テイスティング

雰囲気やらしいシーンあり


 ギーマの唇が、そっ……と指先に触れる。男の一挙一動に全身の神経を絡め取られるように注視していたは、たったそれだけのことでびくりと震えてしまった。つい今朝までは露ほども予想し得なかった状況に、の心臓はひたすらにうるさく早鐘を打ち鳴らしていた。

「……怖いならやめようか」

 くすりと溢れる吐息が、指先をくすぐる。そうして今度はリップ音が、わざとらしく鼓膜を揺する。は既に緊張で頬を薄く染めていたが、再び押し付けられた唇とあからさまに揶揄る態度にカッと顔中を真っ赤に茹であがらせた。

「や、やめなくていいです!」

 羞恥心と反発心が混ぜこぜになり声が震える。ここで引き下がるわけにはいかなかった。なにせ、が自分から言い出したことなのだから。彼女をその場に棒立ちにする理由は、ちっぽけなプライドと……多大な好奇心だった。

 ***

 電動リフトが音を立てるよりも早く、ヘルガーがその特徴的な鳴き声を上げた。それを受けて、今日も自分と共に挑戦者を待ち受けてその勝負に勝利をもたらしてくれた愛しい手持ちたちもそれぞれピクリと反応を示す。豪奢な椅子に腰を落ち着けて彼女ら、彼らを労わっていたギーマは、ふ、と笑んだ口元から吐息を零した。

「……そろそろ来るんじゃないか、と思っていたよ」
「べっ別に、好奇心に負けて来たわけじゃないんですからね!」

 ゴウンゴウンと駆動音に連れられて到着した人物は、縄張り意識の強いズルズキンにぴったりとマークされ、さらに他のポケモンたちから注目を受けながらも、負けじと素直になれない人間のお手本のような台詞を捲し立ててギーマに歩み寄っていく。
 その人間……はいつものファイルではなく通退勤時に見かける鞄から書類を引っ張り出しながら、頬杖をついて出迎えるギーマに対してあくまで仕事だと言い張った。昼間に打ち合わせを終えておかしなクイズをしてからも、また新たに用事ができたのだから帰宅ついでに寄るのも仕方がない、と。
 だが、そう言ってサイドテーブルに置いた“停電のお知らせ”、“宿所各種サービス一覧”なんかを渡すのは明日でも良いはずだ。なにも、わざわざこんな日の落ち切った時間に来なくてもいいはずなのだ。立派なソファで脚を組むギーマと、彼に撫でるのを中断され優雅にカーペットに伏せるレパルダスのそんな見透かしたような笑みを受けて、はふんと鼻を鳴らした。

「モヤモヤするから確かめてやろうと思っただけです!」
「確かめる?」
「あの変な答えの真偽です!」

 随分な言い草だとギーマは肩をすくめ、サイドテーブルの上のサメハダーのボールは何やら騒がしいが挑戦者の来訪かと血気盛んに揺れた。

 ──自分の好物は血であり、さらに正体は吸血鬼である。

 の言及する“嘘”とは昼にふたりが戯れに行いギーマが提示したクイズの答えのことだ。ささやかな心配を無碍にされたと思ったは、あれから仕事をこなしながらわざわざ律儀に夜になるまで待っても、まだ少しおかんむりらしかった。
 主人になにやら怒りを向けているが、相手はよく見知った人間だからどうしたものかと逡巡するキリキザンを、ギーマは片手を上げて制した。

「わたしは騙してなんかいないよ」
「だから、それを確かめに来たんです。私だって……ギーマさんが遊びとはいえ賭け事で、あんなくだらない冗談を言うとは思ってないですよ」

 真実を知りたければ夜に来い。そう言ったのは確かに自分の方だ、ギーマは頷く。
 の中では、ギーマは自分が夜に来るはずがないとあのような思わせぶりな台詞でクイズの答えを煙に巻こうとしているのではという負の疑いと、勝負師やギャンブラーとして誇りを持つギーマが正解をそんな風に誤魔化すだろうかという正の疑いが渦を巻いているようだった。
 小さく唸り、ギーマは口元に手を持っていく。その背もたれを足掛けに、ドンカラスは主人の困る様にも我関せずと毛繕いを続けていた。

「とはいえ……証明すると言っても、どうしたものかな。きみの目の前で醜く啜って見せるにしても、生憎、今はストックが無くてね……」
「私がいるじゃないですか」
「……正気か」

