「お待たせいたしました」
 運ばれてきたココアをちびちびと啜っては、持ってきた本に目を落とす。プレゼントで貰った、ついさっきまでお気に入りだったカバーをつけた文庫本。
 文字なんか頭に入ってこない。読んでいるふり。私はただ、ぼんやりとしているだけだった。
 何故こうなったんだろう。ひとりそんなことを考えているうちに、ふと、昔のことを思い出した。

 ***

 私が家を飛び出して一人暮らしを始めたのは、ただ単にひとりになりたかったからだった。それまでの実家での〝私の人生〟とは、常に私はひとりのものではなかったのだ。何を言っているのか、と思うだろう。実際、他人にとっては大したことではない。私には幼馴染がいたということを大袈裟に表現すると、そうなるというだけの話だ。
 幼馴染は、同じ年、同じ月に同じ病院で生まれた双子の男の子たちだった。三日遅れに私が産まれた。そして彼らは奇遇にも隣の家に住んでいた。するとどうなるか。同時期に出産を乗り越えた親同士という仲の良さも相まって、私は常に双子と行動を共にすることになってしまったのだ。
 〝まるで三つ子ね〟。それは、嫌になるほど、嫌になっても聞いたフレーズ。周りの大人の誰もがそう口にし、そう見なし、そう世話し……私たちに、そう行動させた。今思えば、幼児三人をまとめて面倒見た方が両親たちにとっては育児的に楽だったのだろうし、多少成長してからは男の子が二人も側にいれば女の子も安心だとか、きっとそういう考えもあったのだろう。そうして、繰り返しかけられる大人たちの呪文に、あの双子たち自身も〝自分達は兄と弟と、そして三日遅れの妹の三人で一つ〟なのだと、それが当然だと刷り込まれていたようだった。
 ただ、彼らの両親はあまりにもそっくりな双子の区別をつけるためか、概ね兄には黒い服を、弟には白い服を着せていた。私の両親はそれに倣ってかその中間である灰色の服を嬉々として私に用意した。それこそ私の物心がついた頃には、互いの両親は何か服を買うときはご丁寧に色違いの三着を買って送り合うことが常態している有様で、私の閉塞感を日々一層深めていった。
 周りの大人たちはそんな何もかも揃えられた私たちを見て微笑ましいと優しく見守っていたし、双子の彼らは私の右手と左手をそれぞれ握って一つの塊として仲良く過ごしていた。私を挟んでおおよそ黒、灰、白の色に並んだ三つ子、三人で一つ、常に一緒。
 そんなだから、私が進学と共に街を離れたあの日、周りの大人たちと私は泣いていた。大人たちは私が大きくなったという感慨深さと、私が独り立ちをするという寂しさから、ポロポロと思い出話と共に涙をこぼし続けていた。
 私はというと、ずっと嬉し涙を流していた。ようやく、ようやっと、私を取り巻くこの泥濘から抜け出して、私は私として、個人としての生を歩むことができるのだ! ひとりでやりたいことはそれこそいくらでもあった。着たい服、飲みたいもの、食べたいもの、観たい映画、読みたい本、行きたい場所、捕まえたいポケモン、学びたいこと……それこそいくらでも、たくさんあった!
 双子は、泣きこそはしなかったが悲壮で沈痛な面持ちをしていた。まさしく身の一部が欠けるというその虚しさと悲しみを懇々と訴え続けていた。ただただ、ぞっとした。彼らは本心から三人で同一の存在だと思っていたのだ。それまでは三人で色と拵えを揃えた服を着て、三人で同じものを飲み食いし、三人で映画を観に行き、三人で本棚を共有し、三人で同じポケモンを育て、三人で同じ学校に朝から下校まで共に通い、三人で共通の友達や知り合いしかいない……ああ、そうだ、一番恐怖を感じたのは、誰かに恋人ができそうな時だった。例えば私にボーイフレンドができそうな時は、決まって彼らは「わたくしたち三人と付き合うということでよろしいですか」「にちゅーしたら、ぼくたちにもしてね」と笑い、彼らにガールフレンドができそうな時はその逆、女の子に私とちゅーをさせようとした。まったく、気が狂っている!
