ふたりとも大学生

※嘔吐表現あり


 ふわふわ、する。むりやりさそわれて、おいしいごはんがたべられるって、ことわりきれずになんとなくついてきた、なんとかサークルの……なんだっけ、まあいいや、ふしぎ、あんなにさわがしかったのに、いつのまにか、みずのなかにいるみたいに、まわりのこえが、とおく、くぐもって、きこえる。
「仕方ねえなあ、おまえは」
「あぇ、ほかりだ」
 わたしをのぞきこんでわらってる。さっきまで、はなれたテーブルにいたきがしたけど。
 せなかがわからわきばらに、ほかりのうでがまわって、テーブルがとおくなる。あ、たちあがらせてくれたのか。あんていかんがすごい。ほかりのたいかんはどうなってるんだ。ひごろのきんとれのせいかか。えらい。
 さっきまでわたしとはなしていたせんぱいに、ほかりがなにかいってる。あ、ちょっとおこってる? わたしがおもいから? きのせいかな。きのせいでしょ。ほかりもたいがいポーカーフェイスだからなあ。
「ほら行くぞ、ボーダー本部に。分かるか? ボーダー本部」
「あーい。あれ、あたし、しふと、はいってたっけぇ?」
 ガラガラ、そとにでると、よるのひんやりとしたかぜがかおにあたって、きもちよかった。
 すこし、ささえてもらいながら、ひきずられるようにあるいたところで、ほかりがちいさくなった。
「どうしたの、きぶんわるい?」
「乗れ、おぶっていくから」
「えー、わーい、ありがとー!」
 なんだかよくわからないけど、ほかりのせなかがめのまえにかがんでたから、とりあえずとびついてみた。これでもぜんぜんゆるがないんだから、ほんとうにほかりのからだのきたえかたはすごいなあ。よっと、とかほかりのこえがして、じめんがぐうんととおくなる。わたしよりうんとたかいほかりのしてんだ。ほかりのおおきなせなか。あんしんかんがすごい。あったかい。