 わざと露悪的な表現も気にせずあっけらかんと自分を指差すに、ギーマの切長の目が僅かに見開かれる。なにせ、ギーマが実際にどうかはさておいても一般的に思い浮かべる吸血鬼のイメージからすれば、の言っていることは「自分に噛みついて生き血を啜れ」という提案に他ならない。念のため確認を取れば、はその通りだと事も無げに頷いた。

「え、だって、私でも持っているってことは、私でも良いんですよね?」
「確かに、昼間はそう答えたが……」
「それに、アレが本当に正当で間違いのない答えなんだとしたら元々それは敗者である私の支払うべき代償じゃないですか」

 嫌味なほどに念を押しながら、の目は真っ直ぐにギーマを見下ろす。彼女からしてみれば、仮にギーマの言葉が真だとしても、ホラー映画のモンスターように無闇に酷いことをするわけが無い、という純粋な信頼の表れなのだろう。

「ギーマさんのおそばで働いていて、賭けの結果に従わないような無粋はできませんよ。痛みくらい耐えてみせます!」

 もし身をもって体験したら流石に信じざるを得ないとつけ加えて笑うに、同じく真っ直ぐに見つめ返したギーマは……迷いを捨てるように溜め息をひとつ吐いた。

「痛み、ね……」

 ギーマ自身としてこのことで嘘吐きの誹りを受けても構いはしないが、彼女にそこまで言わせてしまっては……自分が手を引けないようにとわざわざ賭けの話を蒸し返し強調するその覚悟と信頼を無碍にすることは、それこそ無粋に当たるだろう。例えその瞳が好奇心で満ち満ちていたとしても。

「……確かに、百聞は一見に如かず、という言葉もある。いいぜ、きみが構わないならそうしようか」

 心配そうに寄るアブソルに問題無いよと笑みを返し、ギーマはくつろぐ手持ちたちを一匹一匹呼び寄せてボールに戻していった。邪魔にならないように距離をとったの脇を、ワルビアルがご主人に何かしたら許さないぞとまるで“いかく”でもするようにじっとりとした一瞥をくれながらのしのしと通り過ぎていく。四天王にまでなるくらいなのだからあの人が素晴らしいトレーナーなことは重々承知しているが、まったく、本当にポケモンたちから愛されているなあ……はそうギーマに感心しながら冷や汗混じりの愛想笑いで見送った。

「……さあ、おいで。きみの番だ」

 憩いの時間を邪魔してしまった申し訳なさから、今度カロスから全員分の好みのポフレでも取り寄せようかとが考えていると、残念そうに尻尾や両腕を垂らすドラピオンを最後に呼んだ時と同じように、ギーマの手が彼女に向かって揺れた。

「そばに来てくれないと実践してあげられないだろう? ほら、そんなマメパトが顔に豆をぶつけたような顔をしていないで……おいで」

 柔らかい声音に引き寄せられるようには再びギーマに近づいていく。しかし興味に胸を躍らせ目を光らせて目の前まで来ても、男は依然として、そして悠然と腰掛けたまま待っているだけだった。

「あ、私、しゃがんだ方がいいですか? 襟も邪魔ですよね!?」
「いや、そのままで構わないよ。ああ、もちろん、服もね」

 噛みやすいように膝を折ろうとするのも、同時にシャツのボタンに手を掛けるのも……意気揚々と提案した行動すべてを止められてしまい、は不思議そうな顔をする。
 ギーマは苦笑した。若干不満そうな彼女は恐らく創作の吸血鬼といえばというイメージで、やはり首に噛み付くのを予測、否、ある種期待していたのだろう。しかしいくら信頼してもらっているとはいえ一応は男性である自分の前で胸元をくつろげ首元を露出することにはもう少し躊躇いを持って欲しいものだ、と。
 それに……“最初から首なんて、彼女が耐えられるとは思えない”。
 だからギーマは、襟元から離れて所在無さ気に浮くの手をちょいちょいと手招いた。

「え? ここでいいんですか?」

 ギーマが掌を差し出すと、正面に立つ彼女は大人しくその手を訝しげに躊躇いがちながら重ねた。

「そうだ。いきなり首はなにかと怖いだろう? きみにとってもわたしにとっても、今日はお試しだからね。ああ、もし手も不安なら利き手ではない方で構わないぜ」
「……なんだか献血みたいですね」
「言い得て妙だ。実際わたしは助かるからね……きみはうまいことを言うな」