 常に、三つ子という存在の一部として、本来はまるで違う存在であるあの二人と同一の存在としての振る舞いを求められることに、私はずっとずっとずっとずっと辟易していたのだ。今考えても、生活の全てにおいて唯一違いがあるのは服の色だけだなんて……よく気が狂わなかったものだ。いや、そういえば双子は同じパーツの顔を持ってはいたが、黒い彼は常に口をへの形にしていつからか敬語を使うようになっていたし、白い彼はたいてい逆三角形に開いて人懐っこい話し方をしていた。そして、真ん中の灰色の私はというと、真横に引き結んでいつも暗くそっけないことが多かった。違いは、それくらいか。どうでもいい、とにかく、私は何もかもが息苦しかったのだ。でもそれが、ありとあらゆるしがらみが、もう無くなるのだ、私は私の好きに、ひとりでなんでもやっていいのだ! 彼らの涙に後ろ髪を引かれるどころか後押しされるような気分と軽い足取りで電車に乗り込んだあの時を超える解放感は、きっと一生訪れないだろう。
 晴れて進学した私は、勉学の傍ら隙を見てはバイトをしてお金を貯めた。そうしてようやく、初めて自分のお金で好きな服を買った時のことは今も鮮明に思い出せる。私は、実のところ可愛さのかけらもない、面白さのかけらもない、中途半端でくすんだあの褪せた色が大嫌いだった。人生で初めての私だけの彩りは、姿見に映る自分をまるでファッションモデルか映画の大女優かのように錯覚するほどの興奮だった。
 そこからの数年間、私は本当に楽しく過ごした。文字通り生き生きとしていた。〝自分〟でいることがこんなに素晴らしいと思わなかったのだ。誰も私を甲斐甲斐しく守ってはくれないが、代わりに誰も私を縛らなかった。友人たちとは好きな時に好きなところに行き、お腹が減ればそれぞれ好きなものを注文して、色々なことをしてたくさん遊んだ。それぞれが気になる映画や本に触れたり、時におすすめしあったり、時に全く異なる感想を言い合う楽しみも知った。地元にいた頃にはもはや憧れという感情が湧かないほど諦めきっていた恋愛にも縁があったし、就職も運良く同じ町で興味のある仕事に就くことができた。一応、電車を使えば実家から通えない距離ではなかった。しかし、わざわざ数年間住んだ町とアパートを離れて戻るだけの理由は地元の誰も持ち合わせてはいなかったし、何よりこの数年で私の両親やその周りの大人たちも、私が独り立ちしたことを受け入れきっていた。もはや、私が三つ子だったことは子供の頃の微笑ましい思い出として昇華されていたのだ。就職を決め、今の町に続けて暮らしたいと電話をした時の両親の反応ときたら、私の緊張に反して実にあっけらかんとしたものだった。まあ、学生時代もなにか行事があれば帰るようにはしていたし、電車で行き来できる距離で逆に良かったのかもしれない。
 電車といえば、そう、あの双子は鉄道会社に就職したらしい。昔からポケモンか乗り物へと興味を示すことが多かったが、子供の頃のその微笑ましい思い出のままに二人揃って仕事にまでするとは思っていなかったので、人伝てに聞いた時には驚いた。しかも、それからたった数年で彼らはイッシュきっての都会であるライモンシティのギアステーションでトップトレーナーへと登り詰めてしまった。まさか〝サブウェイマスター〟として一躍有名になるなんて、最初に鉄道員になったと聞いた時には予想もしていなかった。あんなすごい二人が幼馴染だったとは、誰に言っても信じてもらえないだろう。まあ、今までも二人の話は友人にさえしたことはなかったし、これからも誰に言うつもりは無いのだけれど。
 それにしても、こうつらつらと思い返してみれば不思議なことにあの二人とは地元を離れてからは全く関わりがなかった。正直、私ひとりで別の道を進む話を打ち明けた際には大騒ぎされたし、それまでの人生での私への歪んだ同一視を考えれば、よもや連日アパートに押しかけてきたりしやしないかとハラハラしていたのだけれど、そんな不安に反して彼らは連絡すら滅多に寄越しては来なかった。まあ、子供の頃の執着や交友関係なんて、所詮そんなものなのだろう。私としても、子供だった当時こそ辛かったが大人になった今になってようやく遠い日の思い出として飲み込めつつあった。

