「このコーヒー、あなたが淹れたものでしょうか」
 ひ、と怯えが口から飛び出さなかった自分を褒めてやりたい。
 ホームでお客様たちのご案内などの現場仕事を終え、さてこれ以降は書類仕事、でもその前にちょっと休憩でも挟もうか。そんな感じで、私はいつものように休憩室……とは名ばかりの給湯室の隅っこに勝手に椅子を持ち込んだだけのそこで、コーヒーを舐めながらぼんやりと頭を空にしてくつろいでいた。そんな時に、突然真横にヌゥッと黒くて大きな影が現れたのだ。共に言葉が降ってこなければ、ゴーストポケモンでも湧いて出たのかと叫ぶところだった。
 驚いた拍子に波打つコーヒーを溢さないようにマグカップを抑えて、私は声の主を確認しようと首を捻った。歪みなく綺麗に直線的なシルエットを作る黒いコート。皺ひとつ無くパリッとした白いシャツに、優雅に下がる青いネクタイ。それらが視界に映った時点で、私の頭は驚きから混乱に変わっていた。なんで、ここに。なんで、このお方が。この職場を象徴する、なんならライモンシティ名物まであるあまりにも有名すぎるその制服を着こなす役職はただひとつ、そしてただふたりだけだ。そしてコートの色を見れば、ひとりに絞られる。もはや顔を確認するまでもないが、首の角度をさらに上げていく。腰掛けたまま仰ぎ見るには高すぎて首を痛めそうなそこには、やはりやはり特徴的な黒くて大ぶりの制帽が乗っている。
「ノボリ、ボス……⁉」
「はい」
 鍔の下では、感情の読めない瞳が私をぎょろりと見下ろしていた。なんで、ここに! なんで、この人が? ぐるぐると同じ言葉が頭を巡る。
 ここら一体の交通網の中心、そして何よりこのバトル施設の頂点に立つ〝サブウェイマスター〟がひとり、ノボリボス。普段はバトル用の車両で挑戦者を待ち構えているか、そうでなければ管制室やエリート部署バトルサブウェイの事務所や、それこそ役職にふさわしい執務室なんかで日々激務をこなされているようなお方だ。少なくとも、こんなギアステーションでも辺境で、省エネや経費削減と謳いながら蛍光灯を一本抜かれてしまうような斜陽部署の薄暗い給湯室に足を運ぶようなお人ではないはずなのだ。
「……あっ! し、失礼、いたし、ぁ痛ッ!」
「……落ち着いてくださいまし。かけたままで結構でございます」
 落ち着けるわけがない。サブウェイマスターは、月一定例の始業で挨拶を聞く際に姿を拝む程度で、当然会話なんて一度もしたことも無いような文字通り立ち位置もバトルの腕前も雲の上、天上の存在だ。そんなとんでもなく偉い人を前にして悠々と座っているという由々しき事態に冷や汗を吹き出しながら立ち上がろうとしたが、狭い給湯室のその片隅ではうまくいかず、椅子の脚に自分のそれを引っ掛けて自分に膝カックンをしてしまった。
 私の情けない慌てっぷりに対して、片手を上げて制するノボリボスは表情ひとつ変えない。こんな下っ端からしたら逆に慇懃無礼に感じてしまうほど丁寧な言葉遣いにへの字に曲がった口。いつお見かけしても常に変わらないそれらからは、気難しいか厳しい人の印象がこびりついていて……もう私はこの状況に気が気ではなかった。
 何をどう受け答えしたものか、いやまずは挨拶をしなくては、いやいやそれより現状の無礼をお詫びした方が……! 思考と言葉が事故渋滞して私が口をぱくぱくさせていると、ちゃぷん、と私の手元からではない水音が響いた。
「どうやら、驚かせたようで申し訳ありません。これを淹れたのが誰かをお伺いしたかっただけなのですが……」
 ……そういえば、初めにコーヒーがどうとか仰っていたような気がする。驚きすぎて頭からすっぽ抜けてしまっていたが。背が高いからか、コートが大きいからか、全身黒いからか、三白眼だからか、とにかくただ見下ろしているだけで威圧感のあるノボリボスの手には、よく見たらマグカップが握られていた。先ほど私の注意を引くように音を立てたのはあれだろう。