 指の一本一本を丁寧に曲げながら、ギーマの手はの手を掴んでいく。
 そうして、に心の準備をさせるように緩慢に、の注目を集めるようにわざとらしく、の心拍を上げるように優雅に……しかし、あくまで見た目はただの挨拶をするようにギーマは唇を寄せていった。
 しかし触れるか触れないかのその直前、ピタリと動きを止めた。

「……嫌になったら、すぐに言うんだぜ。いいね」
「りょ、了解です」

 ごくりと喉を鳴らし未知への関心と僅かな畏れが混ざった表情を浮かべながらも目を逸らすことなく返答する彼女を上目で確認して、まったく意地っ張りで好奇心旺盛だとギーマは声もなく口角を上げた。
 その笑んだ吐息がふわりと触れるのを、指先は敏感に感じ取ってしまう。それが、今までにありえないほどの近距離をにことさらに意識させた。
 まず触れたのは、手の最先端、中指の先だった。
 ほとんど爪に触れたようなものだと云うのに、完全に雰囲気に飲まれ緊張に包まれたの肩は面白いほどにびくりと跳ねる。

「……怖いならやめようか」
「や、やめなくていいです!」

 揶揄うように、しかし忠告のように“ちゅっ”と続け様に立てられたわざとらしいリップ音を誤魔化すように、は騒いだ。あからさまに羞恥で増大した声量には気づかないフリをしてやり、それではお望み通りにとギーマは遠慮を捨てて彼女の手を引き寄せた。
 そうして、唇の柔らかさ、厚み、温度……感触の全てを彼女の指先に、関節に、手の甲に……肌と神経にじっくり覚え込ませるように幾度も触れては離し、また角度を少し変えて、口付けていく。位置を上げていく度にちらりと見上げるその青く凪いだ瞳は、の顔色を、特に拒絶や嫌悪の色を見逃さぬよう伺っていた。
 対するは、早くも頭の隅からじりじりと焦げつき始めていた。
 普段ならもうとっくに帰路についている夕飯時、吸血鬼だとのたまう上司に、その口で自分の手を丹念に愛撫される。まるで非日常的な状況下。しかしそうだとはいえ、触れられる度にそのわずかな刺激をおかしなほど鋭敏に感じとってしまっている。
 ……指先にキスを落とされるというのは、“こんな感覚”だっただろうか?
 がどれだけ記憶を漁っても、今まで手の甲に落とされた誰のどんな挨拶のそれとも違う。自身の皮膚がもたらす反応が、焦りをじわりじわりと広げていた。

「…………」

 しかし、まだ、始まったばかりだ。正確に言えばにはこれから自分がどうされるのか、どれほどの時間を要するのか分からなかったが……少なくとも自分から啖呵を切った手前、手にただちゅっちゅと数度口付けられただけで真っ赤になって逃げ帰りました、などとは彼女のちっぽけなプライドでもとても認められそうになかった。は自分の様子をつぶさに観察してくるギーマの目を無理矢理見下ろし返すことで、肯定を示した。

「ひゃっ……!?」

 しかしながら気丈に続行を促したの瞳が揺れるのは早かった。合わせたギーマの目がわずか微笑むように細められたかと思うと、冷たいような熱いようなものがぬめりを伴い、中指の腹を掠めたのだ。

「おっと」

 反射的に引こうとするの手を、ギーマは少しだけ力を込めて引き止める。観察するの顔は、まん丸の目と、紅葉を散らした頬をしているのみだった。

「び、びっくりしただけ、です!」

 ギーマが続けるかと伺う前に、は動転に揺れた声を上げた。続け様に出るしどろもどろの言葉を繋ぎ合わせると「良いと言っているのだからいちいち止めないでいい」というのが主張のようだった。
 それもそうか、あまり心配しすぎるのも失礼か……彼女の虚勢、もとい気概を受けて、ギーマはそっと口元を綻ばせ自分より華奢なその手に目を落とした。
 しかし、まだがされたことといえば口付けと、ちょろっと舌先が触れただけであり……彼女にとっての責め苦は、ここからが本番だった。

