頭痛と共に響く呼び鈴に、ずうんと重たい目蓋をこじ開ける。同じくやたら重たい布団を押し退けた。……ああ、寒気がする。昨日から続く発熱はまだ落ち着いてはいないらしい。念の為今日もお休みをとっておいて良かったと思う。そんなことをぼうっとする頭で考えながら、空気の読めない来客に応えるために気怠い身体を引き摺っていく。
 なんとか玄関に辿り着きドアを開けると、そこにはどう考えても私よりずっと不健康そうでよっぽど風邪をひきそうな見た目の男が佇んでいた。白い着流しにゆったりと揺れる黒いマフラー、ついでに膨れた風呂敷などぶら下げて……憎たらしいほどに風流な装いだ。そのヒョロ長い男は私の顔を見るなりいつものハの字眉で苦笑した。私の顔色か、はたまた睨み上げる目つきか、とにかく余程ひどいらしい。
「まさか、きみの方がが風邪をひくとはね」
「さいあくですよ。せんげんどおり、ごほっ、うらみますよ、ギーマさん」
 ……まず、何故この人は私の社宅を知っているのか。私はパシオへ招待されたバディーズを歓待する職員として、ギーマさんのことはリストだけでとはいえ顔と名前と登録されたポケモンのことは知っている。でも、反対にこの人は私のことなどろくに知らないはずだ。ポケモンセンター内でギーマさんを見かけたことやカウンター越しに対応をしたことはあれど片手で数える程度だし、それこそ私的な接触など一昨日の夜の海辺が初めてだ。
「ああ……親切な職員を捕まえてちょっと聞いたら、教えてくれたぜ」
 私の隠す気もない怪訝な表情を読んでか、クマだらけの眼を得意げに細めてサラリとそう宣った。呆気に取られているうちに、まあそんな話はどうでもよいだろうと背中を押され、薬は飲んだのかいと流れるように玄関から寝室まで導かれ、温かくしてよく眠るんだぜと再び布団の中に丁寧に転がされてしまった。
 いや……一応女性の個人情報だぞ、どうでもいい話ではないはずだ! 手元で癖のようにくるくる弄っているあのコインで聞き出したのだろう。同じようにくるくる操られ受ける必要のない賭けに乗らされた挙句負けて情報を吐いた裏切り者は一体誰だ!
「とはいえ、わたしはきみの名前も知らなかったから、少し手こずったけれどね」
 そういえば一昨日は名乗りすらしなかったのか。波打ち際での息抜きを思い出すと、ただぼんやりと星空を見上げながら波の音を楽しんでいただけだったし、確かに雑談らしい雑談のひとつもなく「……眠くなってきたな。きみ、ひとりで帰れるかい」の一言で穏便に解散しただけだ。あなたに言われたくないです、あなたこそ無事帰ってくださいよ、と突っぱねたら愉快そうにしていたが……もしや、私の方が無事じゃなかったことを笑いにでもきたのだろうか。
「そう警戒しないでくれ……わたしは、これでもきみの体調に責任を感じてここにいるんだぜ」
 思ったよりは元気で安心したよ、なんて吐息を溢しながら、いつの間にか私のおでこに手を当てていた。私の頭が熱で鈍っているのもあるだろうが、ギーマさんは本当に人の隙を突くのがうまいようだ。さっきからどうも思う通りにされてしまっている。我が物顔で寝室まで入り込まれている状況はどう考えてもおかしい。
「まあ……様子を見に来ただけだから、用事が済んだらすぐ帰るさ」
 すう、と視界が暗くなる。さっきまで額にあった手で目元を覆われてしまったようだ。やめてくださいと言おうとしたけれど、ギーマさんの幽鬼のような見た目にふさわしく……いや、今は私の体温が高いだけか、ひんやりと冷たい手と指がじんわりと目元に火照る熱を吸い取ってくれて……その心地良さに、重たいまぶたはもう限界を迎えて、私は自分でも驚くほどすぐに意識を手放してしまった。
「ゆっくりおやすみ。ああそうだ、…………」
 何か、最後に声が聞こえた気がしたけれど……微睡みに溶けて、理解はできないまま消えてしまった。

 なんだか、あまいにおいがする。
 少し軽くなった目蓋がゆっくりと開いた。いつの間にか、窓の外は橙色に満ちている。随分と眠っていたらしい。静かだ。あの男はもう帰ったのだろうか……確認ついでに、湧き起こる僅かな乾きと飢えを訴える身体に応えるべく私はベッドから降りた。
 家の中にふんわりと漂う香りを辿っていけば、キッチンにたどり着いた。正体は分からないがとりあえず喉でも潤すかと流し台に寄った時、ふと横のコンロに目が留まる。あれ、あの鍋何に使ったっけ? 首を傾げつつ触れてみると、まだ少し温かかった。
「……お粥……?」
 蓋をずらしてみると、白いものが目に入った。ふわりと鼻をくすぐる甘い匂い……探していた物は、どうやらこれのようだ。水切り籠の濡れた匙を手に取り掬うと、ほろりとくずれた。……いわゆるミルクパン粥というやつのように見える。鍋の中身は分かった。それは良い。次の疑問は、いったい誰がこれを? 首を傾げるまでもなく、選択肢は1人だ。私じゃないなら、今日この家に足を踏み入れたのはギーマさんしかいない。
 ……え、じゃあギーマさんがこれを作ったってこと? そういえば元々はイッシュの出身だと聞いたことがある。あっちではこれが病人食だとも聞いたことがあるけれど……そう考えると、やっぱりこれを作ってくれたのはギーマさんなんだろうか。ああ、段々と寝る寸前に聞いた声は「キッチンを借りるぜ」とかそういうものだったような気がしてきた。とすると、あの見慣れない風呂敷の中身はこの材料たちだったのだろうか。行儀悪く立ったままだけど、せっかく掬ったその匙を口に運ぶ。ぬるい。でも優しい甘さが柔らかく広がって、するすると滑り込んでいく。
 ギーマさんはよく分からない、どうにも胡乱な雰囲気の男だけれど……どうやらただただマイペースなだけで良い人であることは間違いないらしい。そういえばポケモンセンターで少年少女トレーナーたち相手にアドバイスをする様子も見かけたことがあった。まあ、一昨日ちょっと関わっただけの人だからよく分からないのも当然か。
 からん。匙が鍋底を叩く。考え事をしていたら、あっという間に鍋の中身が消えてしまった。今日は何も口にしていなかったことを今頃思い出した。だからというわけだけじゃなくて、素直に美味しかった。明日休憩時間にでもお礼を言いに行かなくては……お腹と共に、感謝の気持ちが温かく私を満たしてくれた。
 そうしてまたうとうとと重くなる目蓋に従って幸せに布団に潜り込む私は、しかしながら翌日出勤して──あの男が同僚から私の情報を聞き出すためだけに「これは秘密にしておいて欲しいんだが……実は、彼女に無理を言って昨晩遅くまで付き合わせたのはわたしだからね……」などと意味深に嘯いたことを知り──お礼どころか脳天まで血を登らせて怒鳴りに行くことになるとは……文字通り夢にも思わなかった。


(221012)


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