「あ、はい、私……ですが……」
「こちらは、いつもあなたがお作りに?」
「ええと、だ、だいたい、は……」
 この給湯室には、何年か前にここら辺に所属していた鉄道員さんが持ち込んだらしいコーヒーメーカーがある。古いけれど、質はとても良い。だから、以前はせめてインスタントじゃないコーヒーを飲みたい人が自前で豆を持ってきては各々好き勝手に使っていた。私も例に漏れずそのひとりで、ここ半年ほど色々な豆を喫茶店で分けてもらってはここでブレンドするのにすっかりハマってしまっていた。
 豆を混ぜているといつも多めに作ってしまうのだけれど、淹れるだけ淹れて置いておけば余った分は他の誰かが飲んで私の代わりにコーヒーメーカーを洗ってくれる……そんな習慣がいつしかこの給湯室では常態化していた。コーヒーを口にした同僚たちからはたまに味の感想だったりお礼のお菓子を貰えたりするので、仕事の合間のちょっとした楽しみとして私の趣味になりつつあった。
「なにか、ありましたでしょうか……?」
 もちろん、今日もいつも通り数杯分のコーヒーを作っていた。どうやら、ノボリボスの手元で湯気を立てているのはそれらしい。いや、確かに、先ほど壁のシミを無心で数えている時にかちゃかちゃと音が聞こえたような気がしていたけれど、あれがまさかこんなお偉いさんだとは一ミリたりとも思いつきもしなかった。どうしよう、多分、普段ここを使う同部署の人たち向けの「おつしゃえーす……」みたいなだらけきった挨拶を呆けたまましたような気がする。いや失礼にも程があるだろう!
 しかも言いようによっては、完全に今の私は仕事中に私物で趣味に興じている状況なわけで……ううん、これは〝なにかありましたでしょうか〟じゃない。クビには流石にならないだろうけれど、何かしらの叱責は覚悟しておいた方がいいのかもしれない。座ってるのに、眩暈がしてきた。
「なるほど、あなたが……」
「……ヒッ!」
 今度は、もう堪え切れず悲鳴が漏れてしまった。なにせ、はるか頭上にあったノボリボスの無機質無表情の顔がずずいっと近づいてくると同時に、ノボリボスの空いている手が私の肩を握りつぶすつもりかという力と勢いで伸びてきたのだ。もうずっと感じてる威圧感と圧迫感が増し増しだ。私は、ノボリボスの影の中でびくびくと縮こまることしかできなかった。多分、今誰かが給湯室に入ってきたら、何故か壁の隅を覗き込んでいるノボリボスの後ろ姿を見て困惑するだろう。この距離で叱られるのは勘弁願いたい。
 身をすくませ口を引き攣らせて沙汰を待つ私をじっと見つめていたノボリボスの口が、かぱりと開いた。
「ブラボー‼」
「……え」
 くらくらする。眼前で、突然大声を出されると、こうも目が眩むのか。さっきの不安からの眩暈よりはマシだが、頭の中で残響が耳鳴りを起こしている。率直に言うと、耳が痛い。
 色々と堪えながらパチパチ瞬きをする私を気にせず、ノボリボスの口はパクパク動き続けていた。
「あれは三ヶ月ほど前のことでしょうか。たまたまこの近くに訪れた際に香りにつられて頂戴したコーヒーの美味しさに、わたくし非常に感動いたしまして! あれから、機会があればこちらに足を運び、コーヒーを頂く御礼にとお茶菓子などを置かせていただいておりました」
「……ああ!」
 ひとつ、合点がいったことがある。時折、やたら高級なクッキー缶やチョコレートなんかが置いてあって、一体これは誰の仕業かとみんなして首を傾げていたけれど……ノボリボス、あなただったのか、差し入れをくれたのは。
「いずれは直接お礼を、と思っておりましたが……ようやくお会いできましたね。わたくし、感無量でございます! 今日のものも大変素晴らしい、ブラボーでございます‼」
