リク:ストーカーA▲


 この場の全員が呼吸の仕方を今まで忘れていたかのように、劇場内はシンと鎮まり返っていた。色とりどりの幕が白く消えると一斉に息を吹き返し、少しずつざわめきを取り戻していく。
 ……久々に、あたりの映画だった。仕事を終えてからレイトショーに滑り込んだ甲斐が十分にある、良い体験だった。物語の終着点に向けて怒涛に押し寄せる幾重にも重なった展開、それを余すことなく表現する俳優、女優さん、ポケモンたちの演技力。圧倒されてしまって、館内に照明が戻ってなお私は自然と頬を伝う涙をそのままに呆然と椅子から離れられないでいた。
「……素敵なお話でございましたね」
 隣に座る男が、しんみりとした雰囲気で口を開いた。座席に残っているのは、いつの間にか私と彼のふたりだけだった。落ち着いたその声につられそちらを見ると同時、ついと男が腕を上げた。
「貴方様が感動される際は……このように綺麗な涙を零されるのですね」
 ふ、と優しく柔らかく微笑んだ彼は、その目元口元と同様の仕草で私の目元を拭った。まるで愛しい人へと向けるように親密なその瞳と指先に……私は荷物を引っ掴んで映画館を飛び出した。
 息が上がりそうになるほどの早歩きで風を切る。中途半端に拭われた目端と頬が冷やされ、全身がぶわりと粟立った。
 何? 今の何? 誰? 何? ……私の頭はぐるぐると混乱を繰り返した。男の指のひどく優しい感触を思い出して、身震いする。恋人だなんてとんでもない、あの男は、全くの赤の他人、見知らぬ人だ。ああもう、最悪だ、映画の余韻が台無しだ! まるで私のことを知っているような口振りも気持ちが悪い。まったく、変なナンパだった。
 そうこうしているうちに駅に着く。運良く間を置かずに目的の電車がやってきたのでホームに留まることなく乗り込むと、すぐに電車は走り出してくれた。私はドアに寄りかかり、ようやく安堵に胸を撫で下ろす。もしあの男が映画館から追いかけてきていたらどうしようかとヒヤヒヤしていたが、このタイミングならば同じ電車には乗れなかっただろう。
 それから私は少し弾んだ息を整えつつ、座る席を探そうとのんびり車内をうろついた。とはいえ、終電近い時刻の電車はひと気が無くどこでも選び放題だ。私は適当な席に腰を沈め、先ほどの嫌な気分を払拭しようとパンフレットを広げた。観る前に買うかどうか少し悩んだけれど、映画は文句なしに面白かったのでやっぱり正解だった。
 カツ、カツ、カツ……。
 ページをめくり始めて少しした頃、固い音が聞こえてきた。走行音とアナウンスしか無い空間だと思っていたが、他に人が誰も居ないと靴の音はこんなにも響くものなのか。ほんの少しだけそう意識を割いて、私はまた監督のインタビューに集中した。
 カツ、カツ……カツン。段々と近付いて来ていた足音が、止まった。同時に蛍光灯の光を遮ってパンフレットに影が落ちる。……読みにくい。他にいくらでも席があるのにわざわざ正面に立つなんて、一体なんのつもりだろう。変なやつに絡まれるのはさっきだけで十分だ。
 顔を上げた私を待っていたのは、男の優しく柔らかい微笑みだった。
「もうひとつ隣の車両に移られますと、ホームに降りた際にすぐ目の前に階段がございますよ」
 ……私は、荷物を引っ掴んで電車を飛び降りた。最寄りの隣の駅で幸いだった。これくらいならば徒歩で帰れなくもない距離だ。何かあっても相棒のポケモンと一緒ならばなんとかなるはずだ。息を荒げながら夜道を駆ける。日頃の運動不足のせいで苦しいが、そうも言っていられない。全身にぶつぶつと立つ鳥肌が危機感を煽った。
 訳が分からない。どうして映画館の男が電車に居たのか。どう考えても私の後ろを追っていたら間に合うようなタイミングじゃなかった。加えて男の言葉を思い出して、背筋に汗が伝う。もしかして、私の最寄り駅を知っている? 利用する路線も知っていて先回りされた? なんで? どうして?
 運良く野生のポケモンたちに出くわすことなく、相棒をボールから出すようなこともないまま、住み慣れたアパートのエントランスに駆け込むことができた。照明の光に涙が出そうになる。でも、安心するにはまだ早い。鞄の中に性急に手を突っ込む。鍵を探す。オートロックは普段はとてもありがたいが、今はただ自動ドアの向こうの安寧がもどかしかった。