 ***

 冷め切ったココアを飲み下す。やけになって一番大きいサイズを頼んだはずなのに、いつの間にか空っぽになっていた。口の中が甘ったるい。いつもは幸せをくれた余韻が、今日はひどく不愉快に感じられた。
 私は今日、恋人に振られたのだった。いつも通りカフェのテラス席で待ち、ついでにコーヒーひとつとふたり分の軽食を頼んでひとりのんびりと暇を潰して待っていた。そうして、足早に近づいてきた恋人が、早口で私との別れを告げ、そそくさと去っていくのを、ただ呆気に取られ、呆然と見送って、途方に暮れていた。
 私と彼は、仲が良かった、と、思う。結婚の話も、お互いにそれとなく、出ていたと、思う。最近の日々から、初めて会った時まで、つらつらと時間を遡って思い返してみても、何も、問題はなかった、と思う。ああ、そうだ、その流れで、ぼんやりと子供の頃のことまで遡っていたのだった。
「……?」
 なかなか立ち上がる気にもなれず、かといってふたり分のミックスサンドを口にする食欲もなく、空のカップを前に無意味に本の文字列をなぞっていると、誰かに名前を呼ばれた。テラス席に隣する通りに目を向けると、私は思わず本を取り落としそうになってしまった。
「久しぶり!」
「……え……ノボ、リ……クダリ……⁉」
 突然の呼びかけでも、どちらさま、とは問うまでもなかった。初めに声をかけてきた彼、その隣で気さくに手を挙げる彼は、ここ周辺の街ならばどこの駅でも案内板やポスターなんかでいくらでも目に入る有名人の顔をしていた。そうでなくともその顔はかつてうんざりするほど見飽きたものだったし、黒っぽい服と白っぽい服に身を纏ったその姿……彼らは、つい先ほどまで思い返していた双子本人たちなのだから。
「いやでも本当、会うの久々だね」
は全然帰って来ませんからね」
「えぇ、年末年始や行事の時は帰ってるよ」
「あれ、そっか。その時期はぼくたちが仕事で忙しいから」
「なるほど、言われてみればその通りでしたね」
「あのね、ぼくたちの仕事、いっぱいバトルできて楽しいんだよ」
「知ってるよ。二人とも、地元の出世頭じゃん」
 私たちは、まるで仲の良い友人同士が元々待ち合わせでもしていたかのように、いつの間にか同じテーブルの席につき、いつの間にか運ばれてきた同じ飲み物に口をつけ、数年の歳月がなかったかのように雑談をしていた。
虚しく残ったふたり分のサンドウィッチは、二人がいつの間にか片付けてくれていた。
 しみじみと懐かしがりながら眺めれば、二人とも記憶の中とはまるで別人みたいだった。声も昔に比べて低くなり、顔もすっきりとして、連日バトルや車掌業務で体力を使うからか背もぐんと伸びて、大人の男性らしくなっていた。それでも、こうしてすんなり昔と変わらず自然と笑い合い仲良くしてもらえることに、私は随分とほっとしていた。自分から逃げ出しておいて勝手な話だが、仲睦まじかったはずの恋人に突然捨てられた今、身が欠けるような虚しさと悲しみから気を逸らすにはありがたかった。
「そういえば、今日はどうして?」
「あのね、ぼくたち、を迎えにきたんだ」
 この町は田舎というほどではないが、彼らの勤めるライモンシティからは二、三駅は離れたところだ。思い出話に花が咲きかける中でふと気になって尋ねると、クダリは茶目っ気たっぷりにウィンクをした。
「なんてね。花、買いに来たの」
「花?」
「ええ。最近、わたくしとクダリで新しい部屋にお引っ越しをいたしまして。荷解きもようやく終えましたので、彩りでも添えておこうかと」
 ノボリが紙袋を開くと、そこに詰まっていたのは全部同じ色ではあるが様々な種類の花々だった。男の一人、いや二人暮らしでその量は多いのでは、という私の顔を読んだのか、彼は肩をすくめて苦笑した。ろくに口角の上がらない微笑みは昔と何も変わっていなかった。
「色は決めていたのですが……何分、今まで花など興味が無く、どんな形が好みなのかと悩んでしまいまして」
「うん。だから、気に入りそうなやつ、全部買った」
「へえ、そうなの」
 二人の様子が楽しそうで私がくすくす笑っていると、不意にクダリが私の肩を叩き、そのままその指先を空に向けた。
「あのね、ちなみに、あそこの部屋だよ」
「……は⁉」
 その先にあるのは、ここ最近建った駅前の高層マンションだ。この町は確かにライモンシティからは離れているが、それ故近年はベッドタウンとしての需要がじわじわと上がっていた。売り出し前にあそこのチラシがポスティングされたことはあったが、そこに並ぶ数字は完全に別の世界のもので、あんな場所に住むにはどんな職業に就けば良いんだと呆れながらゴミ箱に直行させたくらいの物件だ。私の目を剥くリアクションに、白い彼は愉快そうにそこのてっぺんだと情報を付け加え、黒い彼は満足気に息を吐いた。
「ええ、そして今日ようやく、あなたを迎える環境が整いました!」
「……迎える?」
「あのね、がこの町にいることはぼくたちも聞いてたし、本当はすぐにでも呼びたかったんだけど」
「お招きするにも、邪魔ものや段ボールだらけでは呼べないでしょう?」
 そういうことか、とばれないように内心で安堵した。その言葉選びから、もしかしたら私をまた彼らの一人に引き戻そうとしているのかと一瞬嫌な勘違いをしてしまった。流石にノボリもクダリももう真っ当な立場のある大人だと分かっているのに過敏に反応してしまったのは、つい先ほどまで昔のことを思い返していたからだ。
「でも折角会えたんだし、が来てくれると、ぼくたち嬉しい。ね、ノボリ」
「え、今から?」
「そうですね、ここで長話をするのもなんですから、是非夕飯でも食べながらお話しいたしましょう」
のおやつ、ぼくたちが食べちゃったしね」
「その分わたくしたちが腕を奮ってご馳走いたします!」