 パシャパシャとお互いの手元でコーヒーが跳ねる。揺さぶられ続ける私の肩はそろそろ外れそうだ。視界いっぱいに広がる仏頂面。なのに声量と勢いがヒートアップしていくノボリボスの様子にいささか恐怖を覚えながら、一応感激をして褒められているらしいことに礼を返した。
「ええと、はい、あっりがとう、ござい、ます……たいした、っものでもありませんが……!」
「とんでもない、クダリも感心しておりましたよ。実に素晴らしい御点前です」
 〝クダリ〟とはもうひとりのサブウェイマスターの名前だ。黒のノボリボスに対して、白を基調とした方のボス。私はあちらとも関わりはないが、いつ見ても逆三角形の口で笑っていて、ノボリボスとはまた違った怖い印象を持っている。
 サブウェイマスターのふたりはロボットらしいぞ、ああだからあんなにバトルが強いんだ……とかなんとか、鉄道員の間では鉄板の雑談ネタをふと思い出してしまった。他にはその正体はポケモンだとか宇宙人だとか色々と言われているこの人たちも、嗜好品に舌鼓を打つことがあるんだなあとなんだか不思議な気分になってきた。
『ノボリ、どこにいるの。挑戦者、もうすぐ来るって』
 数度の耳慣れない着信音の後、私の肩を掴むその手首が光った。そこに映るのは口の形以外は目の前とそっくり同じ顔、噂をすればカゲボウズと言うけれど……あれはもう一人のサブウェイマスターだ。ようやく私を解放したノボリボスはライブキャスターに二、三言告げると画面を消した。
「なんと、もうこんなお時間ですか……。ああ、失礼いたしました! わたくし、サブウェイマスターのノボリと申します」
 いや今更か⁉ まさしくお手本と言えるほど綺麗な敬礼と共に自己紹介を頂いてしまったが、それを知らない人なんてこの職場どころかこの街にだっていないレベルじゃないだろうか。依然として至近距離で放たれる大声に再びちかちかしながらもなんとか自分の所属と名前を伝えると、ノボリボスは満足げに頷いて下さった。……相変わらず表情筋が死んでいるので満足げなのかどうかは完全に推測だけれど。
「是非、今度はさまが豆を挽くところから拝見させてくださいまし」
 最後にそう言い残して、ノボリボスは立派なコートを翻し上機嫌そうな靴音と共に去っていった。
 ……嵐のような時間だった。休憩どころか、緊張してむしろ余計に肩が凝ってしまったような気がする。
 ピロン、ピロン。私のライブキャスターが、初期設定のままの簡素なメッセージ通知音を立て続けに響かせた。まだ衝撃に呆けているまま、私は画面に目を落とす。一通は同僚からでそろそろ休憩から戻ってきて欲しい旨、そしてもう一通は見知らぬアドレスからだ。一応このサブウェイ関係者のドメインであることを確認して開けば、やはりというべきか……ノボリボスからだった。
〝こちらがわたくしの連絡先でございます。また後ほど、さまのシフトの確認をさせていただけますでしょうか。〟
 先ほどここを後にしてからバトルトレインに向かうまでの間に、私のアドレスを調べてこのメッセージを書いたのか。まあ、サブウェイマスターは〝マスター〟ってつくくらいの職位だから別の部署の職員データくらいは参照できるか。バトルだけでなく仕事もできるという評判は聞いていたけれど、本当に行動が早い。すっかりぬるくなったコーヒーをあおる。まだ現実味に欠けている。私なんかが、まさかサブウェイマスターのお一人と関わり合いになるとは。貴重な休憩時間を、本当に私と共有したがっているなんて。
 まあ、あちらは忙しい身の上に、ここから少し離れた場所で働く人だ。ノボリボスの口にした〝今度〟がいつになるのかは不明だけれど、その時にはひとまず一介の下っ端鉄道員に〝さま〟だなんて敬称をつけるのをやめてもらうところからお願いしよう。そう思いながら、私はライブキャスターの新規連絡先登録画面を開いた。


あとがき
(220217 修正221201)


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