この人、地上勤務だったら夏は地獄だろうなあ。全身黒づくめの腕から覗く白い手袋と包帯が眩しい。救急キットから出てきたそれが、簡素な丸椅子に腰掛けた私の足首をくるくると周りながら、小さくなっていく。
「……〝サブウェイマスター〟も、こんな雑務する、んだ」
 眼下に跪く男にぽつりとそうこぼすと「意外ですか」という返事と共に、黒い帽子、黒い鍔の下からぐるりと三白眼が見上げてきた。彼の纏う皺一つ無いロングコートの裾が床にべったりついていることも、掠れや汚れひとつないスラックスの膝を小娘の素足のふみ台にすることもまったく気にする様子はない。男による手当ては淀みなく続く。私の足首はどんどん太く、固くなっていく。
「だって……有名人じゃん。偉いんでしょ? なんか社長室みたいな、とこで、踏ん反り返ってるんだと、思ってた」
「それは誤解です。業務の一環にバトルがあるだけで、わたくしも一介の鉄道員でございます」
 さっき一瞬合った男の目が、少しだけ細められてからまた足首に戻っていく。今の、笑ったのかな。一貫して優しい声色の割にはずっと不機嫌そうな顔をしているから、もしかしたら笑ったんじゃなくて余計な仕事を増やしやがって、なんて睨まれたのかもしれない。それにしては、お兄さんの灰色の瞳は綺麗に澄んでいる。こんな地下のごみごみ澱んだ空気を吸って生活しているとは到底思えない。まあ、でも、どうでもいいことかな。
「ふうん。あー……こっぴどくフられた甲斐は、あったかな……サブウェイマスター、と喋っちゃったって、みんなに自慢しちゃお」
「自慢、でございますか」
 喉が勝手にしゃくり上げて、変なところで区切りができる。まだ、長く喋るほど落ち着いてないみたいだ。
 そう、恋人に捨てられた上、追いかけようとしたら彼が同じく投げ捨てていったモンスターボールに足がもつれて思いっきり転倒した、という馬鹿みたいなショックに比べたら大抵のことは本当にどうでも良かったのだ。まさか、フった私はともかく、今まで一緒に育てて可愛がってきたポケモンを彼があんなふうに蔑ろにするとは思わなかった。いや、すぐ後ろで盛大にこけた私を気遣うことなく、むしろ私が怪我をしたことに慌てて逃げるように走り去っていったこともかなりしんどい。ああ、恋人として数時間前までセルフメロメロを受けてた男があんなクズだったなんて!
「友達が、あなたのファンなんだよね」
 せめて、そんな有名人と話すきっかけになった幸運とでも思わないとやっていられない。
 この鉄道員さんがやってこなければどうなっていたか。足首はひどく痛むし、頭の中は真っ白だし、ただただ惨めに涙を滲ませながらうずくまっているしかなかった。すぐに控室みたいなところまで支えて誘導してくれなかったら、多分謎のオブジェとして多くの人の通行の邪魔をしていたと思う。
「なんと! それは光栄でございます」
 ……どうにも、ハキハキ、過剰なほど溌剌とした喋り方をする人だ。あまり変化のない真面目くさった顔からは想像できない。あのへの字の口から出てると思うと、シュールの域に片足を突っ込んでいると思う。大ファンだと自他共に認める友人から見せられ聞いていた人物像とギャップがあるような気がする。
「なんか、お兄さん、写真とかと雰囲気違うんだね。もっと、こう……にこにこしてるというか、白かったというか……」
 まだ少しぼうっとする頭を言い訳に、考えたことをそのまま口に出して気を紛らわさせてもらっている。そんな私の失礼でまるで要領を得ないだろう言葉に、黒いお兄さんはテキパキと包帯を留めながら、ああ、と声を上げた。
「そちらは、おそらく弟の方でしょう! あれもわたくしと同じ形ではありますが、おっしゃる通りの白い制服を着用しております」
「おとうと」
「ええ。表情については、なんとも申し上げられませんが……」
 指し示すように彼が一瞥した先には、何枚かのポスターが掲示されていた。よく見かける痴漢や酔っ払い、歩きライブキャスターへの注意喚起に混じって、私の足首の固定具合を丁寧に確認している黒いサブウェイマスターが確かにそこにも居た。……今更だけど、あんなポスターに映るような、この大きな駅の顔みたいな人を地べたにしゃがませて足まで乗っけさせてもらっているのって大丈夫なんだろうか……。