 ***

「うわ、広っ!」
 そうして、あれよあれよという間に、口車に乗せられるような形で私は彼らのマンションに足を踏み入れていた。いや、こんなことでもなければ高級マンションの最上階の部屋なんて一生見る機会もないだろうからと、私も興味津々だった。どうせひとりで帰っても、恋人のことを思い返しては鬱々とするだけに決まっているし、それならばその好奇心に加えて久々に会う幼馴染と楽しく過ごす方が良いと思ったのだ。
 リビングに通され、勧められるままに一人掛けのソファに腰を下ろした。本当は隅々までお部屋探索をしてみたかったが、私ももう大人だ。幼馴染とはいえ今は交流もほとんど無い相手だし、そんな他人の家を勝手にうろつくほど非常識ではないつもりだ。しかしこれくらいは許されるだろうとぐるりと目が届く範囲を眺めていると、ノボリはいつの間にか私の上着をハンガーにかけ、クダリは紙袋から適当に一輪だけ取り出して花瓶に挿していた。……そういえば、あの花たちは私が初めて買った服の色によく似ている。幼馴染との偶然の再会といい、今日はなんだか思い出が色々と顔を出すおかしな日だ。二人が近づいてくるまで、私はぼんやりと感慨に耽っていた。
「……これ、ライブキャスター?」
 そうしてお茶やらお菓子やらを用意してくれたノボリとクダリが向かいのソファにそれぞれ腰掛けたところで、テーブルにちょこんと鎮座しているものについて尋ねた。あまり詮索するのは行儀が良くないと先程思ったばかりだが、待ってる間それを眺める他にすることもなく、今はティーポットやお菓子の側にあるとなるとどうしても目につき、気になってしまった。すっきりとした銀灰色のバンドで、全体的に余計な装飾は無いが画面の枠にはモノクロのシンプルなデザインが入っているのが見える。勝手に手を伸ばしたりはしないが、しげしげと眺め尋ねるとノボリが自慢げに返事をくれた。
「ええ、特注なのです。機能はもちろんですが、常に身に着けるものですから特に外装にはこだわりまして……ご存じですか? ライモン三番通りの──」
「え、あのブランドの⁉」
 ノボリの口にした名前は、偶然にも私も好きでボーナスが出たら自分へのご褒美にと訪れているショップだった。まあ、私は小物にしか手が出ないのだけれど、どれもシンプルながら品の良いデザインでとても気に入っているお店だ。それにしてもそんなところの特注品とは、サブウェイマスターってすごいんだな……と住居に引き続きこんなところでも改めて格差を見せつけられてしまい、つい苦笑が溢れた。
「うわー、やっぱり綺麗で良いデザインしてるね」
「ほんと? にそう言ってもらえて、嬉しい」
「もしよろしければ、つけてみますか?」
「え、逆に良いの?」
「ええ、もちろんです!」
「じゃあ、ぼくがつけてあげる」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 腕を差し出すと、クダリの手が覆ってすぐ、私の手首を上品なそれが飾った。かしゃん、と留め具の音も軽やかだ。私にはよく分からないが、きっとこのバンド部分も白金とかなにかランクの高い物でできているんだろう。惚れ惚れとしながら、指先で形を覚えるようになぞってみる。ああ、すごい。するすると滑っていく。曲線美と機能美の融合だ。こんなシンプルなのに綺麗で、どこか惹かれてしまう。やはりあのブランドのデザインは素晴らしい。