 ***

「……や、だ、もう……っ!」
「ん? ギブアップかな」

 じゅ、と湿った音がの手のひらを楽しそうに吸う。あれからが息も絶え絶えに熱の籠った弱音を上げるまで、そう時間はかからなかった。10分か、もっと長く30分……もしかしたら、たった5分だったかもしれない。にもはや時間の感覚は無かった。いや、時間だけの問題ではない。紅潮しきった頬、涙目に蕩けた瞳……酔い始めのように頭も身体もふわふわとして、自身の感覚すらおぼつかなくなりかけていた。
 目の前で悠々と座る男に、手を舐められているだけだ。自分の手の甲を手のひらを、指を股を、余さずしゃぶりつくさんとばかりにじっくりと舌を這わせられているだけだ。だというのに、ここまで感触、神経、思考が乱れてしまっている状況に、はただただ狼狽するばかりだった。

「ちがいます、も、はやく……っ!」
「は……まだ、もう少しだよ」

 ちゅ、ちゅ、とギーマの愛撫が進む度に、は、は、とは浅瀬でもがくように次第に息を乱し始めていた。
 舌が、指に巻きつくようになぞれば腕を硬直させ、股の水掻きを弾けば肩を揺らし、爪と指の間をくすぐれば背筋を粟立てた。手の甲に口付けられれば目を潤ませ、手のひらを舐められれば吐息を漏らした。たった片方の手の刺激だけで、まるで全身を操られてしまったかのようだった。おまけに、時折響く水音と、喘ぎを堪えようとして漏れ出る鼻にかかった甘ったるい自身の鳴き声はひたすらにの羞恥を煽った。
 訳がわからない。の困惑は極みを見せていた。

「なんっ、で、そんなに勿体ぶって……!」
「くすぐったい? それとも……“気持ちが良い”かな?」
「きッ……!? く、くすぐったい、だけ、です!」

 やけくそ気味に荒げた語気に返された、笑みを含んだあけすけな言葉にカッと羞恥と怒りの血が昇る。思わず睨みつけるが涙目ではなんの迫力も無いのだろう、ギーマは至っていつも通りの涼やかな目を細めて自分の手を唇で喰むだけだった。

「簡単な話さ。こうした方が、ん、美味しくなるんだよ」
「んっ……うぅぅ……!」

 は呻いた。そう、これはギーマにとって“食事”の一環なのだ。だというのに“気持ちが良い”かなどと問われてしまうような反応をする自身のままならなさに苛立ちさえ覚えた。
 その様子を知ってか知らずか、ギーマは極めて優しい声を重ねていく。

「それになによりも、わたしはきみに痛い思いを、させたくはないからね」

 痛みどうこうと執拗に手をふやかそうとしてくる関連性は一切わからないが、もう痛くてもなんでも良いから早くすませて欲しい! が自分から痛みの選択肢を願うのは、流石に人生で初めてだった。
 心中の叫びが伝わったのか表情に出ていたのか、ギーマの唇が動きを止めた。その時は、一本ずつ咥えた指をその舌で指の細さや爪の形、皺の一筋までを覚えるように丹念になぞる愛撫を小指から始めてようやく5本目に差し掛かった頃だった。ギーマの唇に、の親指が爪先から呑み込まれ付け根まで姿を消してゆく。永遠にも思えるほど丁寧な愛撫が、じゅ、と指を咥える水音を最後に、ようやく止んだのだ。

「…………」
「ぎー、ま、さ……?」

 突然の静寂がの不安を煽った。呼びかける彼女への返答は言葉ではなく、舌とは違う硬い感触だった。親指と人差し指の間のふっくらとした柔い肉に、何かが突き立てられている。それは、間違いなく、昼間チョコレートを噛み砕いていた……ギーマの尖った歯だ。がそう直感すると同時。
 ──ぷつり。
 皮膚を貫く僅かな、しかし確かな感触。
 あれ? 明らかに注射針よりも太いはずなのに……全然痛くない。がわずかに残る理性でそう疑問に思えたのは、一瞬だった。

「……え? ぁ、あっ……!?」

 “きもちいい”。
 間髪入れずの脳で弾け、思考の全てを塗り潰したのは“快楽”だった。先程までのぬるぬると手を舐られている時の気持ち良さも異常なものだったが、それとは比較にならないほどの快感が走ったのだ。
 ず、ずず、ず……お試しだと言った通り、ギーマが吸う血はほんの僅かだった。しかしそのごく少量ずつ血が動く度に、それは起きた。たったそれだけで、の全身はザワザワと粟立ち、がくがくと震えた。力が、抜けていく。いっそ倒れた方が楽だったかもしれないが、はとっさに自由な方の手と額で身体を支え辛うじて立っているという状態を保った。ソファの肘置きには手をついた。しかし額は男の肩に押しあてられていた。もはや彼女にそれを気にする余裕もなく、そもそも気付いてすらいないだろう。