「わたくしたちは双子なのです。だからなのか、似ているとよく言われます」
 そしてポスターに一緒に写っているのは、表情とポーズだけを綺麗に反転させたような白い彼……ああ、きっとあれが友人の本物の追っかけ対象なんだ。見せつけられた雑誌の切り抜きがあんな感じの笑顔だった。それにしても、本人は自覚がないといったような口振りだけど、似ているなんてレベルじゃない。まるで鏡写し、同じ人の機嫌が良い時と悪い時って言われたら信じてしまいそうだ。
「友達が、笑顔が素敵なんだーってしきりに言ってたから、その、お兄さん、今日は機嫌が悪いのかと思っちゃった。そもそも人違いだったんだ」
「怒っているように見えましたでしょうか……? わたくし、弟に負けず劣らず表情豊かにお客様に接していると自負しておるのですが……!」
「……えっそれ、本気?」
 消毒液とか残りの包帯とかを片付けるお兄さんの手が止まっている。何も変わらない真顔のまましょんぼりとした声を出されて、思わず吹き出してしまった。お兄さんの自負する通り、声だけはやけに感情が豊かにこもっていて、こう言ってはなんだけれどもはや完全にシュールだ。一度笑い出してしまったら、じわじわと込み上げてきてなかなか止められない。完全に笑いのツボに入っちゃった。
 そうやってしばらく肩を震わせていると、手際良く片付けを終えたお兄さんがすっくと立ち上がった。笑いすぎでございます、と若干拗ねたように、そしてやっぱり真顔で呟くので、もう私はお腹まで痛くなってしまった。元彼のせいで涙腺が緩んでいたから、じわじわと涙まで込み上げてくる。笑い泣きなんていつぶりだろう。
「あーやだ、もー、おもしろ、っはあー……私、お兄さんのファンになろうかな」
「それはなんと申しますか、ありがとうございます」
 私が指先で涙を払っていると、救急箱を棚に片付けたお兄さんが咳払いをした。
「それよりも、内容自体は若干不本意なところがございますが……お客様に笑顔が戻りましたこと、わたくしとても嬉しく思います!」
 きっと、今の顔はお兄さんなりに優しく微笑みかけてくれているつもりなんだろうな。友人のようにファンとして追いかけでもすれば、少しは不機嫌にしか見えない表情の機微を悟れるようになるんだろうか? よし、今度彼女にサブウェイマスター特集記事のコレクションファイルを一冊貸してもらおう。
 私がそんな決意をしていると、お兄さんがそっと白手袋の手のひらを差し出してくれた。
「さて、こちらでできる処置はさせていただきました」
「あ、なんとか、歩けそう……」
「しかしあくまで応急のものでございますので、なるべく早くきちんと病院にて受診をされるようにしてくださいまし」
 お兄さんが自然な仕草で手を取り導いてくれるのに合わせて、私は練習をするように駅の出口へと一歩一歩足を出してみる。サブウェイマスターさんはこれだけ背と脚が長ければ歩幅も本当はもっとあるだろうに、私に無理をさせないようにとゆっくり隣を歩いてくれている。
「本当にありがとうございます」
「いえ、鉄道員として当然のことをしたまででございます!」
 こういった人助けなんかもお客様対応の一環なんだろうか。はあ、なるほど、さっきまでは優しくて面白いお兄さんだと思っていたけれど、手慣れたエスコートにはまた好感度が上がってしまう。
「そうだ、お兄さん名前教えて」
「名前でございますか」
「うん、お客様のご意見みたいなのに改めてお礼投稿するから」
 病院にちゃんと行ったって報告も兼ねて、と付け足せば、お兄さんもなるほどと頷いてくれた。
 足首の痛みが落ち着いてくるにつれて、あのクズ男のことこそどうでも良くなってきてしまった。お兄さんの、背が高くってすらりと長い手足には気付いていたけれど、こう改めて隣で眺めてみるとなるほど素敵な人かもしれない。細身にパリッと格好良く広がるコートの制服っていうのもとてもオシャレだ。
「改めまして……わたくし、サブウェイマスターのノボリと申します。主にバトルサブウェイにてお客様の〝ご案内〟を務めさせていただいております」
「バトルサブウェイ……」