「ハァッ……ハァッ……」
 走ったせいで乱れた息が、焦りと区別がつかなくなっていく。どうして、なんで。いつものポケットに、鍵が見当たらない。滅茶苦茶に鞄の中を探っても、それらしき感触がない。混乱と恐怖で、息苦しさがおさまらない。じわり、映画で緩んだ涙腺から、映画とは違う感情で視界が歪みはじめる。
「──様」
 ひ、と喉が引き攣り、身体がこわばる。動けない。肩に置かれた手から、何かわざでも掛けられているかのように。男のもう一方の手が差し出される。その掌に乗っているのは、見覚えしかない私の相棒ポケモンを模したキーホルダーと、そこに繋げた鍵だった。
「鍵、落とされましたよ」
 ふふ、と嬉しそうな微笑みがすぐ横で耳をくすぐる。脊髄が氷っていく錯覚に陥る。
「それだけでなく、突然駅を間違えて降車されるから驚いてしまいました。意外と慌てん坊さんでございますね。おや、どうされたのですか? そのように怯えた顔を……やはりこの暗い夜道は怖かったのでしょうか……お可哀そうに。しかしご安心ください! 貴方様が走って行かれようとも、わたくしがしっかりと、付かず離れずお守りしておりますよ。ですから、様はなにも怖がることはございません」
 言葉の通り、私を安心させるように、彼はいたって優しく柔らかく私の手を握り込む。その手、そして私を見つめる瞳の熱さと、押し付けられる鍵の冷たさに気がおかしくなりそうで、私は思い切りその手を振り払ってしまった。
「あ、あな、あなた、だ、れ……」
 がちゃ、がちゃがちゃ……鍵穴の側で金属が小刻みにぶつかる音が耳障りに鳴る。情けないほど手が震えていた。あれだけ必死に突き飛ばしたつもりなのに、男と私の距離はほとんど開いていなかった。
「これは申し訳ありません! いつもわたくし、貴方様のことを陰日向なく見守っておりましたので、つい既知の仲でいるつもりでございました。先程の、感性豊かに涙する貴方様が……あまりにも素敵で愛おしく、わたくし、いよいよ想い溢れてお声掛けをしてしまいまして……」
 私の拒絶も焦りも気にする様子ひとつなく、わたくしもうっかり屋でございますねと照れ臭そうな笑い声が、鍵の音以外は何も無いエントランスに響く。頼むから誰か通りがかってくれと何度も何度も祈るも、レイトショーを終え一部徒歩で帰ってきたこの時間では足音ひとつ聞こえてこなかった。
「わたくし、ノボリと申します。様のその可憐なお口とお声で、そう呼んでいただけましたら幸いでございます」
 また背中にくっついてきた男はその手を伸ばし、私の手を再び包み込むようにして鍵を支えた。カチャリ……軽い音と共に鍵が穴に沈んでゆく。あくまで優しく柔らかいその手つき。ぞわぞわと毛虫がまとわりつくような気色の悪さに吐き気がした。ゆっくりと私の手ごと鍵が回されると、自動ドアが開いた。私は鞄をぶつけながらも、まさしく逃げるように駆け込んだ。ちらりと一瞬だけ振り返る。男は、追って来てはいなかった。
様、また明日お待ちしております。……おやすみなさいませ」
 締まりゆく自動ドアから垣間見えた綺麗なおじぎ。その姿勢はどこかで見たことがあるような気がした。気のせいだと思いたいが、まるで私を付け回しているかのような男の発言を思い返す。お待ちしております、とはどういうことだろう。分からない。しかし当然安心することも一睡もできないまま、私は朝日を迎えてしまった。それでも、悲しいかな仕事には行かなくては。フレンドリーショップで人間用の栄養ドリンクを買っていくしかないだろう。せめて仕事帰りにジュンサーさんに相談しに行こう。ぼんやりとした頭と目で身支度を整えて、私はいつも通り駅に向かった。
様、おはようございます! 前からお伝えしようと思っておりましたが、五番目の車両にご乗車されますと……おや」
 駅のホームで見かけたその優しく柔らかい微笑みに、私はありったけの金切り声を上げた。


あとがき
(220817 修正221201)


よかったなあとかあればポチッと→ ❤❤❤