***

 ぐらぐら、する。気分を紛らわせるためか、私の手が勝手に穂刈のジャケットを握りしめている。絶対背中の部分皺になるか伸びると思う。ごめん。でも謝罪を口に出せない。口を開いたら何か出そう。いや、出る。
 ついたぞ、と背中越しに響いてくる声に、返事ができない。かろうじて、ここが個室タイプの仮眠室だということは分かる。B級以上じゃないと使えないところだ。ああ、B級で良かった。ベッドの前に来たところで、穂刈の落ち着いた呼びかけが続いた。
「寝られそうか?」
「……ぅ゛」
 無理。そう伝えたくて、穂刈の背中で、せめて首を振ろうとしたけど、それも無理だった。お腹がどくどくする。心臓になっちゃったみたいだ。少しでもなにかしたら、すぐにでも胃がめちゃくちゃに暴れ回りそうで……また穂刈のジャケットに指が食い込んでいく。もう指のほうは、蝋燭みたいに真っ白で固くなっちゃっている。
「わかった」
 のしのしと、穂刈が踵を返していく。その背中にいる私は、不思議なほど揺れない。穂刈の体幹もあるだろうけど、多分私の三半規管と内臓を刺激しないように慎重に運んでくれているというのが私を支えてくれる手から伝わってくる。ものすごく気を使わせまくっている。
「吐いたほうがいいだろうからな、そこまできたら」
 備え付けられているユニットバス。仮眠室には今までシフトの時に何度かお世話になったが、ここはやっぱりせまい。大柄な穂刈と2人でいると、みっちりと空間が詰まって感じる。背負われて、天井が近いからかもしれないけど。
「少し堪えてくれ、ゆっくり降ろすから」
「……ぅ」
「堪えてくれ、頼む」
 ずるずると、穂刈の背中から滑り降ろされていく。内臓が僅かな衝撃にも反応して跳ねる。冷たくて固い床が、私を受け止める。きもちわるい。しがみついていた温かさが消えていくのが、惜しい。さむけがする。
 眼前に現れた白い陶器に縋り付くしかできない。つめたい。覗き込むように、頭を突き出す。小まめに掃除されているのか、綺麗で良かった。もうだめ、限界。鳥肌と脂汗が、ぷつぷつと全身に出てくる。
「ごめ、ぅ゛、でて、って」
「ああ。何かあったら呼べ、すぐに来るから」
 最後の矜持で、私を降ろして様子を伺っている穂刈に出ていってもらう。言葉も足りず、悪いと思ったけど、素直な返事ののち、穂刈の気配は静かに離れていった。私が誘った訳じゃないとはいえ、慣れない飲み会にわざわざ着いてきてくれて、しかも気付かないうちに多分だいぶ濃い酒を盛られた馬鹿な私のせいで中座して、寒空の下ぐでんぐでんの酔っ払いをここまで背負わされたというのに嫌な様子ひとつ見せない。なんていい奴だろう。
 それにしても、普段吐いたことがないから、どうしたものか、勝手がわからない。とりあえず、大口を開けて、指を2本、口の中に差し込んでみた。
「あー……っうぇ……」
 ……そしてしばらく。だめだった。吐こう吐こうとすればするほど、えぐえぐとえずくことはできるのに、その先が来ない。指を奥の方に突っ込んでみれば当然、おえ、となるのに、そうなると、ぐぐぅぅ、と喉の奥のほう、胃の入り口のあたりが締まるのを感じる。指もそこで勝手に力が抜けてしまう。逆流を防ごうとする本能だろうか。私本体は吐きたいと言っているのだから、素直に道を開けてほしい。
 びく、びくと胃袋はもう今にでも表裏がひっくり返りそうに重たく痙攣しているというのに、だめ、出ない。この、ずっと喉奥が、腹が暴れ回っているのに、一向に、出せなくて、渋滞しているみたいにぐいぐいと食道の手前に押し込まれているのに、出てこなくって、苦しい、喉が開かない、くるしい、つらい、たすけて。
「うええ……え、ぇぇ……」
「出たか?」
 嗚咽だけを吐くふりしかできない私に、背後から穂刈の声が降ってきた。なんとか、力なく首を振って返す。ていうかいつの間にこっちに戻ってきていたんだろう。本当に申し訳ないけど、お願いだからあっち行ってて欲しい。便器に顔を突っ込んで聞くに耐えない汚い音を発している姿なんて、付き合いの長い友人だろうと見られたくないし聞かれたくはない。私にだって、恥じらいくらいある。
「そうか」
 衣擦れの音がして、後ろから何かに包まれた。見覚えのある裾が、視界に入る。でも、そうしているのは、上着だけじゃない。それにしては硬くて、分厚くて、重たい。どういうわけか……私がここに来るまで穂刈にしていたのと逆に、私が穂刈に覆いかぶさられている。背中に、穂刈の良く鍛えられた身体がぴたりとくっついている。白一色で余計な装飾など無い無味乾燥で無機質な床と便器と仲良しこよしで冷え切った私の身体に、じんわりと背中から穂刈の温かさが広がっていく。
「前を向いていろ、いいから」
 他人の嘔吐を目にすることになっても、温めてくれようとでもいうのだろうか。少しズレてるけど、やっぱり穂刈は優しい。高校生の頃からボーダー繋がりで友達になってもう結構な付き合いだけど、穂刈にはいつもふとした時に助けられてばかりで、本当にそう思う。せめて大学では可愛い彼女でも作って幸せになって欲しい。いや大学生活も結構経ったけど、全然そんな素振り見せないな。明日から、絶対応援しよう。
 気分の悪さと恥ずかしさは相変わらずだが、それでも人肌の温さと寄り添ってくれる友人の存在に思考の余裕ができて少しだけ安堵を覚えていると、突然、お腹の周りに圧迫感が滑り込む。不意に襲う吐き気に呻きながら、目だけを下げると、穂刈の腕がそこにあった。私のひょろひょろなそれとは違う、鍛えられた男の人の太い腕が、脇腹を通って腹にぐるりとまわされている。
「ほが、り……?」
「吐かせてやる、オレが」
「え゛」
「できないだろ、ひとりじゃ」
 ……いや、優しいっていっても限度があるでしょ!? いくらなんでも、他人の嘔吐を手伝う!? 待って、なに、その唇を叩いてくる指!? やめてやめて、出る、そこに手があると思いっきりかけちゃうんだけど!?
「ほか、ァむぁ」
 お腹も頭もぐるぐる混乱している内に、穂刈の指が私の薄く開いた歯の隙間を無理矢理に入り込んでくる。お構いなしにこじ開けられて、反射的にやわく噛み、舌が押し返そうと触れてしまう。普段から自分より背が高い分やっぱり手もずっと大きいとは思っていたけど、当然その指も、太い。皮膚だって分厚くて固い。それがあっという間に、強引に、2本目も、捩じ込ませて、押し入ってくる。
「いくぞ」
 瞬間、目の前が明滅する。なにを、と思う間も無く、重い苦痛が全身を駆け巡り、弾けた。
「ぅ゛、ア゛っ!?」
 腹の腕に力が篭るのと、指が最奥を突く衝撃が、同時に襲い掛かってきた、らしい。閉じられない口から、唾液で粘ついた、醜い嗚咽が、飛び出ていく。
「あ゛ェ゛、え、う、ぅ」
「いいぞ、堪えなくて」
 そんなこといったって、ほかりのてに、あ、うそ、だめ、でちゃう、みられちゃ、やだ、ほかり、あ、とめ、だめ、と、られ、な、あ、あ、……あ。

