……ッ‼」
 ……まったく、どうして平日の朝っぱらから玄関で天井を拝まなくてはならないのか。背中にぎっちり回った腕がクッションになってくれたおかげで打ったりはしなかったが、玄関の戸を開けるや否やで食らったタックルと、現在思い切り私に抱き着きのしかかっている黒い塊のせいでお腹はとても痛い。
「ああ……ああ……これは、この柔らかさ……温かさ……本物でございますか……⁉」
「……あなたが一心不乱に揉みしだいているそれは本物だよ」
 ぶつぶつ、というにはだいぶ声量があるが久々に会ったノボリはそんなうわ言と共に何故か私の胸に顔を埋め、抱き締めるのをやめた両の手は執拗に揉み続けている。シャツに皺がよるしブラジャーが歪むからやめてほしい。これが恋人じゃなければとんでもない恐怖体験だろう。いや恋人でもだいぶ怖いよ。
「あー、ノボリ? お疲れ様、おかえりなさい」
「ええ、はい、このノボリ、ただいま帰りました……そう、戻ってきたのですね……わたくし、あなたが愛想を尽かしてやいないかと、あなたに何か危険が及んでやしないかと、あなたに悪い虫が寄り付いてやしないかと、気が気じゃありませんでした……何度あなたの幻覚を見たか……何度あなたの幻覚に愛を囁いたか……何度あなたの幻覚に」
「あー、あー、ノボリ⁉」
 いや怖い怖い! もはや自分の世界に入りかけお経のようにぶつぶつと唱え始めたノボリに負けないよう声をはりあげて続きを遮った。
 デスマーチとやらでしばらく詰めると聞いたのが二週間前だっただろうか。久々に会う恋人のやつれ具合というか変貌ぶりに、若干引いてしまう。いつも声量はこんなもんだけれど、いつもはもう少し理性的だったように思う。申し訳ないが、朝イチでこのテンションは、ちょっとキツいものがある。……あと、いつまで揉んでいるつもりなんだろう。
「一応朝ごはん出来てるんだけど、どうする?」
「なんと! の手料理が、ああ……ええ、勿論いただきますとも‼」
 手料理といっても、仕事前でバタバタしている朝だし自分用だから別に大したものじゃない。適当に卵をぐちゃぐちゃに焼いたやつとソーセージとサラダくらいなものなんだけれど、ようやく胸から顔を上げたノボリは感極まって目端に涙まで浮かべている。というかクマが凄い。ただでさえいつも強い目力が余計に圧を増している。
 ワーカホリックが常態とも言えて激務に慣れているはずのノボリがこうなるとは……睡眠不足とは、かくも人を壊すのか。
 それから、なんとかノボリを立ち上がらせリビングまで連れて行った。背中にピッタリ張り付き抱き締められたままで歩きにくいったら無かったが、そのまま無理矢理廊下を進みキッチンでフライパンに乗ったものを皿に盛り付け、ノボリをまた引き摺りながらテーブルまで運んでいく。
「大丈夫? やっぱり寝る?」
「食べ、ます……」
「じゃあほら、口開けて。もう目は閉じてていいから」
「はい……あー……」
 椅子に座らせた時点で限界を迎えたのか、いよいよ船を漕ぎ出したノボリの口になんとか食べ物を入れていく。鳥の給餌みたいだ。もく……もく……と緩慢に咀嚼しては「あたたかい」とか「あじがする」などと染み染み呟いている。……帰ってくるのが分かっていれば、もっと良いものを作ったのだけれど。申し訳ないが、ひとまず食事での労わりは夕飯に回そう。そんなことを考えながら、とりあえず最後にさらに残ったミニトマトを押し込んだ。
「はい、これで終わり。……ノボリ、もう寝よう?」
「……おふろ……そのまえに、わたくし、ゆっくりおふろにはいりたいのです……」
「えぇ……」
 食器を流し台に持っていく間も、何がノボリをそうさせるのか、やはり私にひっつきながら今にも意識を失いそうな声でむにゃむにゃ我儘を言う。もう皿は夜帰ってきたら洗おう。
 ちなみに、普段家を出る時間からはもう十五分はゆうにオーバーしている。それは、まあ、久々に会う恋人に免じて良いとしよう。しかし困った、こんな状態のノボリを放っておけば風呂場で溺死しかねない。少なくとも転んで怪我は確実だろう。流石に一緒に入るなんてことをするつもりはないけれど、疲労困憊の恋人が風呂に入りたいというならば叶えてはあげたい。そうなると、さっきまで抱きつくために後ろから伸ばしていた両手で今はまた何やら私の服をまさぐっているこの男が死んでいないかと、私は何度か風呂場へ様子を見に行ってあげないといけないだろう。
 ごそごそぷつん、ごそごそぷつん。シャツのボタンが外されていく音を聞きながら首を傾げて悩む。うーん、これはもう午前中は……いや、やっぱり、今日一日……ノボリの回復力次第では、明日も出社は叶わないかもしれない。問題は、これを上司や同僚になんて連絡を入れてどう謝るか……。
 折角着替えたオフィスカジュアルをノボリの緩慢な手に一枚一枚剥ぎ取られながら、私は給湯器のスイッチを押した。


あとがき
title「誰花」様より
お風呂入って抱きまくらにして寝て起きてなんやかんや (220727 修正221201)


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