「〜っ……う゛、? ……ッ……」

 それは、まるで血管が性感帯になってしまったような錯覚だった。血液が吸い上げられる度に内壁をザリ、ザリリ、ザリ……と刺激しながら通り過ぎていく様を幻覚した。無理矢理に性感をなぞられるような感覚が、親指の付け根から腕を駆け脊髄を登り脳を痺れさせた。

「……へぇ……」

 しかし実際にギーマの口に入ったのはカップ一杯にも遠く及ばない程度の量、噛みつき吸った実時間もほんの僅かなものだった。
 ゆっくりと一口分の貴重な食事を嚥下したギーマの口端からは、何かに感心したような声が溢れる。だが、もはや襲い掛かると表現しても良い程の強烈な感覚の波にとらわれ恍惚を耐え忍ぶ彼女の耳に届くことはなかった。

「は、あぁ…………ぅ熱ッ!?」

 ずるり、変わらず痛み無く、体内に侵入していた硬く鋭い牙が抜け出ていく。呆然としながらそれにすら吐息を漏らしたが、突如悲鳴を上げた。
 ギーマが、歯の埋まっていた孔に今度はとがらせた舌先を突いたのだ。ぐりぐり、丹念に刷り込むように突つかれ、舐られる。その度に熱を伴って、じくじくした。しかし、痛い、と言うよりも痒かった。熱痒い、と言うのだろうか。えも謂れぬ感覚にが反射的に腕を引きかける。だがギーマにそれを決して許さないとばかりに力を込められては、今にも腰が抜けそうなの力ではビクともしなかった。

「……ごちそうさま」

 ちゅ、と最後の音を立てて、ギーマの口が離れていく。そうして、どこからともなく取り出したハンカチで口を拭う様は正しくレストランでディナーでも食べ終えたかのような優雅さだった。
 その一方で、ようやく解放されたはへなへなと肘置きに突っ伏して今度こそ全体重を預けながら、息を整えようと努めていた。喉が渇いて、気分があらゆる意味で悪かった。
 彼女の気分を把握してか否か、ギーマは腰を上げてそっと彼女に自身の椅子を明け渡した。ぐったりと座面と背もたれに身体を沈めたは、まだ火照る頬と荒い息のまま、ぼうっとギーマを見上げる。

「おわっ、たんです、か……?」
「終わったよ。……安心してくれ、ほら、傷は残っていないはずだぜ」

 ギーマはそう応えながら、彼女をエスコートするために再びとったその手をサラリと撫でる。がそこに意識を向ければ、確かに彼の牙に貫かれたはずの傷は消えていた。少なくとも、パッと見てわかるような痕跡は無いように思えた。未だ、皮膚の下でじんじんと僅かにうずく違和感の余韻はあるが。

「わたしも上手くできるか不安だったが……杞憂だったな」

 まるで作品を評価でもするようにの手をまじまじと眺めて、ギーマは満足気とも安堵ともとれる笑みを見せる。誰かから直接いただくのは本当に久々だったからとつけ加えつつの顔に目を向けたが……その彼女はもう一方の手で自身の顔を覆ってつむじを見せるだけだった。

「おいきみ、どうしたんだ」
「……」
「もしかして、具合が悪いのか」

 ギーマは耳を澄ましたが、彼女の息はもうほとんど平静を取り戻しつつあるようだった。握った手や腕にまだ力こそ戻っていないが、もう一方の隙間から見える頬の血色は悪くないように思えた。ではいったい、とギーマが若干の焦りを滲ませた頃、蚊の鳴くような声が聞こえてきた。

「は、恥ずかしい、だけです……あ、いいい今、笑いましたね!?」
「……きみが可愛らしい反応をしてくれたから、安心したんだよ」

 はまさか醜態を晒すことになるとは夢にも思っていなかった上、落ち着いてくるにつれだんだんと“あなをほる”で隠れたい気持ちでいっぱいになっていた。ギーマの言葉に嘘は無かったのだが、耳に入る安堵の笑みを揶揄われたと受け取ったのだろう。そうして威嚇のような呻き声ぐるぐるぐうぅと漏らすばかりの彼女に、ギーマは肩をすくめた。

