早朝作業の整備結果を関連部署に説明し終え、よし帰って寝るぞという希望を「では改めて報告書で」と無慈悲に絶たれてしまい、私はゲンナリとマイデスクこと備品庫へ向かっていた。
 まだお客様が入る時間ではないし、口頭報告をした事務所から近道なので表の道……お客様が通る通路を行くことにしたが、ここはライモンシティでも目玉施設というだけあってあちらこちらが目に楽しく煌びやかだ。自分がこのバトルサブウェイを整備しているうちの1人ということで少し誇らしくもあるが、それはそれとして作業上がりでドロドロの作業服に無骨な安全靴という格好ではやはり所在無く感じて、なんとなく壁際に寄ってこそこそと歩いてしまう。
 そのまま少し行くと各路線ホームへの分かれ道のあるロータリー、そして目的の我が城へと繋がる関係者用通路の入り口がある。お客様がまだ居ないはずのそのロータリーへと差し掛かる頃、私の耳にうっすらと聞こえてきたのは意外にも複数人の声だ。開けた空間に入り足を進めながら見渡してみれば、小さい人だかりが見えた。どうやらこの楽しそうな黄色い声たちはあそこから響きわたっているようだ。
 お客様へ好感を与えるぴしっと綺麗な制服に、清潔感も華もある身だしなみ。総合受付カウンター周りにいることからも、あれは受付やお客様対応部署の職員さんたちの集まりのようだ。彼女たちの愛想は表のお客様たちだけでなく、裏ですれ違う私たちにも向けられる。更衣室で会えば一声かけてくれたり、たまにお菓子を分けてくれたりもして、彼女たちは優しくて素敵な仕事仲間だ。
 そんな今日も美しく目の保養とも言える彼女たちが何を楽しそうにしているのだろうと目を留めれば、それは注視するまでもなく分かってしまった。人だかりから頭ひとつ縦に飛び出した位置の制帽、ひとりだけデザインの違うロングコート風の制服、どちらも見覚えのありすぎる白色だ。そこには、サブウェイマスターのクダリさんが何かを口に運びながら談笑の輪の中心にいた。……あの人、いつも何かしら食べているな。街中に餌皿がある野良猫か何かか?
 そういえば、いつだったか受付の子達にどうこうと口にしていたような気がする。なるほど流石はサブウェイマスター、このずらりとエンタメの並ぶ商業タウンでも特に人気の高いバトル施設、そこの花形役者というだけはあるということか。普段は備品庫でだらけているところしか見ないから気にしたことはなかったが、顔が広いと言うかなんというか……大人気、まったくのアイドル扱いだ。クダリさんが何かしら口や手を動かすたびに場が沸くのが遠目でもわかる。それにしても、朝礼とかは無いのだろうか? バトル挑戦者のホスト役が普段どんな仕事をしているのかは知らないが、確かクダリさんは車掌や乗務員のようなこともしていたはずだ。ああ、もしかしたらノボリさんがその辺はうまくやっているのかも知れない。
 一応顔見知りではあるので壁際からでも挨拶をするべきかと一瞬悩んだが、あのキラキラで和気藹々とした雰囲気に、わざわざ機械油が所々黒く滲む作業着で水を刺すこともないだろうと思い直した。別に、クダリさんは直の上司でも無いから素通りしても問題は無いはずだ。……それに万が一クダリさんのコートに朝イチから汚れでもつけようものなら、どんな文句を言われるか分かったもんじゃない。明け方の肉体労働後にクダリさんの相手はしんどい。やめておこう。
 所々ポケモンの意匠が施されたデザインの壁の中でひっそりと佇む関係者用ドアのひとつを目指しながら、無関係の井戸端会議よりも私にとって目下重要な報告書の文面について思案を巡らせていると、ぱたぱたと足音が追いかけてきた。


「うわっ!?」

 肩を叩かれて振り向けば見慣れた青いネクタイが顔にぶつかりそうなほど近くに揺れていて、慌てて後ずさってしまった。いつもながら距離感のバグった人だ。

「おはよう。あのね、人のこと見て叫ぶの、失礼」
「お、はようございます……あの、パーソナルスペースという言葉をごぞ」
「他人が近付いて不快に感じない範囲のこと。どこいくの?」
「んじのようですね……早朝作業の作業報告書を作りに行くところです」

 諦め成分をたっぷり籠めたため息混じりに返答すると、そっかおつかれさま、と思いの外普通にあっさり労われてしまった。それにお礼を返しつつ用向きを伺えば、それはそれで何も無いよとけろりと笑われる。この気まぐれは、いつものことだ。