 ***

 ジャアアア、目の前で、私の中に渦巻いていたものを巻き込んで、濁流が流れていく。ぼたっ、ぼたっ、次々に視界を覆う生理的な涙と、穂刈の指の隙間を伝う粘ついた唾液が、溢れ落ちて、新たに満たされる透き通った水に巻き込まれて、消えていった。
「んぅぇ……」
 力の抜けきった口内から、私の喉を押し開いた穂刈のそれが、私の色々な粘液で滑るように、抜け出る。
 お腹が、背中が、急に軽く、寒くなる。身体をすっぽりと包んでいた支えを失って、私はよろよろとユニットバスの浴槽に体を預けた。流石に、もう、便器に張り付いていたくはない。
 そのままぼんやり放心していると、穂刈の足音が寄ってきて、手を引かれた。何かが手のひらに触れる。それを握らせるように、私の指を優しく穂刈の手が覆う。
「水だ。そのまま口をつければいい、蓋は開けてあるから」
 ああ、ペットボトルだ。いつの間に買っていたんだろう。あの帰り道だろうか。用意が良い。よろよろと穂刈の手に助けられながら口元に運べば、すぐに水が唇に触れて、流れ込んでくる。この状態じゃとてもじゃないけど蓋を回せないから、助かった。気が利く。冷たくて清らかなそれが、口内に満たされていく感覚が、気持ちがいい。
「よく頑張ったな」
 穂刈はそう私を労いながらペットボトルを預かり、代わりに私の唇に自分のを一瞬だけ押し当てた。私は、口の中の水を左右の頬に何度か移動させて、便器に吐き出した。
「……いや……なんでキスしたの、今」
「したかったからだ、オレが」
「ええ……? あれ、私と穂刈って付き合ってたっけ?」
「付き合ってはいないな」
 穂刈がまたペットボトルを渡してくれる。口に含んで、洗い流す。すっきりしてくる代わりに、急激に眠気が襲い始める。
「そうだよね……? ていうか、吐いた直後の女によくできるね……?」
「いくらでもできるぞ、流石にお前以外には無理だが」
 もう一度、口を濯ぐ。今度は、頭に痛みが湧き出てくる。完全に二日酔いになる流れだ。
「あー、ごめん、ほかり、」
「篤、でも良い。折角呼んでくれるなら」
「ああ、あつし、うん、今、頭働かないから、もう明日でも良い?」
「ああ、構わない」
 そう言うとあつしは、私の腕に肩を貸して起き上がらせ、ベッドまで引き摺って行ってくれた。そして、ぐんにゃりとベッドに倒れ込む私を仰向けにひっくり返し、身体の位置を整え、布団をしっかり肩まで掛けた。
「安心して寝ろ、お前が寝付いたら戸締りはしていくから」
 頭の中でがんがんと響き出し始めた痛みと一緒に、穂刈がわざわざ飲み会についてきた理由だとか、穂刈がいつも世話を焼いてくれる理由だとか、あつしが色々言ってたこととか、たくさんの起きたら考えなくちゃいけないことがぐるぐる巡る。
「冷蔵庫にゼリーも入れてある、朝食として」
 あつしの手が、おでこに乗っかる。温かくて大きい手、いつも私を安心させてくれるそれが、心地良い。だんだん、瞼が重くなって、きた。ゆっくり、まばたきをする。
「あり、がと、いろいろ……と」
「仕方ねえなあ、おまえは」
 篤が笑うように呟いて、頭を撫でる。時々手櫛も入れながらゆったりと流れるその感覚に、私はほうっと、ため息をついて、意識を手放した。


あとがき
穂刈のことを愛の重いスパダリだと思っている(211210)


よかったなあとかあればポチッと→ ❤❤❤