「吸血が“ああいうもの”だと言わなかったわたしが悪かったよ。……だから、顔を見せてくれないか」

 努めて優しくギーマが謝罪を数度繰り返したところで、ようやくの手が不承不承といったふうにゆっくりと離れていく。まだうっすらと染まったままの頬の上で、じっとりと照れと怒りを滲ませた両目が現れた。
 すうう、はああぁ……。は大口を開けて、開き直るようにひとつ、肺いっぱいのため息を吐き出した。

「……色々、言いたいことはありますけど……」
「わたしの潔白は証明されたのかな?」
「……信じは、します。けど……まだ、正直、受け止めきれてません」

 抜けた力が戻り切っていないのか、若干ふわふわとした発声だ。それでもまともに受け答えが返せている様子に、ギーマは口元に手を当てて薄く微笑むいつもの仕草を繕いながら、彼女の言葉の続きを待った。

「きゅうけつき……いや、だって、まさか、本当にいるとは思わないじゃないですか……」
「そうかな、サイキックが居るんだぜ? それに比べたら吸血鬼……平たく言えば血が好物ってだけの人間が居てもなんら不思議はない、むしろ物を浮かせたりするよりかは現実的だと思わないか?」
「……そうかな……うーん……そうかも……?」

 はむにゃむにゃと肯定を返すだけに留めた。ぐったりと疲弊しきった彼女から見れば、今のギーマはいささかいつもより上機嫌で饒舌に思えた。きっと“好物”を口にできたからなのだろうか。ただでさえ普段から自分より上手な彼と、この状態で無駄に舌戦を交わす余力はもう彼女には無かった。

「どうやら、きみはわたしと相性が良いのかもしれないね」
「あいしょう……?」

 それよりも、と真面目な雰囲気で、しかしやはりどこか浮ついた声で語り出すギーマに、はとりあえず緩慢に首を傾げて相槌を打った。

「そう。これが良いと、わたしは美味だと感じるし……相手は快楽を拾いやすくなる、と聞いていた」
「……ギーマさんの、ご感想は」
「……美味しかったよ。とてもね。掛け値なしで、今まで口にした中で最もと言って良いほどだ。正直、わたしも驚いている」

 そう答えるとすぐ、ギーマは何かを考え込むように口を閉じてしまう。
 片やの頭には、突然自分の人生に現れた吸血鬼いう好奇の塊に聞きたいことは山ほどあった。何から、どこから聞こうかと悩みつつ口を開いたが、同時にギーマの手に肩をひとつ叩かれて制されてしまった。

「続きは、また今度にしようか。わたしは構わないが、きみは疲れているはずだからね」

 ギーマの労りに対して、は開けた口で疲れていないと食い下がろうとした。
 しかし彼女の性格をよく知るギーマは、それを予見したように青く落ち着いた瞳を合わせて、ただ彼女の目をじっと見つめる。気圧されたその口が徐々に小さくなっていくのを確認してから、ギーマは続けた。

「無理はしなくていい。慣れない感覚にさらされたことはもちろん、少しとはいえ血を失っているんだからね。……大丈夫、わたしは逃げないし、きみが聞きにくるのならば、答えられる質問には答えてあげよう」

 そうとまで言われてしまえば、“どうしても今この場で聞かなくてはならない質問”が浮かぶわけでもなく、は渋々と頷いた。
 それに、は先ほどの衝撃の体験のせいだと思っていたが……指摘されてみれば確かに、なんとなく気怠さが全身を覆っているような気もするのだった。軽く肩を押されただけで背もたれに張り付いてしまった身体も、そういうことなのだろう。

「リーグ入口のポケモンセンターにはわたしから連絡を入れておくよ。今日はそこで部屋を借りるといい」

 本当は家でゆっくり休んだ方が良いのだろうが、時間も遅く体調も優れない女性をそのまま帰すわけにもいかない。そうじっくりと言い含めながら、ギーマはひとつのボールに手をかける。ポンと聞き慣れた音と共に、つい数十分前に見かけた彼のポケモンが姿を現した。

「ばん、ぎらす……?」
「人目が気にならないのであれば、わたしがきみを抱いて連れて行ってもいいぜ」
「……バンギラス、ごめんなさい、おねがいします」

 ぎゃお、頼もしい声がひとつ上がった。


あとがき
吸血鬼の設定は色々と独自ご都合設定を盛るペコしています。ふわっと楽しんでいただけると幸いです。 (220925)


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