 ふと、うっとりとライブキャスターを眺める私を二人がにこにこと眺めていることに気が付いて、一気に頬に熱が寄った。いやノボリの口角は相変わらず下がっているけれど、目が上機嫌だった。
「ご、ごめん、つい……あれ? そういえばこれ、どうやって外すの?」
「ん? 外れないよ」
 え。クダリの言葉に、つるり、指先が滑る。引っかかりの見つけられない爪が、勢い余って手首を掻いた。
「外す必要が無いのですから」
 どういうこと。私の問いかけには答えず、ノボリは静かに微笑んだ。
 急激に膨れ上がる違和感が、ざわざわと背筋をなぞって広がっていく。
「着け心地はいかがですか?」
「え、と……すごいよ、軽いし、しっくりくる。私、の……手首に……」
 そうだ、このライブキャスター、まるで、私の手首に合わせてあつらえたかのようにピッタリなんだ。少なくとも、成人男性の腕にはとてもじゃないがキツくて合わないだろう。それにそもそも、何故たった一つだけなんだろう。彼らは二人なんだから、二つあるはずだ。
 いや、変に疑うのは悪い、自意識過剰だ、そんな、私に合わせた訳がない。一つなのもきっと、ノボリかクダリのどっちか一人だけが欲しくて買ったに違いない。もしくはもう一つは大事にしまってあるのかもしれない。バンドのサイズだって変えられるはずだ、たいていこういうものは調整できるようになっているのだから。いや、でも、彼らの特注で、こんなに彼らに合わない作りになるのだろうか。
 私の疑いを遮るように、ノボリの歓声が耳に飛び込んだ。
「それはなによりです! ええ、わたくし申しましたでしょう、そちらは特注なのです、と」
「あのね、それ、ちゃんとGPS機能もついてる。もしが迷子になっちゃっても、すぐ見つけてあげられる」
「え、なに……どういう……」
 何度目になるか分からないただ説明を求める私の右と左に、ノボリとクダリが近づいてくる。やたら恭しく跪いたかと思えば、子供の頃のように私の手をそれぞれ取った。
 黒いソファと、白いソファから腰を上げて、何故かある三つ目の〝灰色〟のソファに腰掛けている私のそばに。
「わたくしたちは考えておりました。どうしてがわたくしたちの元から離れていってしまったのか」
「ぼくたち、三人で一つのはずだから、おかしいって」
 どうしても何もない。三人で一つじゃない、二人と一人じゃない、私は私ひとりだ。
「でも、わたくしたちはすぐにわかりました」
、昔から目を離すとすぐどこかに行こうとするくらい好奇心旺盛だったでしょ」
 逃げようとしていただけだ。好奇心が特別強いわけじゃない。
「だから一度はわたくしたち以外のことも知ってみたかっただけ、そうでしょう?」
「だからぼくたち、ずっと考えてた。どうしたらがぼくたちのところに帰ってきた時、楽しんでくれるかなって」
 前者は合ってる。後者は違う。二人以外の世界が知りたかったのはそうだが、あの頃の三つ子の一人なんかに戻るつもりはさらさらない。
「その準備が、環境が、本日、先程、ようやく整ったのです!」
「また一緒。あのね、今度は家も一緒。うれしい?」

