪いかのようにため息まじりに諭されてしまっては、もう脱力しておやつ代と灯油代が嵩むのを受け入れるほか無かった。よく行く大衆食堂の、ドアにわずかでも隙間があれば店主の気づかぬ間に滑り込み我が物顔で餌を強請ってくるふてぶてしい野良猫が脳裏をよぎる。……あれ、そのまんまじゃないか?
 この娯楽施設目白押しのライモンでも目玉の一つであるバトルサブウェイ、その花形役者として呼び寄せられた腕自慢だということだけは知っているが、数年働いていてもこのクダリという男は本当に得体が知れない。そのいつも通り張り付いた笑顔……まるで読めない表情のまま気付けば隣に直立していた。普通にびっくりするから唐突に距離を詰めてくるのはやめて欲しい。黒い方は関わったことがないのでどういう人間なのか分からないが、少なくともこの白い方は本当に人の意識の隙間をつくのが上手い。この男といると、何度も気がつけば、気がつくと、いつの間にか、といった事が起こる。この行動の読めなさもバトル強者だという秘訣のひとつなのだろうか? 整備士の自分にはよく分からない話だ。ただ、この男が先ほどからばきぼきばりぼりと気前良く齧っている今日のおやつが、工具棚の奥の方に大事に隠しておいたはずのナッツとベリーのチョコバーだということはよく分かる。棚を漁って一番良いものをいつも的確に探し出してくるあたり、本当に目敏い。いつもいつの間にどうやって見つけ出しているのか。お菓子の保管に鍵付きのチェストを買うのも馬鹿らしいと思っていたが、再検討するべきだろうか。

「それで、なにをそんなに悩んでるの」
「……整備報告書の内容を、どうしようかと」

 細長い瞳が、私の型落ちのノートパソコンと広げた書類を舐めるように動く。そして、ふうん、と事もなげに鳴き声を寄越した。

「どこだっけ、去年の3月のどっかと、8月のどっか。似たような事例の報告書あったよ」
「え? あっ」

 なめらかに私の手からマウスを奪い、彼ら鉄道員はほとんど見るような用事も無いはずの整備士のサーバーを開き始めた。かちかちと数度をフォルダを行き来すると、いくつかのファイルをデスクトップに貼り付けて、はい終わり、とマウスを手放してまたパイプ椅子に戻っていく。

「あ……りがとう、ございます」
「あのね、別に感謝されるようなことじゃない。こっちは休んでるのにがうるさいからやっただけ。あと暇つぶし。あとお菓子のお礼もちょっと」

 どこまで本気なのか、いつ何時も揺れるところを一切見たことがない目でぶつくさ嘯いたかと思えば、もう何度も休憩という名のサボりに来て見飽きているだろうこの部屋の使用頻度の低い工具たちを眺めている。その手はどこから出したのか2本目のチョコバーの包みを開け始めているし……多分、この男の気分や思考などハナから予測しようとするだけ無駄なのだ。この数年で流石にそこだけは学習した。
 そうして私の書類作りは半日頭を抱えていたことが嘘のように、お手本のファイルたちのお陰でするすると進み始めた。集中してきた頃、背後でライブキャスターがピロピロと音を立てる。

「……あ、呼び出し」

 もうここに用は無いとばかりに、秘蔵のお高いチョコバーの食べかけをばくりと一口に放り込み、ぬるり、やはり戸を滑るように出て姿を消してしまった。その一瞬見えた横顔は、三日月のように一層口角の吊り上がった口元に加えて、縦長の瞳孔を持つ目もスゥとわずかに細められているものだった。あれはきっと彼にとっての楽しい獲物、いやお客様がいらっしゃったのだろう。もうあの男の頭にはバトルのことしか無い。しかしその興味も何分保つのか……私は挑戦者に内心でエールを送り、またディスプレイに向き直った。

 猫のような男だ、と思う。やはり、可愛らしい猫ではない。誰にも媚びず、懐かず、気まま勝手な猫だ。……だが、それほど苦手ではない。


(220324)


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