 私はポケモンをかわいがりこそすれバトルは全然やらないから訪れたことはないけれど、遊ぶところが色々とあるライモンシティでもしょっちゅう名前が上がる場所という認識だ。なんでも、友人曰くそこで勝つために延々と挑み続ける廃人、いや猛者がたくさんいるらしい……とも。つまり、このお兄さん、もといノボリさんはサブウェイマスターというくらいなんだから、バトルがとても強いトレーナーさんってことになるんだろう。うーん、そりゃあファンだってついていてもなにも不思議じゃない、今ならそんな気がしてきた。昨日まで友人の熱いプレゼンを聞き流していたことは、あとでちゃんと謝ろう。
「実は、私バトルサブウェイには挑戦したことは無くて……」
「おやそれは…………いや、そうです‼」
「うわっ⁉」
 ……びっくりした! 突然すぐ隣で大きな声はやめて欲しい! ノボリさん、声量が大きめの方だと思っていたけれどまだまだ上があるとは。もしかして、普段地下鉄の騒音の中で働いているからこんなに声が大きくなっちゃったのかな。
「ぜひ! ぜひ! 今度、マルチトレインにご乗車ください‼ もちろん、お客様のお怪我が癒えます頃に、気晴らしとしてでも!」
「マル、チ……?」
 グッドアイデアと言わんばかりに熱い声だけでなく、ノボリさんの無表情の瞼の下では瞳がキラキラと輝き出している。いや、ギラギラかな……ちょっと怖いくらいだ。添えていた手が、今やがっちりと握られているわけだけれど、大丈夫かな、私はサブウェイマスターのファンがどういう雰囲気なのか友人以外に知らないけれど、誰かに見られたら刺されたりしないかな……?
「ええ、マルチトレインであれば、ご友人とおふたりでご乗車いただけますし、わたくしどももそちらではふたりでお客様のお相手をさせていただいております。来ていただけましたら、きっとクダリ……弟も喜ぶことでしょう!」
 そう高らかに勧誘を終えると、ノボリさんは握り潰す直前の私の手を解放して、綺麗に腰を折った。怒涛の勢いに呆気に取られていたけれど、いつの間にか駅の出口に到着していた。足の痛みも、ノボリさんのエスコートで慣れたり驚いたりでほとんど気にならないくらいになってきていた。
「それでは、わたくしのご案内はこちらまでとなります。どうぞ、気をつけてお帰りくださいまし!」
 ……ひょこっ、ひょこ。ひょこっ、ひょこ。固定された足を不恰好に跳ねさせながら帰路に着く。でも、恋人にフられた直後の女とは思えないほどに足は軽かった。足を庇いながら歩くというよりも、スキップをしている気分だ。
 そんな陽気な気持ちのまま、私は早速ライブキャスターを弄る。もちろん、連絡先はノボリさんの弟フリークの友人だ。内容は、悪い報告と自慢話、そして相談したいこと……あの子、どんな反応するかな。確か彼女もどちらかといえばポケモンバトルをする方じゃなくて、サブウェイマスターには会いたいけれどと二の足を踏みながら代わりに雑誌やらテレビのニュースの特集なんかを必死に集めていたはずだから……きっと喜んで話に乗ってきてくれるはずだ。
 コール音を聞きながら、私は頬のにやけを抑えられなかった。最後に全身、足から背筋から折り曲げた腕まで針金でも入っていそうなほどピシッと綺麗な敬礼をしながらノボリさんがかけてくれた別れ際の言葉が頭の中で繰り返し響いていた。
「お客様のお名前ですが……今度はお元気な姿で、そして是非ともマルチトレインの中でお教えいただければ幸いでございます。わたくしとクダリ、ふたりでその日を楽しみにお待ちしております!」
 ……それから私と友人が、何も知らないままマルチトレインに乗り込んだは良いがあの甘い勧誘はなんだったのかと怒りたくなるほど、何も見なくてもあの黄色と桃色の車両を細部まで絵にかけそうなほどの回数乗り込んでもノボリさんとクダリさんに一目会うことすらできず、元彼の事など頭とライブキャスターからすっかり消し去りその分でバトルに必要な知識を蓄え相棒たちの育成にのめり込むようになるのは……また別の話。
 そうして、バトル廃人がまたひとり、またふたり。


あとがき
(220326 修正221201)


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