 絶句。

 ああ、お金や生活に関することならばもちろん心配ごとなど何ひとつありません! 申し上げた通り、あなたを迎えるためにわたくしたち、十二分に準備をいたしました。このマンション、とっても広いんだ。あのね、の部屋、ぼくの隣。そしてわたくしの隣でもあります。真ん中です。いつもの居場所だったでしょう? 大丈夫です、夜寂しくなっても良いように、誰の部屋で寝ても良いように、ベッドは三人で寝られるものをそれぞれ備え付けてあります。もし家のことで気に入らない物や不都合があればなんでも仰ってくださいまし! ぼくたちすぐ買い換えるし、改装だって頼むよ。一緒に、わたくしたちの住みやすい良い家にいたしましょう。は、いえ、〝わたくしたち〟はずっと一緒なのですから! あのね、安心して、ぼくたちなんでも叶えてあげられる。ええ、素敵な服を選んで差し上げましょう! 飲みたいもの、食べたいものはなんでも作ってあげる、本も取り寄せてあげる。お望みとあらば通りのカフェも、映画館だって貸切にいたしましょう! ポケモンもぼくたち昔よりずっとくわしくなった。バトルも強い。ここらへんじゃ誰にも負けない。他にも何かやりたいことがあったらすぐに仰って下さいまし。ぼくたちなんでも付き合う、一緒にやる。のやりたいことはぼくたちもやりたい。もちろん、そうしたいというのであればお仕事も今のまま続けていただいて構いません。このマンションはあなたの職場からも近いでしょう。友達とお出かけだってしていいよ。そのライブキャスター、とっても優秀。の体の様子も、誰と何を話しているかもいつでもどこでも全部分かってぼくたちとっても安心! ああ、そうそう……でも、恋も、結婚も、これからはわたくしたちといたしましょう! 花よりも蝶よりも大切にして差し上げます。あのね、ごめんね、昔もとっても大切にしてたけど、、不満だったのぼくたち気がつかなくって。まったく、はわたくしたちよりずっと欲張りさんなんですから。でも、わがままもぼくたちのならどれだけ言ってもかわいいから大丈夫! ええ、わたくしたち、あなたの髪の毛の一本から足の爪先まで一片残らず大切に恋して愛して慈しんで大事にして差し上げます。だから、、なにも心配しなくていいよ。さて、これでもうあなたが特別ひとりで生きる理由は無いでしょう! ぼくたちすごくほんき、ちゃんと準備したこと、伝わった? あのね、これでもうは退屈しない。不自由しない。だからぼくたちから離れない。そうでしょ? これでもう、ずっとわたくしたち、一緒でしょう?

 彼らのライブキャスターから垂れ流れ続けるハウリングした彼らの声を聴きながら、私は一人、振り解いた手で外せない手首にいくつもの引っ掻き傷を作っていた。


あとがき
王道なヤンデレっぽい話になった。最後のところ書くのは楽しかったです。 (220226 修正221201)


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