のこと見かけたから声かけただけ。まずかった?」
「いえ特には、びっくりしただけで。クダリさんの方こそ、今さっき受付の職員さんたちと盛り上がっていませんでした?」

 カウンターの様子を伺おうとしたが、まさしく眼前レベルの近距離にそびえ立つクダリさんの背丈と彼の羽織るコートに遮られ、よく見えなかった。

「別に。お菓子くれるっていうからついてきたけど、合コンのお誘いだった。来週だって」
「そんな子供の誘拐のような釣られ方してプレイボーイみたいなお話してたんですか……ていうかそれ、なおさら良いんですか抜けてきて」
「うん、全然良い。ノボリも誘ってとか言われたけど絶対無理。興味ない。ぼくたち、女の子には困ってないから」
「わあ〜さっすがサブウェイマスター、世の男性を敵に回す傲岸不遜っぷりですねえ」

 あまりに強い。なにせその裏付けは先程ちょうど目にしたばかりだ。これがこのライモンシティ屈指の名物双子か。とんでもないことを自慢ででもなんでもなくサラッと言ってのけるところをみると、アイドル“扱い”どころの話じゃないようだ。本物だ。実態は人の仕事場に無断で侵入し人の備蓄を荒らしていく強盗……いやバトルジャンキーだというのに。いやはや、世も末だ。
 その堂々とした発言につい口笛を吹きながら揶揄してやれば、クダリさんは笑みの口端をさらに不気味に鋭利にさせた。……嫌な予感しかしない。

「あのね、ぼくがそうなら、今、も“世の中のもう半分”を敵に回してるから」

 クダリさんが、まるで私をその体躯とコートで覆いこむように腰を折った。そのかがみ方ときたら、どう見ても何かを狙っているような、あまりにもわざとらしい動きだ。警戒する私の耳元に顔を寄せてきたかと思うと、悪魔の笑いのようにひたすら愉快そうな声を吹き込んできた。

「あのね、女の子は好きでしょ? ……トクベツ扱いってやつ」

 されるのも見るのも、とクダリさんが意味深に囁き終えるよりも先に、きゃあ、とだだっ広いロータリーにいくつかの悲鳴や歓声がキンキンと響わたる。恐る恐る身をよじる。そうして、低くなったクダリさんの肩越しに私の目に映ったのは当然、先ほど様子を伺おうとした受付カウンター。そして、そこにはやはりというべきか、こちらを凝視する人影たちがある。
 されるのも見るのも、ははあ、なるほどね。……サァ、と血の気が引いていくのがわかった。

「さ、備品庫行こ」

 どこ吹く風のクダリさんは、ぴっといつも通り背筋も脚も伸ばした立ち姿に戻っている。違うのは、いつも脚と連動して真っ直ぐに振り回される腕がぐるりと私の背中を回り、そっと腰に添えられているということだけ。まるでエスコートをするかのような仕草。……きっと、ファンの女性からは“憧れの男性の紳士的でカッコイイ一面”が見られたとかなんとかって喜べたりするんだろうが、私からしたらあまりの白々しさだ。セクハラと断じても良い。こんなこと今まで一度もやったことないだろ! 間違いない、こいつ、遊んでやがる!! 自分が女性陣にキャアキャア言われる立場なことをこの上なく十二分に理解して、その上で私を巻き込んで冷や汗をかかせあせらせて楽しむ気なのだ。いったいどんな脳味噌していたらそんな悪魔じみた発想をしてあまつさえ実行までしようというのか。

「いや本当に勘弁してくださいよ……恋愛トラブルならこの間の一件だけでもうお腹いっぱいです。あの時はクダリさんも絡まれて面倒だったでしょう……!?」
「だって、最近強い挑戦者こない。ぼく、とーーーっても、暇」

 だってと言われましても。お腹いっぱいどころか腹半分にも満たないと言った素振りだが、まさかわざとトラブル起こして私を助けて「ハイまた我儘聞いてね!」なんてマッチポンプをするつもりなのだろうか。流石にそこまでされたら引くけれど……私の軽蔑を含んだ目線の意を汲んだのか、クダリさんはゆっくりと首を振った。

「あのね、ぼくも、そこまでは暇じゃない」
「それはそれは。安心しました」
「あれの、ちょーーーっと手前くらいで楽しみたい」

 いや、素直に安心させて欲しい。楽しみたいってなんだ。先日のあれを、面倒ごとではなく暇つぶしになるおもしろそうなことだと学習したのか? どういう神経をしているんだ。そのうち刺されやしないかと心配になってくる。刃物の貫く先がクダリさんか、はたまた私かは知らないが。……もしそうなっても、労災はおりないのだろう……勘弁してほしい。まあ、この人は刺されても平然としていそうだが。

「……あのね、痛い」
「私は、視線と心が、痛いん、ですよ!」

 ぎりぎり、腰にまわるクダリさんの手を手袋ごと、爪を立てて一生懸命つねり続けているというのに、クダリさんは無駄に耐えて意地でも手を下ろさない。その間も、悲喜交々なおねえさんたちの声が聞こえてくる。“やっぱりあの噂……”というこの間の迷惑男のような言葉も聞こえるが、絶対に、誓って違う。ちくしょう、優しいおねえさんたちからあらぬ誤解を受けて嫌われたらどうしてくれる! だいたい、特別扱いは特別扱いなのだろうが……玩具として気まぐれに絡まれ弄ばれる……こんなにも嬉しくない特別扱いがあるだろうか。今の私だが。

「用事が無いならもう行って良いですか? ……もちろん、クダリさんにエスコートしてもらう必要は無いです。それでは昼勤頑張ってくださいさようなら」
「あ。ぼくきみに用事あった」

 ぎゅうう、と腰に回った腕に力が篭る。もはや身を捩ることすらできないし、あと正直結構痛い。ぱっと見全く力まずに、この馬鹿力。やっぱりこの人化け物なんじゃ無いだろうか。そのまま数秒間無言の攻防をしたが、悲しいことにビクともしないので結局いつも通り私が折れた。どうせ大したことでは無いんだろうが、渋々と何の用かと改めて問いかける。

「ぼく、来週すーーーっごく仕事量多い。集中したいから、あの部屋の鍵貸してほしい。……なに、その顔」
「……思いの外まともな用で、驚きました」
「あのね、きみ、いつも失礼。”整備士”って礼儀の概念無かったりする?」

 取ってつけたような引き止め方にしては真面目すぎる内容だ。おかげで、くだらない用事だったら今度こそ鳩尾を殴ってでも鉄板入り安全靴で脛を蹴ってでも逃げ出してやろうと荒げた闘志が、一気に引っ込んでしまった。確かに、あの部屋は基本誰も立ち寄ることはないから、缶詰をするのには最適だろう。私がそれを理由に私物化しているのだから間違いない。
 かといって、所属も違えばいつも思考も行動も読めないクダリさんに勝手に部屋を貸し出すというのはいささか不安がよぎる。使用頻度が低い物たちとはいえ、万一があって工具類を壊されてはたまったものではない。考え込む私を見て、もう逃げないと判断したのかクダリさんはようやく離れてくれた。そのままその手は図々しくも催促するように差し出されているのだが……。よく使い込まれた手袋、しかしそのコートと同様に潔癖なまで、無機質なまでの白さはクダリさんの得体の知れない雰囲気とよく合っていて……いや、目の前に突き出されたそれには、“圧倒的な違和感”があった。

「……あっ!!」
「ん?」

 それに気が付いた私は、慌ててクダリさんからさらに一歩飛び退いた。そうして改めてその縦長すぎる全身を視界に納めてみれば、もう一目瞭然だった。
 その手袋を始め、私がくっついていたであろう肩口から腹のあたりまでが特にひどい。機械油と泥、埃なんかがブレンドされた汚れが、べっとりと移ってしまっていた。バトルサブウェイの顔として曲がりなりにもお客様対応をする人員たるクダリさんの、皺一つないコート、常に清潔に保たれているはずのシャツと手袋が……モノクロのトゲピーの殻模様みたいになっている。
 つい十分前に恐れていた事態だ。どうしよう、なんということを……お客様が入るまではあとどれくらい時間があっただろうか。クダリさんに小言を言われることが怖いのではない。もちろんあのやたらと出来がよく回転の速い頭から繰り出される切れ味鋭いストレートな言葉たちは嫌だが……何よりも、お客様に迷惑がかかること、お客様をガッカリさせてしまうことだけは避けたかった。
 確かにちょっかいをかけてきたのはクダリさんだが、そう言い訳をしても実際についた汚れが消えるわけでも無い。なんとかしなければ。日々、サブウェイマスターを実力で一眼見てやろうと多くのお客様が手塩にかけたポケモンたちと共にここバトルサブウェイを訪れている。景品が泥だらけでは格好がつかない。この施設での体験を十分楽しんでもらうために、私は眠い目を擦り疲れた体に鞭打って日々整備に勤しんでいるというのに。

「あの、クダリさんすみません!」
「別にいい。こんなの着替えれば済むから」

 私は慌てて一先ず応急処置的にハンドタオルで汚れを拭おうとしたが、クダリさんに心底どうでも良さそうな、本当に何も気にしていない、いつもとなんら変わりない声色で遮られてしまった。

「だいたい、、お仕事頑張ってくれたあと。汚れているの、当然でしょ」

 ……意外すぎる。正直、もっと色々言われると思ってた。私の中のクダリさん像を少し訂正する必要がありそうだ。
 ぽかーんとしていると「そんなことより鍵貸して」と伸ばされた手が焦れたように揺らされる。あと謝るならいつもの失礼な言葉のことにして、と続けられた文句は聞こえないことにした。

「そう、ですね……本当は、ダメですけど」

 クダリさんなら大丈夫だろう。暇を作るのがとにかくうまいが、こと仕事は手を抜かずこのバトルサブウェイの盛り上がりに尽力している人には違いない。一応、私よりずっと役職は上の人だし。
 そう信じたことを後悔するはめになると露とも思わなかった私は、クダリさんの灰色の手袋に合鍵を乗せた。


あとがき
スペのバトルサブウェイは商業施設やテーマパーク寄りだと思ってる(221022)


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